2012年6月7日ラスベガス、天和宮 (訓読会)
‟ 女性の使命は夫についていくことだ。夫の為に生きなければならない。そうしなければエデンの園の理想が消えてしまう。男、女、家庭、天、地のすべてがなくなってしまう。 ”
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2016年3月27日に開催された麗水聖殿(サンクチュアリ)の奉献式。写真中央の李サンヨル協会長の向かって左隣の女性が麗水の女性キャプテン。
亨進ニム(3月27日礼拝から)
“ イ・サンヨル協会長の隣にいる女性をご覧下さい。
彼女は日本人ですが、麗水(ヨス)でボートに乗る時いつも一緒に乗り込んでいました。それもそのはず、彼女はボートのキャプテン(船長)でした。お父様が釣りでボートに乗られるときいつも一緒に乗っていた女性です。
麗水の中心的メンバーである彼女が
と言ってサンクチュアリに来たと聞いて私は大変驚きました。”
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今日は,正義の王国ということについてお話ししたいと思います。
天聖教202ページ(英語版)を見てみましょう.
“神様は,アダムとエバの両方とも完成させうることを願ったのです.
このようになれば,神様は二人とも収めて持つことができるという言葉も.
成立するのです.”
この事から,お父様はお母様を長成期の完成級まで連れて行かなければならなかったという事がはっきりします。.
完成するためには,最後は自分で決めなければなりません。
誰かがあなたのために決定することはできません。誰かが決めることができたらいいのですが、残念ながらそれはできません。
お父様のみ言に 、2013年迄にお母様は完成しなければならないとあります。お母様は、お父様に従ってこられ、お父様が重要な摂理的な決定をされてこられました。
お父様が地上におられなくなった時、ここで初めてお母様がご自分で重要な決定をしなければならなかったのです。お母様の生涯ではじめて重要な摂理的決断をしなければなりませんでした。
ちょうど善悪知るの木の実のように、善悪のどちらかを選ばなければなりませんでした。
力を選ぶでしょうか?愛を選ぶでしょうか?権威を選ぶでしょうか?血統を選ぶでしょうか?地位や自分が崇められることを選びますか?神様を崇拝する事を選びますか?
これは本当に基本的な選択です。自分の為に生きるのか、神様の為に生きるのか、そこに行き着きます。それが善と悪の違いです。
ですから、ここでお母様は決めなければなりませんでした。自分の為に堕落する事ができない女性となる為に、自分の意思によって選ばなければなりません。力と権威が手に入るとしても、私はそれを選びません。それより重要なことは 、私のメシアに対する愛です。そして、彼の血統です。
多くのお母さん方には、理解できないでしょう。私はただ息子をサポートして “行って自分のやりたいようにやりなさい”と言うのにと思うでしょう。
それは、殆どのお母さんはお金も権力も拝められる事も無い普通の人々だからです。5億ドルやあなたの為に走り回って崇拝する人やあなたからいつも盗もうとしている人など、周りにないでしょう?
子供を育てて、仕事をして、普通の物事を抱えて生活していますね。
それが、最高の力があると話が変わってくるのです。
お母様は、最高のサタンの誘惑を拒絶しなければなりませんんでした。
イエス様が荒野でサタンに、この王国の全てを、全ての権力をあなたのものにできますよ。ただ私の前に屈すれば、全てあげますよと試されました。
それと全く同じことです。
神様との契約をとるか、サタンとの契約をとるかの選択です。
そうでしょう? サタンに試されている時にサタンとの契約を取れば、それで終わりです。たった一度の選択です。その時だけです。とても早く終わってしまいます。 もちろんそれが起こりました。お母様は、地位と力と権威を選んだのです。文字通り目が飛び出すようにして私には絶対権力があると叫んでいました。愚かな韓国ドラマどころではありません。そのような光景は見たことがありません。私と国進様の口は、開いたままふさがりませんでした。現実のものとは思えませんでした。
ですから、選択です。善と悪との間の選択をしなければなりません。
これらのことが、小世界と大世界で起きています。同じ状況です。例えば
アメリカが18,19世紀頃世界に約束していた内容を見てみましょう。
文字通りアメリカは、東ヨーロッパやその他の国々からの移民にとって
まさに天国でした。1日につき2.3セントしか作れないそれらの国から、アメリカにくることによって、週に30ドルも作れるようになりました。多くの自由があり、政府がストーブではまきを燃やしてはいけないとか、税金を払わなければ呼吸できないとか言いませんでした。
あなたは自由です。家族を育て、自由に作物を作り、あなたの土地に許可なしに自由に自分の建物を建てることができます。
信じられますか?アメリカがそのようであったことを!社会主義のようになった今では想像に難いです。今は落ちぶれてしまいましたが、そのころはそうではありませんでした。ですからアメリカを見ても判るように、その頃のアメリカは長成期の完成級でした。天国のすぐ近くでした。あなたは自由な存在ですが、責任を持っています。これは、巨大化した福祉国家になる前のことです。人々が責任を持っていた時のことです。橋をただ燃やしてしまう事は出来ません。橋と人間関係によって、ビジネスが上手くいかない時あなたは助けられるのです。友人や家族や教会などのコミュニティーがあなたを支えるのです。大きなおやじさん政府(big daddy government)がお金をくれるのではありません。勿論お金がほしければ、離婚届けや他の証明書を提示しなければならないなどのいろいろな手続きはありますが、、、。
今とは違って、当時のアメリカは長成期の完成級であり、メシアを迎え世界にメシアを宣べ伝える事が可能な摂理的なローマのような準備された国であったとお父様は何度も言われました。しかしながら、いくら長成期の完成級レベルであったとしても堕落する可能性があります。同じことがお母様にも言えるのです。なぜなら、まだ完成していなかったからです。アメリカも堕落する可能性がありました。アメリカは大きな罪を犯しました。
人々は、この事柄を結びつけて考える事は出来ないと思いますが、国進様はできたのです。文字通りアメリカは世界から人々が来ることが出来る偉大な国だけれども、一つの大きな罪を犯しました。それは奴隷制度です。奴隷制度のために遂には、Amendments (法令の改正)という過程が現れました。その為に、ビックマネー、ビックパワーが政府を買って法律を作りはじめました。1913年の金融流通規制制度です。社会主義的なお金が入るようになると、ほとんど終わりです。そこから落ちていきます。アメリカの没落です。限りのない負債をかかえながらも、費すという悪の循環です。福祉が少数人種を破壊しています。それが今のアメリカです。
完成期においては、落ちる事ができません。修正案は何かというと、1930年代に大きなお金を使って権威を買い取り法律を変えようとしました。天一国の憲法には奴隷制度はありません。ですから、修正案もありません。天国には天法を変える事はありません。あなたが変えたいからといって神の法を変えることはできません。
例えばの話ですが、もしベビーブームの時に生まれた子供達は裕福になり、専門家になります。
一世は一生懸命働いて、二世は少し生活が楽になります。そして、医者や弁護士になります。3世は万物が豊かな環境に生まれますので、親の苦労が分かりません。3世は豊かな物の中で大きくなります。責任がなくなり、自分が住んでいる所が誰が作ったか分かりません。自分のお爺ちゃんが作りました。豊かさが子供をダメにします。ベビーブームに生まれた子供達は、お金の力を使って、只、お金だけに支配されて社会主義者となります。マルクス主義になります。というのは、ベビーブームの子供達は、教授になったりします。現実の仕事をしたり自由市場で競争したがらないのです。大学という社会主義の中でそして背後で銀行などの融資家が、支配します。後で崩れてきます。ダメになった世代がやって来ます。天一国では天法を変えることはできません。ダメになった子孫達が来た時、法を変えることはできないのです。勤勉の価値を知らなければいけません。大きな政府をつくることはできません。GDPの10%以上にすることは法に反します。環境保護を政府がやるのも不法です。人びとが環境を守るのです。政府ではありません。
中央銀行も天一国では不法です。
世代を超えて自由と責任の価値を学ばなければなりません。与えられるお金に責任を持てなければ全て失ってしまいます。傲慢になり怠慢になり親のお金を無駄に使うなら、貧乏になります。無責任な態度に直接責任を持つことになります。
