2019年4月21日英語説教(1)

2019年4月21日 日曜礼拝 英語説教

翻訳:BANBOOS

良い行いが救いをもたらすのではありません。しかし、ヤコブが語ったように・・・。我々はヤコブについて驚くべきことを発見しています。ウィリアムズ博士と我々は原始キリスト教について研究しました。

ヤコブはイエス様の兄弟でした。ヤコブを中心としてできた初代教会も王国としての教会を作ろうとしました。ヤコブは実際に王冠をかぶっていました。

ヤコブの信条は信仰だけによるものではありませんでした。ヤコブの手紙の中で彼は、行いのない信仰は死んでいると書いています。それは信仰だけを重視する人たちを動揺させるものです。

「行いは必要ない。一度救われたらずっと救われるし、神様の前でいつでも罪を犯してもいい。それでも救われる」というような考えの人たちのことです。

それは違います。救いが失われることはあります。それでヤコブは行いのない信仰は死んでいると言っているのです。なぜなら、キリストを信仰しているのであれば、内面からすっかり転換されて、自然とキリストを喜ばせることを行うからです。すると行いが出るようになります。

行いで救われるのではありませんが、行いは信仰の証なのです。

良い行いによって救われることはありません。私は良い人間だから神様が救ってくれる、というのが救いではありません。善人だといっても神様の前で罪を犯したからです。我々の上にある法、十戒を破りました。神様の名前をみだりに使いました。

私はヒトラーほど悪くはありません、と言いますが、ヒトラーと比較するのではなく神様と比較するなら問題です。神様があなたをご自身と比較する時に大きな問題となります。

神様の前で落ち度のない人は誰もいません。子供の頃に何か盗みました。一日中嘘を言います。「今日の私はどうかしら?」「とても素敵だよ」。それも嘘です(笑)。

神様の神聖さに照らして正直になるなら、誰も罪がないとは言えないのです。善行は救いをもたらしません。良い行いに神様が感銘を受けるということではないのです。

アリが「砂で城を作ったから見てくれ」と言っても、1ミリメートルのものですからアリにとっては大きな成果であっても、2粒の砂を上から見ている人にとっては大きな成果ではありません。神様は、我々とアリを比較するよりもどれだけ偉大でしょうか。

神様は我々のやることに感心しません。良いことをしたことで救われるということはありません。自分の罪を告白して悔い改め、神様を心に受け入れ、「あなたを頼りとして信頼します」「私の命を捧げます」と言う時に救われるのです。

それから良い行いをすれば、神様は喜ばれ、刺激を感じられます。感動されます。それはあなたが自分の行いを自慢しようとせずに、ただ神様を喜ばせるためにやろうとするからです。

しかし興味深いことに、初代教会のことを調べてみると分裂のようなことがありました。過激なパウロ主義が存在しており、信仰だけだと言っていたのです。パウロはそうは言ってはいないのに、極端になってしまったということです。それで、行いはなくてもいいし救いは永遠であり、神様から離れることはないのだと言うのです。堕落の時でも完璧な環境にいて、神様と直接の関係を持っていたのに神様から離れました。

しかし、初代教会のヤコブの教会では信仰だけに集中せずに・・・キリストにある信仰を信じていたのですが、慈善的な行いも必要だと考えていました。隣人を助けなければならないといったことです。それが信仰の証拠となります。外に出て証しをしなければなりませんでした。自分の信仰の証しとなる行動の証拠があるということです。

ポール(ウィリアムズ)博士が発見したのですが、マルティン・ルターはヤコブが嫌いだったという引用を見つけました。彼は実際ヤコブの手紙を取り除きたいと思っていました。行いのない信仰は死んでいるという考えが好きではなかったからです。

ヤコブはもちろん信仰を説いていました。しかしまた、自分の生活を転換しなければならないとも教えていました。酒におぼれ続けたり、売春婦と罪を犯し続けたり、ポルノを見続けたりしてはいけないのです。行動を変えなければなりません。

信仰さえあれば何をやっても良いという過激なパウロ主義によって、教会に多文化主義的な異端が持ち込まれました。一度救われたらずっと救われたままなのだから、ゲイになろうとトランスジェンダーになろうと、小児性愛者になろうと、何でも好きなことをしなさい、ということです。

そして極端な万人救済論にまでつながります。10人の子供をレイプして人身取引した人も、貧しい人のために働き共同体を守っている人と同じように救われると言うのです。極端な万人救済論者は悪魔崇拝者も救われると言います。

イエス様の犠牲は非常に偉大なものなので万人が救われるということです。もちろんこれは全くの異端です。自由意志を排除しているからです。

人は、神様に従うか神様を拒否するかを選択することができなければなりません。(万人救済論には)責任がありません。

興味深いと思いませんか。我々はそれを発見しました。それは隠蔽されていたのです。これが明らかになることで原理に光が当てられます。なぜならお父様は5パーセント(の責任分担)のことを語られました。誰もが自由意志を持ちます。5パーセントの責任分担があるので神様が全てを行うことはできません。

神様は全てを行われません。それは我々にとって良くないのです。我々は5パーセントの責任分担という贈り物を与えられています。

これが初代教会で大きく議論されていました。ヤコブの教会では王冠を被っていました。

ウィリアムズ博士は実に、我々は実際に最初の教会であったイエス様とヤコブの教会だと言っていました。もちろんヤコブは殺されました。特にローマ帝国の支配下では、王冠を被ることで彼らを怒らせたのです。

(つづく)

2019年4月21日英語説教(1)」への5件のフィードバック

    • PlayerOne の発言:

      以下の理由からマルティン・ルター(ドイツの神学者)と解釈していますが、それでも間違っているという根拠がありましたら教えてください。

      1. キング牧師のミドルネームまでとマルティン・ルターは英語での発音は同じだが、Kingをわざわざ省くのは普通では考えにくい。
      2. 文脈上の理由から。ヤコブの手紙を軽視したという話はルターがカトリックに対抗しての取った信仰義認説の考えにも合致しており、実際にヤコブの手紙を「藁の手紙」と呼んだというエピソードも複数のソースで確認できた。

      以下は参考にしたソースの一部:
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E7%BE%A9%E8%AA%8D
      https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-book-James.html

      いいね

コメントを残す