見よ、一つの手があって、わたしに触れた-9月9日2018英語説教(最終回)

Sunday Service September 9 2018 Rev Hyung Jin Moon Unification Sanctuary Newfoundland PA on Vimeo

9月9日2018英語説教

翻訳:BAMBOOS

我々は全員がアノインティングを受けるわけではありませんが、明確な方法で取り組みます。神様の霊が届いたらその人はそれを神様と共にやり遂げる必要があります。神様との時間が必要なだけです。神様と共に過ごす時間だけなのです。その人の人生に何が起きているかは分かりません。彼らの内側に隠されていて共有されていないことについては全く見当が付きません。

彼らは深刻な危機に直面していたかもしれません。だから神様のタッチ(触れること)が必要なのです。克服するためにそのタッチを必要としており、神様と再接続する必要があります。それは私でも、あなたでも、彼らのために祈る誰かでもなく、必要なのは神様のタッチなのです。アーメンですか。

私に頭を叩かれる必要はありません。みなさんに高く引き上げられ、癒しを行っているような様子を見せる必要もありません。違います。必要なことは神様の働きの道具となろうとすることだけです。すると神様は彼らのために祈り、手を当てている人を通してその人にタッチすることができるのです。

それは神様が集中的な手術を行う必要があるためかもしれません。その人に手術が必要でがんを取り除く必要があるのかもしれません。肉体のことを言っているのではありません。肉体の癌である場合もあるでしょうが。

奇跡的な癒しがありました。チーフは肉体の癌が癒されました。神様は超自然の癒しを与えます。さあそのことについて神様を賛美しましょう!チーフは医者の出した診断書を持ってきました。彼が証しをしたのを見たでしょう。

しかし他に心の癌に取り組んでいる人もいます。とても大きな心の傷を何とかしようとしています。子供にも誰にも話しません。彼らが取り組んでいることをみなさんは知りません。人々を見て、神様が働いているのを見る時、我々はただ彼らがその領域で神様と共にやり遂げられるようにしてあげなければなりません。ただ神様に彼らをタッチしてもらい働いてもらうだけです。

自分のためではありません。「あの人はそれをしなかった」「あの人は大声で叫ばなかった」(と言いますが)、死体のように静かである場合もあり得ます。そして神様は手術をしています。大声で叫ぶ人もいます。神様の霊が届くと異言を話すことがあります。笑い出すこともあります。それは分からないのです。しかしおそらくそれがその人の必要としていることなのでしょう。

内側から大きな笑い声を出す必要があったのかもしれません。余りにも日本人的であったり、韓国人的であったりして、頑固であったのかもしれません(笑)。発散する必要があったのかもしれません。

霊の贈り物が与えられ、アノインティングの贈り物が与えられる時、神様の霊が働くように、彼のする通りにさせてください。その人を裁かないでください。神様が働いていることをただ喜びましょう。キリストを中心としており、イエス様を中心としているからです。再臨されたイエス様を中心としたものです。

神様の霊には力があります。我々が見ることのできない力です。神様が人に働く必要がある時はそのようにさせなければなりません。神様が働くままにしなければなりません。神様の霊が来る時は神様が働くままにしなければなりません。ハレルヤ。

神様が人々に与えたいものは、何であるか知る必要がない場合があります。しかしそれは彼らがまさに受ける必要のあるものなのです。

目を閉じて頭を下げてください。神様の霊はとても強力です。目を閉じてください。誰にも圧力を感じて欲しくありません。神様の霊はとても強力です。
 
(聖霊の役事中の祈祷)
 
今までに自分の人生をキリストに捧げたことがないのであれば・・・。ここで私たちと行うのは初めだったかもしれません。質問させてください。もし今日があなたの死ぬ日であったなら・・・もしかしたら家に帰る途中で交通事故に遭うかもしれませんし、大変なことが起きて今日死ぬことになるかもしれないのです。

あなたは自分が救われたという確信がありますか。今夜息を引き取るとしたらどこへ行くでしょうか。永遠に神様と離れてしまうのでしょうか。もしかしたら神様を避け逃げてしまうのでしょうか。もしかしたら神様を心の中で拒否して自分の心を神様に捧げないのでしょうか。決して服従せずに。