そこでは、繁栄をもたらす為には約束を守ること。正直さ、勤勉さ、道徳を守ること、人の為に生きる事で、契約を守ることであなた達の家庭は祝福が与えられます。3セントでインドで働いたら、ここでは一週間で300ドル稼ぐことができます。大変な貧乏の中から出てきても、新しい人生を出発できます。人々は頂上から始めるのではなく、下の底から始めます。そして次の世代がよじ登ってくるのです。機会が与えられます。社会主義ではコネがない限り、機会はありません。奴隷です。
それゆえ完成級の憲法には新しい過保護の世代のためにチェックアンドバランスが必要です。
新しく数10年経った世代にとって、自由と責任が強調されます。
あなた達は隣人を愛します。私が警察官になって守るのです。政府の警察とか軍隊ではありません。人びと、あなたが隣人を自分のように愛するのです。もし、隣人が強姦されようしている時に、私が行って助けてあげるのです。自分の隣人、兄弟を守る責任があるのです。
誰か他の人に任せるのではありません。私たちがその責任をとるのです。自由な人が責任をとるところです。
イエス様はひっくり返った王国の話をしました 。本当に理解できますか?社会主義がわかりますか?共産主義がわかりますか?隣人を愛する事ができますか?社会主義において敵を愛することに価値を見出すことができるでしょうか?できません。不可能です。
社会主義者は嫉妬深い組織です。嫉妬のシステムです。自由に機会があたえられるようなものではありません。様々な階級を作る組織です。
本当に自由な所とは、自由に交換でき、勤勉で正直な人たちと信じる人たちと共に働けることを選ぶことができる所です。大きな会社で働くようなことや特定の人たちと働くことを強いられるようなことはありません。
本当に自由のある所には競争があります。競争の意味がわからない人たちはいつも社会主義に傾きます。若い時から競争することをしないからです。スポーツとか様々なことでで競争をしないと自然に競争することは悪い事だと思っています。
小さい時から競争すれば、競争というのは必ずあなたを高め強めてくれます。競争は人間の本質を高く実現させてくれます。
実際、本当の自由の市場では、イエス様は自分の敵を愛せ、自分を迫害するもののために祈れと言っています。本当の自由の市場では、きちがいじみているかもしれませんが、敵を愛するのです。競争相手を愛する、なぜなら競争相手があなたに、彼らがより良い製品を作ることにより、あなたに、さらにいい商品を開発させざるを得ないようにしてくれるからです。そのようにしてあなたがもっとお客さんのためによりよくためになれるのです。そしてお客さんがもっと買ってくれるようになり報酬を受けるのです。ですから、あなたは実際競争相手に感謝しなければいけません。柔術でも敵に感謝することが必要です。あなたの尻を叩いて、恐れさせ、努力させ、自分の最高を出させます。
競争相手があなたの弱い所を突っ込むんで、あなたを滅ぼそうとします。ですからあなたは本当に一生懸命やるのです。彼らは強制的に、あなたを考えることもできなかった人にしてくれます。
真の競争、自由なビジネスにおいては真に成功する人は、敵を抱擁します。
独占主義者が競争を嫌うのです。ですから彼らは大きな政府が欲しいのです。政府に力をもたせて、競争相手を殺したいのです。それが社会主義、共産主義 の考えです。自由と責任の土地では実際にはアップサイドダウンの王国がおこっています。クレイジーですが敵を、競争相手を愛さないといけません。迫害するものを愛するのです。あなたをよく、強くしてくれます。
私たちは誓いについて今話しています。契約を守ると言う事です。創世記25章、皆さんはこのところを見た事がありますか?
創世記25章
24:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。
24:2 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。24:3 私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。24:4 あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」
“手を股の下に入れる”と有りますが、何人の人がこの事を聞いた事がありますか? おかしな事だと思いませんか? リチャード、私の手をあなたの股の下にいれさせてくれませんか? これはちょっとおかしな話です。ではヘブライ語で股と言う言葉を見てみましょう。ロインとかサイドとかベースと言った意味です。神様に携わる人々においては、契約を結ぶと言う事は真剣な事です。股の下には何が有りますか? 股の下という意味は性器と言う意味です。アブラハムが契約を結んだ時、カナン人の娘を息子の妻としてはならないと言いました。ここに来て 誓いなさい、手を股の下に入れて。これは真剣な話です。通常では股の下に手を入れません。
聖書を勉強する時に用いる一つの方法は聖書自身を用いる事です。聖書で股はどの様に使用されているのでしょうか?主が帰って来られる時に3つの性格を持って再臨されます。新郎、裁判官、王様、です。明らかに 新郎新婦と言う事は性的契約に関係しています。黙示録第19章を見てみましょう。
13節、
彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。
19:14
そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。
19:15
その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。
19:16
その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。
これはイエス様が再臨される様子です。注意して見てください。イエス様は裁判官として来られ、サタンの諸国の民を打ち、鉄のつえでサタンの諸国を治めます。そして ももに“王の王、主の主”と名がしるされています。旧約聖書で契約がいかに真剣な事であるかと言う事を理解すると、 再臨の主を証明するものがももであると言う事です。これが 原理本体論の核心です。神様の種子です。股の下に神様の種子を持って神の王国を築きます。
再臨主は3つの性格を持って来ますが、ここで、裁判官と言うのは、唯単にあなたは良い、悪いと言うだけでは ありません。これは政治的裁判です。これはとても重要な事です。そして 黙示録によれば、軍事的でもあります。現在の国々の政治的裁判です。私たちは福音を見る時、政治的な面を忘れがちです。これまでの2週間で、福音を勉強しました。イエス様ご自身が定義されている福音は 十字架ではなく、復活でもなく、復活祭でもなく、復活祭のうさぎでもなく、神の王国です。そして、王様として来ます。
真のお父様が来られて、新郎として確立され、祝福を授けられました。そして、サタンの国を裁判されました。共産主義と集産主義とUNも含めて全ての国を裁判されました。真のお父様がどうしてこんなに政治に関与されたか不思議に思った事は無いですか? 分からない理由は福音は政治的である事を知らないからです。王国と王国の戦いです。神様の世界がこの世界に来て、支配するのです。大いに政治に関与しています。三番目には 神様の天一国を確立されます。そして そこから天一国の憲法が設立されます。
この2〜3週間に次のような聖句を学んできました。
マタイによる福音書
6:33
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
10:7
行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。
ルカによる福音書
4:43
しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。
マタイによる福音書
4:23
イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
十字架ではなく、神の国の事を伝えよとイエス様は言われました。十字架上における贖罪と復活は全人類への素晴らしい賜物と救済ですが、それはイエス様ご自身が伝えられた福音ではありません。福音は神の国の宣教です。原理講論はまさに的を得ています。神様の息子の第一の目的は死では無かった。それは第二のコースでした。神様の息子自身がこう言っています、神の国の福音を宣教しに来たと。
マルコによる福音書
1:14
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガラリヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、
15 時は満ちた神の国は近ずいた、悔い改めて福音を信ぜよ。
マタイによる福音書
9:35
イエスはすべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
マタイによる福音書
24:14
そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
十字架とか復活の力を否定しているわけではありませんが、それらが福音ではなかったのです。イエスはこう定義しています。
福音が国々に宣べ伝えられる時に終わりが来るのです。終わりが来るのを待っているのではありません。人間の大きな責任分担がここにあります。とても大きいものです。その後に終わりが来るのです。我々が王国を宣べ伝えなければ、終わりがないというのです。
私たちが宣べ伝えなければ、暴政や奴隷制の繰り返しが終わらないのです。
私たちは考えられないような時代に生きています。
宮殿とかベルギーで起こっていることとか、本当に狂っています。
私たちは王国には住んでいません。韓お母様が言われるようにはなっていません。
3年前に申し上げました。神様に背を向けたら、何がおこるか、どうなる、どういう責任を負わなければなくなるか言いました。摂理的に重要なことでした。不幸なことに、惡い方向に向かっていく始まりになってしまいました。
しかし、我々世界中のサンクチュアリーはとても特別な物を持っていると思います。我々は信者のコミューニテイーですが王国を見ることができるのです。艱難の時であり、まだサタンの王国の時代であるかもしれませんが、来たるべき神の王国を見ることができるのです。それは、大きな違いです。エバンジェリカルクリスチャンをも含む世界中の多くの人びとは見ることができないのです。彼らは御国のために、御国が来ることを祈りながらも、その国がどういうものなのかわからないのです。再臨のメシアに会わなければいけないのです。そして王権により王国に来なければなりません。接ぎ木されなければいけません。そして彼らが待っていた王国に引き上げられなければなりません。
我々が進んでいくにあたって、何を得ていくのか、王国、に焦点を合わせる必要があります。艱難の時ですが、必ず王国は来るのです。
サタンの暴政は確実に終わります。神の民、神の子たちは共同相続者になるのです。
キリストと共同の相続者です。
王の権利とは何でしょうか?考えてみてください。
王は領土において権利を持っています。王は王国を持っています。そうでしょう?あなたは王国に税をかけることができません。それが王国であれば税をかけることができません。他の何者かが自分たちに王国を使うことに対してに負債があるなどということはできません。
王国においては天一国憲法を理解するなら、その王の権利はすべての市民の権利であることが分かります。自らの領土における主権を持つのです。そこには強制的に税をかけることはできません。
王国では領土がありますが、それを守る手段を持ちます。王であるのに領土を守る手段がないということはあり得ません。そうでなければヨーロッパのように浮浪者や盗賊に襲われて、乗っ取られてしまいます。ですから、王として王国を守る手段が必要です。
過去にはその権利は王にありました。天一国においてはその権利はすべての市民にあります。
イエス様はあなたたちは御国において私と共に共同相続者であると言われました。どうしてそれが可能になるのでしょうか?もし全てを中央政府が所有しているとするならば、どうやって我々が王国の共同相続者であるといえるでしょうか?それは不可能です。それは奴隷です。
天一国では私たち一人一人が王の権利を持つのです。
私たちは天国を見ることができます。天一国には王と女王の王国があります。王国同士の自由な交流があります。王の王によって統一されています。王政が神様と市民の契約を守るのです。すべてのキリストの体がその王国の顕現を待ち焦がれているのです。
彼らはアメリカが失敗したことを知っています。今はもう否定することはできません。神の王国がこなければいけません。そして、世界中に広がっていかなければならないのです。人びとを奴隷にするためではなく、人びとが神の子になるためにです。世界の相続者になるためです。すべてがつながってきます。
再臨の新郎でありすべての惡を裁く審判官であり王の王である我々の真の父、文鮮明と神の種の血統によってです。
みんなで立って神を讃えましょう。
御国が来ますように、みこころが天に行われる通り、地にも行われますように。
Special Thanks to the Translation Team in the US.
12:46イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。 12:47それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。 12:48イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。 12:49そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 12:50天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
Eric Franco氏のFacebook投稿より
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2014年2月2日、まだニューファンドランドの自宅で礼拝をされていた頃のものです。
(写真をクリックすると動画にリンクされます)
お父様が下さった最後の2年間は本当に貴重な時間でした。
ただ一緒に過ごしたときが問題ではありません。
人を介して理解していたお父様の姿と、日々直接、接する生活の中で知るお父様の姿は全く異なるものだということに気付きました。会議だけでなく、部屋に入って着替えを手伝ったり、お風呂にお入れしたりする中でのことです。お父様と生活したのです。
そうする中で見たお方は律法の神ではありませんでした。
それとはまったく違う神さまのお姿です。
恵みと赦しの神様です。
迫害する者を切なる思い出赦そうとするお姿でした。
心の中ではすでに許しておられるのです。
時に、私自身の理解を超えた世界を示されるのです。
酷いことをする人々に、さすがに私も「お父様なぜこのような人を許されるのですか」と思うときもありました。お父様は許して愛されるのです。想像を絶するほどです。
もし法で裁くお方ならあり得ません。即座に罪を裁かれるでしょう。そうでしょう。
私や家内が体験したお父様は…
お父様の近くにいるリーダー達はそれを体感しています。近くにいる指導者たちは、そのお父様の愛と恵みを体験しています。その恩寵が一般食口まで伝わって行かないのです。側近たちは誰もが身をもって体験していることです。お父様に許され、愛された体験があるのです。お父様の数多くのプロジェクトに直接関わっていますから。
皆さんは遠く離れたところから彼らを見ています。まるで半神か何かを見るように…。その体験が神様の子女である皆さんにまで伝わっていきません。
何という罪でしょうか。
長い間、お父様と実際に関わる中で教育されてきました。確かにお父様はパワフルですし、激怒されることもあります。しかしその怒りは悪に対する、いわば「法的異議申し立て」なのです。そうです。悪に対する「法的異議申し立て」をされるのです。
同時に信じられないほどの愛と信じられないほどの恵みをもっておられます。それを表現することができません。それが欲しくてたまらなくなるのです。ですから、もう身をもって体験しないと満足できなくなるのです。それが伝え聞くお父様と、身をもって体験するお父様の違いです。
私自身もそうでした。
他の人がお父様から受けた愛を伝え聞く、受けた人が解釈するお父様の愛を学ぶ、これではお父様を真に理解することはできません。「私はお父様にこのように愛されました、皆さん覚えておいて下さい」…これでは教訓にすぎません。
「お父様からこういう愛を受けたました。皆さん覚えておいてください。」この言葉の背後に「自分が教えを守ったから、その見返りとして(当然の報酬として)愛を受けた」こういうメッセージが潜んでいるのです。
そのような話を真に受けることでどれほどお父様についての真の理解が歪められるかというのです。どれほどの誤解が生じるか分かりません。
お父様が罪人、売春婦、マフィアのボスなどを祝福された時「お父様、何をされるのですか。おかしいとしか思えません。この者達はお父様を信じてすらいません。私は30年間信仰してきました」。「私は祝福のため命じられた条件をすべて立てました。なのに、どうしてこの者達を祝福されるのですか?」。そしてこう言います。
「彼らが受けた祝福は我々が受けた祝福とは違う格下の祝福だ。私が受けたものこそ真の祝福だ」。
しかし神学的にその物言いは間違っています。そのようなことは言えないのです。彼らも等しい価値の祝福を受け、神様の子女として天国に入るのです。
これは驚くべきことです。どう考えても不公平です。
そうでしょう。全くもって不公平です。神様の恵みは不公平なのです。むしろ、不公平だからこそ恵みがわれわれすべてに注がれるのです。
神様を讃美しましょう!
*字幕を一部編集しました。
この説教を是非Family Fraudの教育成長研究院の先生方に
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今日はみ言を深く掘り下げたいと思います。
キリスト教の世界では教派にかかわらず「福音」とはイエスキリストの誕生、十字架、死そして復活というのが一般的です。ヨハネの福音書3章16節はその理由を「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを得るためである」と述べています。
もちろん十字架上の死と復活による救済を否定しようとは思いません。十字架路程によって救済はあたえられ人は救われました。原理的には2次的救いではあるにせよ、それを信じる者に救いをもたらしたのです。それゆえにキリストの救いのメッセージ、十字架の苦難、復活による死の克服は真実です。それが誤りだとは言っていません。
しかし、ギリシャ語でいうエバンゲリオ(ευαγγέλιο)つまり「福音」を私たちが語る時、イエス様がそれについて直接語っている言葉を見てみなければなりません。宗教としてのキリスト教信徒のみならず真にキリストに属する者にとってこれは重要なことです。
まず天聖教をみます。
天聖教P130(英語版)
神様は絶対的な父であり、絶対的な真の父母、唯一、不変、永遠の真の父です。
・・・・侍義(じぎ)というのは、生活化天国時代を言います。それで待義を掲げてきたの です。復帰歴史は何かといえば、神様の創造理想(神の国)を実現することです。
お父様は王国と三代王権について語られました。お父様にとって地上天国建設が目的でした。王国は宗教ではありません。その王国は政府などの政治機構を持つものです。
お父様はワシントンタイムズを創刊し、国連に働きかけたり、カインUNでは駄目だとしてアベルUNを創ろうとされたりしました。このようなお父様を見て「私たちは宗教団体なのに」と戸惑った人もいました。しかしイエス様が宗教を創りに来られたのではなかったようにお父様も宗教を立てるために来られたのではありません。関係性です。関係性を築こうとされたのです。
聖書の中のイエス様ご自身のみ言を見てみましょう。イエス様自身で福音とは何かを定義されています。宗教としての各教派の教えが何であれ、またそれが慣れ親しんだものであったとしても、キリストに属するキリスト者である限りキリストがお命じになることを実行しなければなりません。
マタイ伝6章9節から有名な箇所です。イエス様は毎日これを唱えなさいと言われました。
だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。
この祈りはあたかも仏教の中の呪文かマントラであるかのように完全に宗教の中に取り込まれてしまいました。現実の生活と関わりないものとなったのです。宗教的実践の一環として唱えられているのです。
キリスト自身と関係ないものになりました。本来の福音の本質を失ったので教会から若者が離れキリスト教会は力を失ったのです。
イエス様はすべてのキリスト者に「御国がきますように」と毎日祈りなさいと言われるのです。イエス様はこの中でみこころが天だけで行われることを願っていますか。
大抵のキリスト教派では死後、天国に行くと教えていますがイエス様はそんなことをおっしゃってはいません。
「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と毎日祈りなさいとおっしゃったのです。福音はただの霊的ガイダンスではないというのです。それは来るべき神の国についてのイエス様のメッセージであったのです。
王国には領土をはじめ様々な構成要素があります。王と王家、そして血統を中心とする主権を持ち、それをまもる手段も持たなければなりません。そして王を源流とする文化を持つでしょう。
私たちはあまりに宗教的になり過ぎました。実際、イエス様が手を焼いたのも宗教人でした。罪人をその懐に抱きそして許されましたが他でもない宗教人たちを厳しく糾弾しました。「白く塗った墓のようだ」と叱りつけたりもしました。外はきれいにしているが内に偽りがあるというのです。聴衆、友人、会衆から尊敬を受けはしますが偽りものだというのです。真の関係性をもっていません。
多くの牧師が説教の中で高らかにイエスを叫びながらも説教の後には大きな虚無感を感じるのです。どうして聖霊を感じることができないか分からないのです。イエス様は罪人以上に宗教人たちを叱責しました。
宗教人たちの叱責の対象は誰ですか。罪を犯す人々です。その結果彼らは最大の罪人であるというのです。
キリストの福音は教派的教義ではありません。ましてや幸運、富を願って唱えるマントラでもありません。来るべき王国について語ったものだということです。地をおおうべき御国です。全地球に広がらなければならないのです。こういう話は普通の教会では聞かないでしょう。
民主主義のもとで育った私たちには王国の姿を想像することは難しいのです。たとえば大英帝国はどうですか。大英帝国のもとにかつて植民地であったカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの国があります。いまもイギリス女王はそれらの国々の女王です。王国は世界に植民地を持ちますが、もし女王がニュージーランドに居住地を定めるとしたらニュージーランドは植民地と呼ばれるべきでしょうか。ニュージーランドが王国になります。
王の居場所が王国の中心になるのです。また例えばカナダの森林のなかで女王陛下万歳を叫ぶとして女王と英国を具体的にイメージできるものでしょうか。
イエス様は「御国よ来れ」と祈りなさいと言われました。黙示録ではこの地を覆う、この地を支配するとあります。悪なる王国を滅ぼし全地を支配するとあるのです。
イエス様は私たちに「天国に行きなさい」と命じたのではなく「天国がこの地に来ること」を祈れと命じられたのです。お判りでしょうか。その王国の一員となるときその身分はどのようなものでしょうか。「市民」だというのです。
では「市民」は何を持つべきでしょうか。人権です。裁判所でも王の面前でも尊重されるべき権利を持つのです。王国の市民でなければそのような権利を得ることはできません。
王国は宗教と異なるのです。宗教は教会員、信徒で構成されます。王国は市民で構成されるのです。
宗教には神々を鎮める信者がいますが、王国には王と共に働く市民がいます。市民は王国の一部でありそこで権利を保持します。
原理では神様ですらご自分が設定された原理に従わざるを得ないと言います。なぜなら神様の法は神様の本性の延長線上にあるものだからです。原理を否定することは神様の本性の否定につながります。人を殺すな、盗むなと命じられたのも神様の本性が善であり愛であり義であるからです。原理に背く行動をされない理由は本性に背かないからなのです。
王国でも同じことが言えます。王国の法は国王の信念や文化の延長として出てくるのです。過去の王国を見ても出てくる法は全体主義的でした。それは国王自身が全体主義的であることの帰結です。王の本性の延長として法があるのです。
ここで質問です。もしイエス様が王国を築いていたならそれはこの世にあらわれた過去の全体主義的な王国になったでしょうか。間違いなく違っていたでしょう。こういうことを考えておくことは重要です。なぜなら王国は宗教教派でもなく宗教的体験でもありません。それは具体的な地上の特定の場所だというのです。
マタイ6:31~33
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 6:32これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 6:33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
求めるものがあるとするなら衣料、食料などより先にまず神の国を求めなさいというのです。それによってすべて必要なものは与えられる。
しかしこれが現実において可能でしょうか。現実生活、それ自体で回っている現実社会があります。私たちは空想の世界で暮らしているわけではありません。政治でもリベラル急進派などは負債限度を引き上げることは必ずしも負債を増やすことではないなどと言いますが、現実生活で収入に見合わない出費を重ねれば負債は増えるものです。
さて、これまでキリスト教徒は神様の王国ができれば、そのとたんにこれまでの法律は無効になりたちまち理想社会が出来上がるように思ってきました。犯罪もゼロになり、人々は一日中讃美しているイメージです。
キリスト教徒は口に出さずとも無意識にそう考えています。しかし考えてみて下さい。宇宙の法則、自然の法、神様がその民に与えられた法は神様ご自身の本性の延長にあるのです。神様は内に調和を持っておられます混沌としたお方ではありません。
神様は知性と理性を持たれ、数学を創り出しそれに従って宇宙を創造されました。たとえばフィボナッチ数列と被造物の関係はその好例です。
この神様の本性が反映された世界が天国になるのです。ですから天国到来とともにこの世の自然法則が無効になるとは考えられません。王国到来で数学の定理が無効になることなどないのです。そのようなことがあれば神様がご自分の本性に反する結果になってしまいます。
アメリカは世界で一番自由な国です。自由に売買し、自由に集会を行い、自由に起業することができます。どのような宗派でも作ることができます。例えばペンシルバニア、イギリスから(ウィリアム)ペンが逃れてきたでしょう。ここで自由に共同体をつくることができました。18世紀、19世紀にここにやってきた人々はより良き暮らしを求めてきました。しかし最初に想定したものは憲法と法をもつ国でした。自由な機会のある国。ある意味「王国」を求めたということができます。