もしかしたらその機会を与えられなかったのかもしれません。今日がその日です。聖書では天国に到達することはできるし、地獄は避けることができると言っています。その永遠の離別から抜け出す道があります。それはあなたの人生をキリストに捧げることです。

あなたもその範疇に入るのであれば今日あなたのために祈ります。またあなたがこの場所に来て、誰もあなたの状況について知らないのなら・・・もしかしたら体の中に腫瘍があるかもしれません。あなたはかつて神様に対して火のように熱かったのに、心が冷たくなり疲れてしまっているかもしれません。

聖書でイエス様は、「私のもとに来なさい。・・・わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われています。だから私たちが自分を主に捧げる時、その重荷は除かれて、軽く、しかし強いくびきが負わされます。それがあなたであり、私たちはこの祈りにあなたを含めたいと願っています。

もしかしたら最近心の傷になるような出来事があった人がいるかもしれません。災害や自動車事故かもしれません。急病かもしれません。医者があなたに何か悪い知らせをしたかもしれません。もう回復しない、死んでしまうといったことを。神様は私たちの医者であり、神様は究極の治療者です。神様に最終決定権があります。

それは突然の状況で大きな変化かもしれません。トラウマやほとんど危機的な状況。親友の裏切り、失業。何であれ神様は知っておられます。私たちは知りません。人間には分かりませんが神様は知っておられます。あなたがその範疇に入るなら私たちはあなたのために祈りたいと思います。

最後に悪魔があなたを悩ませている場合です。悪魔がキリストによるあなたの救いを疑わせ、キリストとのつながりを疑わせようとしているなら、あなたのために祈りたいと思います。このような範疇に1つでも当てはまるなら、目を閉じて手を高く上げてください。人には見られません、圧力はありません。下ろしてください。

キリストに対する献身をみなさんと一緒に告白したいと思います。キリストに対する真の愛を持って、この祈りを唱えたいと願うのです。全員立ちましょう。手を挙げた人は前に出て。あなたのために一緒に祈りたいと思います。

あなたの人生をキリストに捧げることは人生で画期的な出来事です。再び献身することも画期的な出来事です。あなたが経験しようとすることはあなた以外誰も知りません。誰も知らず、私も知らず、彼らも知りません。牧師も知りません。司祭も知りません。神様だけが知っています。今日あなたと祈りたいと思います。

右手を天に向けて上げてください。そこからあなたの祝福と救いが来ます。私たちは告白し、神様に屈服します。今日はあなたの日です。明日でも昨日でもなく今日です。今日があなたの解放の日です。今日はあなたの解放の日です。非難と恥からの自由です。私と一緒にこの祈りを唱えてください。

お父様、私たちはあなたの尊い息子であるイエスの名においてあなたの前に来ました。あなたのみ言にはこうあります。もしイエス・キリストが私の主であり救い主であり、死人の中から蘇ったと心に信じ受け入れるなら、私は救われるのだと。

今日私はキリストが私の主であり救い主だと告白し受け入れます。そのみこころに服従します。そして彼が死人の中から蘇ったと信じます。私を新しくしてくださり、私を満たしてくださり、私を用いてくださり、清め洗ってください。私を二度と以前と同じにしないでください。今日は私の解放の日です。

神様のみ言では、私たちは次の告白もすべきだとしています。一緒にしましょう。

私は告白します。イエス様は肉体を持って来られ、キリストは肉体を持って来られました・・・罪人を救うために。私は世の中から離れ、罪に背を向け、イエス様、あなたに従います。私は王国まであなたに従っていきます。私の人生をあなたに捧げます。

あなたは私の治療者です。あなたは私の救い主です。あなたは私を自分自身から、また悪者のたくらみから救ってくれる方です。神様、この日私を用いてください。この日あなたのみ言で私を満たしてください。今日私に火によって洗礼を与えてください。あなたのために私に火をつけてください。

私に国々を揺さぶるようにさせてください。私に町々を揺さぶるようにさせてください。私に世界を揺さぶるようにさせてください。自分の栄光によってではなく、あなたの恩寵によって、またあなたの栄光のために。すべての賛美と栄光と称賛をあなたに捧げ、イエスの名によって祈ります。アーメン。そしてアージュ、それは私が所有するという意味です。

おわり

PDF Google 検索 (1)

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村

コメントを残す