もちろんアメリカは王もいませんし王国ではありませんが、「王国」のような場所を求めてきました。共同体をつくりネットワークを形成し、仕事ができるようにしたのです。こういうことは彼らがいたヨーロッパではできませんでした。こうして家族をよりよく養うことができたのでした。
つまり先に「王国」を求めそれによって他のものが与えられた形です。ではアメリカ(王国)に行けば何でもただで手に入ったでしょうか。そんなことはありません。自主独立の精神と自律心、聖書に基づく勤勉な生活態度を備える開拓者となったのです。
より良き土地、より良き国、より良き「王国」をまず求めたというのです。そしてここにやってきた後は神様も働かれ、自由と責任を通して(アメリカの)両親、祖父母たちは繁栄を享受することができたのです。そしてこの国は人類史上最も豊かな国になりました。
だからイエス様はまず神の国を求めなさいといったのです。
マタイ7章
7:21わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
天国天国と市民市民と叫んでいるだけでは駄目なのです。神様のみ旨を行うことが重要です。神様が人間を創造された時のみ旨はなんでしょう。愛を授け受けすることです。
アダム、エバとそうすることがみ旨でした。そして彼らが繁殖し全地を治めることでした。神様はアダムに王国を与えられたのです。そこでアダムは王になるべきでした。神様の代身者として全地を治めるのです。み旨とは王国建設、王国宣布です。
マタイ10章
10:5イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。 10:6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。 10:7行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。
イエス様は「行って十字架の救いを宣べ伝えよ」とは言いませんでした。「私が十字架で死にその三日後に蘇り死を克服することを行って宣べ伝えよ」と命じられましたか。この事実を飲み込むことは宗教としてのキリスト教にはとても難しいのです。あらゆる教派においてこれが伝統的教えになっているからです。キリスト教のあらゆるセミナーに参加しても「神の国」を説くものはないでしょう。神の国の政治、神の国の経済について教えるものはキリスト教会には一つもないということです。
2千年にわたって宗教であり続け、聖書の事実を読んでこなかったのです。聖句にあるのです。
10:7行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。
キリスト(王)は王国を創建するのです。
マタイ11章
11:11あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国(天の王国)で最も小さい者も、彼よりは大きい。
ところでバプテストのヨハネも「悔い改めよ。天国は近づいた」と叫んでいましたね。
しかし天国の外から天国は近づいたというのは過去の預言者には許されるとしてもヨハネの場合は天国の内に入るべきではなかったでしょうか。天国の市民は天国の外の偉大な預言者よりも大きいということです。
キリスト教徒が聞けば真っ青になるかもしれません。これまで宗教では教えなかったことです。イエス様はあなた方に宗教をつくってそこの信徒になってほしいなどとは思っていませんでした。皆さんがその市民になれるような王国を建設したかったというのです。
キリスト教は宗教になっています。
ルカ4章
4:42夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。 4:43しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。
イエス様は神の国の福音を宣べ伝えるために自分は遣わされたと言っているのです!
一体福音書のどこに「私は十字架で死ぬために遣わされた」とありますか。あれば教えてほしいものです。
イエス様は公の場で一度も「十字架上の死」について語られませんでした。。ある時点になって初めて弟子との個人的な会話の中で語られただけでした。
「宗教」は様々なことを言うでしょう。しかしキリスト者である限りイエス様自身が語られた言葉を真剣に受け止めるべきではないですか。「宗教」の色眼鏡を通して福音書を読むのではなく、福音書によって直接牧会されなければなりません。
イエス様は「神の国の福音を宣べ伝えねばならない」と語られています。
しかも「自分はそのためにつかわされた」と。
これはキリスト教世界にとって衝撃の事実です。あらゆる教派の根幹を揺るがすでしょう。
「私は十字架で死ぬために来た」とはただの一言も語られなかったのです。
「宗教」に埋没するか、イエス様の言葉を素直に受け止めるかのどちらかです。「神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」、これこそ神様のみ言だというのです。
マタイ4章
4:23イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
宗教のテキストではなく福音書の中のどこでイエス様が「私は十字架で死ぬためにつかわされた」と語っているのかというのです。
マルコ1章
1:14ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の国の福音を宣べ伝えて言われた、 1:15「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
なぜキリスト教会は「神の国の福音」を教えないのか。
1:15「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。そう、「福音を信ぜよ」とあるのです。
はじめてここ(サンクチュアリ教会PA)に来た人はさぞショックを受けたことでしょう。むしろ私はショックを受けることを願います。皆さんはロータリークラブの会員のように「宗教」に属する者ではないでしょう。皆さんはキリストに属する者ですか。
マタイ9章
9:35イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
カトリック、プロテスタントを問わずあらゆるキリスト教会では「福音」は「十字架→死→復活」だと教えています。それが「良き知らせ(福音)」だというのです。
十字架路程による救いを否定するつもりはありません。しかしイエス様が福音をどう定義しているのかが問題だというのです。イエス様のいう福音とは「神の国」です。十字架ではありません。十字架については説教もしていませんし、復活についての説教もありません。ただただ神の国について説かれたのです。
「宗教・キリスト教」の信徒にとってこの事実を飲み込むことがどうしてそれほど難しいのでしょうか。それは「宗教」になってしまったからです。パリサイ人のようにキリストが分からなくなっているのです。私はこの話に愛を込めて語っています。
キリスト者はクラブの会員ではなくキリストに生命を捧げた者です。宗教ではなく、キリストの福音の一部にならなければならないでしょう。
マタイ24章
24:14そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
上の「宣べ伝えられるであろう(・・・shall be preached)」のshall beはアメリカ合衆国憲法でも使われていますがきわめて強い意思、命令を示します。「(絶対に)このようになされる」「なさねばならない」という意味です。
ですから「福音は全世界に宣べ伝えられなければならない、そうなる」ということです。ではその福音はどういう福音でしょうか。神の国の福音だということです。キリスト教徒はなぜ神の国の福音を宣べ伝えないのでしょう。福音は神の国です。
マタイ21章
21:43それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。
取り上げられた神の国は天に戻されると言っていますか。それとも想像の世界にあるとでもいうのですか。ニューエイジ・クリスチャンの一部ではイエスから具体的表象を取り去り神の国もなにか心のうちの精神的な作用にしてしまっている人たちもいるのです。
イエス様はどういっていますか。「神の国はあなたがたから取り上げられて、異国人に与えられる」と言っているのです。内なる心理でも感情領域でもありません。
そして異国で神の国は実を結ぶというのです。神の国は地上の具体的な場所に建てられるべきものです。ここからもイエス様は国を作りに来られたことがわかります。イエス様の福音は宗教ではなかったのです。
マタイ8章
8:5さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、 8:6「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。 8:7イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。 8:8そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。 8:9わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。 8:10イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。 8:11なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、 8:12この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。 8:13それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
先週もこの箇所を見ましたが、百卒長は百人の兵卒の管理者です。政府の役人です。彼はローマ人であり、異教徒です。ヤハウェも信じていませんしアブラハム、イサク、ヤコブの子孫でもありません。異邦人です。この話を読む時、このことを頭に入れておいて下さい。百卒長はユダヤ教徒ではなくローマの神々を信仰する者でした。
しかし彼はイエス様を信じました。
彼が「わたしの僕が中風でひどく苦しんで家で寝ています」というとイエス様は「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われました。
このある権威をもつものが王(イエス)の前に訴えたとき、イエス様は「行って直そう」と言ったのでした。これは珍しいことです。イエスはしばしば群衆から逃れました。しかしここではご自分が出かけて行くと言われたのでした。
百卒長の話を聞いたイエス様は感心されました。そして百卒長を「イスラエル人の中にもこれほどの信仰を見たことがない」と褒めたたえたのです。これを彼に付き従う弟子たちの前で言ったのです。これほどの信仰を見たことがないと。
王国の福音をもたらすべきイエス様は王でもありました。そのイエス様に向かって百卒長はローマ帝国政府の官吏として帝国の秩序に従ってイエス様にお願いしたのです。かつてイエス様のもとに来たもののうちこれほど具体的に王国の内容を持ってきたものがいたでしょうか。いなかったのです。
天一国にも政府は存在するでしょう。その政府は大きな政府ではありません。もちろんローマ帝国のように厳格な中央集権政府でもありません。
とにかくイエス様はこの百卒長に対して「イスラエル人の中にもあなたのような信仰者はいない」と絶賛しました。「あなたは私をよく理解している」とイエス様は言いたかったのでしょう。
ただ人の病を癒す方、預言者、イナゴと野蜜で暮らす洗礼ヨハネのような宗教者、霊的力で人を驚かせる者、それが自身の本質ではなく、自分が王であることをよく見抜いたと称賛したかったのでしょう。
あなたはローマにおける(百卒長としての)権限をよくわきまえると同時に私の王としての権限を見事に理解したと褒めたのです。そして百卒長を褒めた後次のように言われます。
「なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。(マタイ8:11-12)
これは一体どういう意味でしょう。
もしあなたがこの世のあらゆる法制度が廃止され、天からディズニーランドのような神の国が降りてくるなどと夢想しているならこの聖句を解釈することができません。
ソクラテス、プラトン、アリストテレスは国の政体について研究しましたが、ソクラテスは国家は三世代で滅亡すると言っています。
第一世代は開拓者です。勤勉に働きながら、時に重労働にも耐えて国の基盤を造ります。その上で次の世代は比較的豊かになった環境で過ごすことができるようになります。そして医者、弁護士、大学教授になったりして功労ある先祖の記念碑を建てるのです。さて、3世代目に至るとどうなるでしょう。
三代目は生まれたときから豊かで裕福なのです。そして退廃的になっていきます。生まれたときから見ている建造物が第一世代が額に汗して築いたものであることを想像できません。そして政府からは無償の給付を求めるようになります。生まれたときから豊かさを与えられているからです。この無気力、退廃によって国は傾き始めます。このように三世代で国は滅びに向かうというのです。この世代は勤勉に働くことを知らず豊かさに慣れているがゆえに退廃的になります。そして国は道徳的、構造的、社会的、あらゆる面で崩れていくのです。
この世界がこういう傾向を今でも持っていることを考える時、イエス様の聖句の意味が理解できます。
王国においても最大の脅威は新しい世代なのです。なぜなら豊かさの中で育つと退廃的になりがちだからです。アメリカも世代を経るごとに退廃的になってきているでしょう。
これは深刻な脅威です。歴史上あらわれた共和国、民主主義国家のすべてが社会主義に堕落していきました。あらゆるものが楽して手に入る、無償で給付されるそういう環境で暮らしてきた人々はマルクス主義、社会主義、共産主義に惹きつけられるのです。そして最終的に文明の崩壊を招くのです。
王国でも起こりうることです。新しい世代は自由のために闘った経験がないからです。闘って自分の現在の生活環境を得たわけではではないからです。
自由と責任の観点から王国について考える時、エデンの園で神様が与えられた法はただ一つでした。一つの法でアメリカが運営されることを想像できますか。アメリカには相当な数の法律があるでしょう。かつて成長期で勢いのあるアメリカ、道徳的で信仰的だったころのアメリカにはもっと法律は少なかったのです。そして隣人への奉仕、生徒や患者や顧客などに真心もって仕えることが重んじられていました。そのような基盤の上にアメリカは築かれていたのです。
王国もこの問題に対処しなければなりません。その意味でも天一国憲法が重要だというのです。地方で起こった問題は基本的に地方で解決しなければなりません。教育も国が管理しません。社会主義国のように中央で教育を管理することなどないのです。
地方の共同体はその地方の子供たちの教育に責任と自由をもつのです。そして道徳を重んじ、神様を愛する勤勉で隣人によく仕える、名誉を重んじる人間に育てるのです。
神の国ではこの新しい世代の教育の問題は各地域が責任を持たなければなりません。
たとえば甘やかされて育った肩書のある若者が社会主義、共産主義といった偽りのイデオロギーを信奉するようになったとしましょう。
そして革命を起こし、無政府状態を作り出そうとしたとします。現実社会では起こりがちなことです。そういう時も地域の共同体が対処するのです。国家レベルで関与しません。共同体レベルで若者たちと対話を重ねるのです。暴力を伴うことになればやはり地域レベルで対処します。
そういうことになれば「この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」この聖句が実現するのです。子供たちは福祉、つまり無償給付のない社会から出て行かざるを得ないのです。政府から何も降ってはきません。それらは王国では違法です。禁じられているのです。許されていません。
自分が蒔いたものを収穫するのです。日々の労働によって獲得するのです。
このように天一国の観点で見る時、子供に天一国の価値を教えることも責任の一つであるということです。賢く誠実な子供に育てることも責任だというのです。もちろん人間はそれぞれ完璧ではありません。だからイエス様も罪を侵す者達よりも宗教人のほうに手を焼いたでしょう。みんな罪人です。
道徳を追求するということは罪を犯したときはそれを認め悔い改めることです。善を追求し善の主人である神様を追い求めるのです。
宗教を追い求めるのではありません。神様との関係性を求めるのです。自分が暮らす神の国を追い求めるのです。
神の国は地上の王国です。それは国進兄さんがいうようにある種のライフスタイルです。自主独立、自衛、勤勉、名誉を重んじること、これらが神の国に欠かせません。
ここでビデオを見ましょう。
素晴らしいビデオだと思いませんか。
このビデオを制作しているシアトルの若者は素晴らしいですね。福音の本質は神の国だとはっきりと悟っていないにもかかわらずこのビデオの中でそれを強調しています。彼らの制作活動に本当に感謝したいと思います。
神様のおられる場所には善と正義、美があり、人間の住む場所は罪と醜さ、不正などがはびこります。
通常のキリスト教ではキリストの王国は教会だと言います。教会の中で王国を体験するので、教会建設をどんどん進めろというわけです。そうすることで王国は拡大すると。普通はそう教えられています。
しかしこれまで見てきたように、イエス様はそのようなことはいっていません。
イエス様は具体的領土と文化を持つ王国を想定していたということです。
仮に教会が王国であったとしても教会が広がって行けばそこにはやはりいさかいや意見の相違があるでしょう。自由と責任があるのですから。
キリスト教会が描くディズニーランドのような理想天国が天から降りてきたとしても自由と責任が個々人にある限りはそこに自由意志があり、隣人を愛するという決断を下さなければならないでしょう。自分が好まない人とうまくやっていくことも必要です。
王国においても自由と責任は存在するのです。キリスト教会が夢想するディズニーランドのような天国に拘るのではなく、現実的、具体的な地上の王国をキリストと共に築かなければなりません。
自由と責任の王国。善と正義と名誉の王国です。責任と勤勉、退廃主義を拒絶し政府による給付金などを当てにしない自由な共同体。自由意志と契約を守る誠実さをもち隣人を愛し仕え、兄弟を守り、額に汗して収穫を得る人々。これらすべての聖書的原理を神の国は兼ね備えていなければなりません。
それは誰もが暮らしたいと思う王国です。過去、アメリカがその王国に最も近い国でした。皆がこの王国、機会に溢れる国、アメリカを夢見てやって来ました。
天一国憲法では、はっきり天一国合衆国の名を謳っています。そこに様々な国が自由と責任を中心として集まり一つになるのです。政府は支配することも課税することもないのです。
自由ではあるけれども責任ある世界です。その権利と自由をもたらしたのは創造主であることを知る世界です。
キリスト教徒の描くディズニーランドのようなファンタジーの世界ではない、キリストと共に立って築いていく世界です。
ここで最後の聖句を見ましょう。
マタイ25章
25:31人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 25:32そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。 25:34そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
最後に一つ質問をして終わります。
イエス様が羊とヤギを分ける時、2つのイデオロギーが存在します。一つは全体主義、寡頭政治、社会主義などの本質的にひとくくりにできるイデオロギー。そしてアメリカ建国の父が持っていたような自由と責任を追及するイデオロギーです。アメリカは王国ではありませんがそこで自由と責任を追い求めました。
さてイエス様が再臨主として王国に来られるとき、共産主義者としてこられるでしょうか。残念ながら今のキリスト教会はキリストを共産主義者として描いています。
仮にもしイエス様が共産主義者ならば過去に現れた最終的には国を亡ぼすあまたの全体主義者、邪悪な王と同じではないですか。
全体主義と個人の権利自由と責任を尊重する思想。このどちらにイエス様は降臨されると思いますか。
イエス様は決して無償で食料を供与するような政府はつくらないでしょう。イエス様はキリスト者一人一人に慈しみ深くあれとおっしゃいました。個人個人が助けの手を差し伸べる責任を持っているのです。共産主義的なやり方ではなく一人一人の責任と愛によって隣人、兄弟を支えるのです。
私たちがどちら側にいるのかが問題です。羊が王とともに立つのです。
私たちは弱いかもしれません、弱く見えるかもしれません。踏みつぶすのは容易いと見えるかもしれません。しかし真なる人々が集い一つとなる時、勝利しかないのです。神様が私たちの側におられるからです。
素晴らしいビデオだと思いませんか。
このビデオを制作しているシアトルの若者は素晴らしいですね。福音の本質は神の国だとはっきりと悟っていないにもかかわらずこのビデオの中でそれを強調しています。彼らの制作活動に本当に感謝したいと思います。
神様のおられる場所には善と正義、美があり、人間の住む場所は罪と醜さ、不正などがはびこります。
通常のキリスト教ではキリストの王国は教会だと言います。教会の中で王国を体験するので、教会建設をどんどん進めろというわけです。そうすることで王国は拡大すると。普通はそう教えられています。
しかしこれまで見てきたように、イエス様はそのようなことはいっていません。
イエス様は具体的領土と文化を持つ王国を想定していたということです。
仮に教会が王国であったとしても教会が広がって行けばそこにはやはりいさかいや意見の相違があるでしょう。自由と責任があるのですから。
キリスト教会が描くディズニーランドのような理想天国が天から降りてきたとしても自由と責任が個々人にある限りはそこに自由意志があり、隣人を愛するという決断を下さなければならないでしょう。自分が好まない人とうまくやっていくことも必要です。
王国においても自由と責任は存在するのです。キリスト教会が夢想するディズニーランドのような天国に拘るのではなく、現実的、具体的な地上の王国をキリストと共に築かなければなりません。
自由と責任の王国。善と正義と名誉の王国です。責任と勤勉、退廃主義を拒絶し政府による給付金などを当てにしない自由な共同体。自由意志と契約を守る誠実さをもち隣人を愛し仕え、兄弟を守り、額に汗して収穫を得る人々。これらすべての聖書的原理を神の国は兼ね備えていなければなりません。
それは誰もが暮らしたいと思う王国です。過去、アメリカがその王国に最も近い国でした。皆がこの王国、機会に溢れる国、アメリカを夢見てやって来ました。
天一国憲法では、はっきり天一国合衆国の名を謳っています。そこに様々な国が自由と責任を中心として集まり一つになるのです。政府は支配することも課税することもないのです。
自由ではあるけれども責任ある世界です。その権利と自由をもたらしたのは創造主であることを知る世界です。
キリスト教徒の描くディズニーランドのようなファンタジーの世界ではない、キリストと共に立って築いていく世界です。
ここで最後の聖句を見ましょう。
マタイ25章
25:31人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 25:32そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。 25:34そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
最後に一つ質問をして終わります。
イエス様が羊とヤギを分ける時、2つのイデオロギーが存在します。一つは全体主義、寡頭政治、社会主義などの本質的にひとくくりにできるイデオロギー。そしてアメリカ建国の父が持っていたような自由と責任を追及するイデオロギーです。アメリカは王国ではありませんがそこで自由と責任を追い求めました。
さてイエス様が再臨主として王国に来られるとき、共産主義者としてこられるでしょうか。残念ながら今のキリスト教会はキリストを共産主義者として描いています。
仮にもしイエス様が共産主義者ならば過去に現れた最終的には国を亡ぼすあまたの全体主義者、邪悪な王と同じではないですか。
全体主義と個人の権利自由と責任を尊重する思想。このどちらにイエス様は降臨されると思いますか。
イエス様は決して無償で食料を供与するような政府はつくらないでしょう。イエス様はキリスト者一人一人に慈しみ深くあれとおっしゃいました。個人個人が助けの手を差し伸べる責任を持っているのです。共産主義的なやり方ではなく一人一人の責任と愛によって隣人、兄弟を支えるのです。
私たちがどちら側にいるのかが問題です。羊が王とともに立つのです。
私たちは弱いかもしれません、弱く見えるかもしれません。踏みつぶすのは容易いと見えるかもしれません。しかし真なる人々が集い一つとなる時、勝利しかないのです。神様が私たちの側におられるからです。
天一国にも政府は存在するでしょう。その政府は大きな政府ではありません。もちろんローマ帝国のように厳格な中央集権政府でもありません。
とにかくイエス様はこの百卒長に対して「イスラエル人の中にもあなたのような信仰者はいない」と絶賛しました。「あなたは私をよく理解している」とイエス様は言いたかったのでしょう。
ただ人の病を癒す方、預言者、イナゴと野蜜で暮らす洗礼ヨハネのような宗教者、霊的力で人を驚かせる者、それが自身の本質ではなく、自分が王であることをよく見抜いたと称賛したかったのでしょう。
あなたはローマにおける(百卒長としての)権限をよくわきまえると同時に私の王としての権限を見事に理解したと褒めたのです。そして百卒長を褒めた後次のように言われます。
「なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。(マタイ8:11-12)
これは一体どういう意味でしょう。
もしあなたがこの世のあらゆる法制度が廃止され、天からディズニーランドのような神の国が降りてくるなどと夢想しているならこの聖句を解釈することができません。
ソクラテス、プラトン、アリストテレスは国の政体について研究しましたが、ソクラテスは国家は三世代で滅亡すると言っています。
第一世代は開拓者です。勤勉に働きながら、時に重労働にも耐えて国の基盤を造ります。その上で次の世代は比較的豊かになった環境で過ごすことができるようになります。そして医者、弁護士、大学教授になったりして功労ある先祖の記念碑を建てるのです。さて、3世代目に至るとどうなるでしょう。
三代目は生まれたときから豊かで裕福なのです。そして退廃的になっていきます。生まれたときから見ている建造物が第一世代が額に汗して築いたものであることを想像できません。そして政府からは無償の給付を求めるようになります。生まれたときから豊かさを与えられているからです。この無気力、退廃によって国は傾き始めます。このように三世代で国は滅びに向かうというのです。この世代は勤勉に働くことを知らず豊かさに慣れているがゆえに退廃的になります。そして国は道徳的、構造的、社会的、あらゆる面で崩れていくのです。
この世界がこういう傾向を今でも持っていることを考える時、イエス様の聖句の意味が理解できます。
王国においても最大の脅威は新しい世代なのです。なぜなら豊かさの中で育つと退廃的になりがちだからです。アメリカも世代を経るごとに退廃的になってきているでしょう。
これは深刻な脅威です。歴史上あらわれた共和国、民主主義国家のすべてが社会主義に堕落していきました。あらゆるものが楽して手に入る、無償で給付されるそういう環境で暮らしてきた人々はマルクス主義、社会主義、共産主義に惹きつけられるのです。そして最終的に文明の崩壊を招くのです。
王国でも起こりうることです。新しい世代は自由のために闘った経験がないからです。闘って自分の現在の生活環境を得たわけではではないからです。
自由と責任の観点から王国について考える時、エデンの園で神様が与えられた法はただ一つでした。一つの法でアメリカが運営されることを想像できますか。アメリカには相当な数の法律があるでしょう。かつて成長期で勢いのあるアメリカ、道徳的で信仰的だったころのアメリカにはもっと法律は少なかったのです。そして隣人への奉仕、生徒や患者や顧客などに真心もって仕えることが重んじられていました。そのような基盤の上にアメリカは築かれていたのです。
王国もこの問題に対処しなければなりません。その意味でも天一国憲法が重要だというのです。地方で起こった問題は基本的に地方で解決しなければなりません。教育も国が管理しません。社会主義国のように中央で教育を管理することなどないのです。
地方の共同体はその地方の子供たちの教育に責任と自由をもつのです。そして道徳を重んじ、神様を愛する勤勉で隣人によく仕える、名誉を重んじる人間に育てるのです。
神の国ではこの新しい世代の教育の問題は各地域が責任を持たなければなりません。
たとえば甘やかされて育った肩書のある若者が社会主義、共産主義といった偽りのイデオロギーを信奉するようになったとしましょう。
そして革命を起こし、無政府状態を作り出そうとしたとします。現実社会では起こりがちなことです。そういう時も地域の共同体が対処するのです。国家レベルで関与しません。共同体レベルで若者たちと対話を重ねるのです。暴力を伴うことになればやはり地域レベルで対処します。
そういうことになれば「この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」この聖句が実現するのです。子供たちは福祉、つまり無償給付のない社会から出て行かざるを得ないのです。政府から何も降ってはきません。それらは王国では違法です。禁じられているのです。許されていません。
自分が蒔いたものを収穫するのです。日々の労働によって獲得するのです。
このように天一国の観点で見る時、子供に天一国の価値を教えることも責任の一つであるということです。賢く誠実な子供に育てることも責任だというのです。もちろん人間はそれぞれ完璧ではありません。だからイエス様も罪を侵す者達よりも宗教人のほうに手を焼いたでしょう。みんな罪人です。
道徳を追求するということは罪を犯したときはそれを認め悔い改めることです。善を追求し善の主人である神様を追い求めるのです。
宗教を追い求めるのではありません。神様との関係性を求めるのです。自分が暮らす神の国を追い求めるのです。
神の国は地上の王国です。それは国進兄さんがいうようにある種のライフスタイルです。自主独立、自衛、勤勉、名誉を重んじること、これらが神の国に欠かせません。
ここでビデオを見ましょう。
ルカ4章
4:42夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。 4:43しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。
イエス様は神の国の福音を宣べ伝えるために自分は遣わされたと言っているのです!
一体福音書のどこに「私は十字架で死ぬために遣わされた」とありますか。あれば教えてほしいものです。
イエス様は公の場で一度も「十字架上の死」について語られませんでした。。ある時点になって初めて弟子との個人的な会話の中で語られただけでした。
「宗教」は様々なことを言うでしょう。しかしキリスト者である限りイエス様自身が語られた言葉を真剣に受け止めるべきではないですか。「宗教」の色眼鏡を通して福音書を読むのではなく、福音書によって直接牧会されなければなりません。
イエス様は「神の国の福音を宣べ伝えねばならない」と語られています。
しかも「自分はそのためにつかわされた」と。
これはキリスト教世界にとって衝撃の事実です。あらゆる教派の根幹を揺るがすでしょう。
「私は十字架で死ぬために来た」とはただの一言も語られなかったのです。
「宗教」に埋没するか、イエス様の言葉を素直に受け止めるかのどちらかです。「神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」、これこそ神様のみ言だというのです。
マタイ4章
4:23イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
宗教のテキストではなく福音書の中のどこでイエス様が「私は十字架で死ぬためにつかわされた」と語っているのかというのです。
マルコ1章
1:14ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の国の福音を宣べ伝えて言われた、 1:15「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
なぜキリスト教会は「神の国の福音」を教えないのか。
1:15「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。そう、「福音を信ぜよ」とあるのです。
はじめてここ(サンクチュアリ教会PA)に来た人はさぞショックを受けたことでしょう。むしろ私はショックを受けることを願います。皆さんはロータリークラブの会員のように「宗教」に属する者ではないでしょう。皆さんはキリストに属する者ですか。
マタイ9章
9:35イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
カトリック、プロテスタントを問わずあらゆるキリスト教会では「福音」は「十字架→死→復活」だと教えています。それが「良き知らせ(福音)」だというのです。
十字架路程による救いを否定するつもりはありません。しかしイエス様が福音をどう定義しているのかが問題だというのです。イエス様のいう福音とは「神の国」です。十字架ではありません。十字架については説教もしていませんし、復活についての説教もありません。ただただ神の国について説かれたのです。
「宗教・キリスト教」の信徒にとってこの事実を飲み込むことがどうしてそれほど難しいのでしょうか。それは「宗教」になってしまったからです。パリサイ人のようにキリストが分からなくなっているのです。私はこの話に愛を込めて語っています。
キリスト者はクラブの会員ではなくキリストに生命を捧げた者です。宗教ではなく、キリストの福音の一部にならなければならないでしょう。
マタイ24章
24:14そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
上の「宣べ伝えられるであろう(・・・shall be preached)」のshall beはアメリカ合衆国憲法でも使われていますがきわめて強い意思、命令を示します。「(絶対に)このようになされる」「なさねばならない」という意味です。
ですから「福音は全世界に宣べ伝えられなければならない、そうなる」ということです。ではその福音はどういう福音でしょうか。神の国の福音だということです。キリスト教徒はなぜ神の国の福音を宣べ伝えないのでしょう。福音は神の国です。
マタイ21章
21:43それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。
取り上げられた神の国は天に戻されると言っていますか。それとも想像の世界にあるとでもいうのですか。ニューエイジ・クリスチャンの一部ではイエスから具体的表象を取り去り神の国もなにか心のうちの精神的な作用にしてしまっている人たちもいるのです。
イエス様はどういっていますか。「神の国はあなたがたから取り上げられて、異国人に与えられる」と言っているのです。内なる心理でも感情領域でもありません。
そして異国で神の国は実を結ぶというのです。神の国は地上の具体的な場所に建てられるべきものです。ここからもイエス様は国を作りに来られたことがわかります。イエス様の福音は宗教ではなかったのです。
マタイ8章
8:5さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、 8:6「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。 8:7イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。 8:8そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。 8:9わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。 8:10イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。 8:11なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、 8:12この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。 8:13それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
先週もこの箇所を見ましたが、百卒長は百人の兵卒の管理者です。政府の役人です。彼はローマ人であり、異教徒です。ヤハウェも信じていませんしアブラハム、イサク、ヤコブの子孫でもありません。異邦人です。この話を読む時、このことを頭に入れておいて下さい。百卒長はユダヤ教徒ではなくローマの神々を信仰する者でした。
しかし彼はイエス様を信じました。
彼が「わたしの僕が中風でひどく苦しんで家で寝ています」というとイエス様は「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われました。
このある権威をもつものが王(イエス)の前に訴えたとき、イエス様は「行って直そう」と言ったのでした。これは珍しいことです。イエスはしばしば群衆から逃れました。しかしここではご自分が出かけて行くと言われたのでした。
百卒長の話を聞いたイエス様は感心されました。そして百卒長を「イスラエル人の中にもこれほどの信仰を見たことがない」と褒めたたえたのです。これを彼に付き従う弟子たちの前で言ったのです。これほどの信仰を見たことがないと。
王国の福音をもたらすべきイエス様は王でもありました。そのイエス様に向かって百卒長はローマ帝国政府の官吏として帝国の秩序に従ってイエス様にお願いしたのです。かつてイエス様のもとに来たもののうちこれほど具体的に王国の内容を持ってきたものがいたでしょうか。いなかったのです。つづく