天一国のもとでの信仰の自由-キングズレポート・ハイライト

 

キングズレポート2018/11/29から

翻訳:ANNE

アメリカにおいて、信教の自由と言いますがそれでも聖書に宣誓します。例えば、裁判の法廷において聖書に宣誓します。判事も聖書に宣誓します。

(エルダー本部長:大統領も宣誓します。)

そうです、大統領も聖書に宣誓します。
これは法で定められているでしょう。大統領の義務として。

(エルダー本部長:わかりません)

これは興味深い(面白い)質問ではないですか?
信教の自由と言いながらも、しかし、これは歴然としたキリスト教文化なのです。

もちろん、神の王国、天一国では更に明確になります。なぜなら、諸王がキリスト教の神を讃美し、たたえる式典に参席するようになります。この国はあまねくはっきりとキリストを中心とします。異教信仰や快楽主義ではありません。

(エルダー本部長:ワシントン(政府)が伝統を重んじるようになりました。大統領が聖書に誓います。)

おそらく無神論者は嫌がっているでしょう。

(エルダー本部長:もちろん、無くそうとしているに違いないです。)

誰の目から見ても、アメリカの例は火を見るよりも明らかで、信教の自由の基盤の上であっても、キリストを中心とする文化なのです。

天一国では、お父様の王権のもと沢山の式典や祈祷会に参加することで常に与えられる(機会)、神様の御名をイエス様の御名を高めることで一般化され、さらに増すようになります。

大統領はアメリカにおいて宗教上の象徴ではありません。大統領は聖職者ではないのです。
しかし、神様の王国である天一国では王様は司祭として我々に戴くのです。
国の王様として、そして天一国の諸王としても。

未来の天一国で諸王はテレビ中継を見ながら…今日行われている(真の)神の日、子女の日、万物の日の式典の祝いなど、祈祷会とお父様の訓読会、すべてこの文化は神様の栄光を讃えること、イエス様を高める内容であります。…これらのことがテレビで放映されます。
ちょうどニューヨーク市で行われるクリスマスパレードなど…あれは何でしたか?

(エルダー本部長:メイシーズ(デパート)主催の感謝祭パレードですね。)

あれは感謝祭でしたか。
クリスマスにも何かやっていませんでしたか。アイススケート・リンクのようなところで、野外コンサートなど。
とにかく、そのように天一国の式典は主要な地域どこにでも放映されます。

(エルダー本部長:クリスマスツリーが設置されたところで(コンサートが)ありますね。)

ホワイトハウスのクリスマスパーティーも全国中継されます。

とにかく、王国のすべての人々が視聴することができ、どのようなことと繋がっているのかを心に留めるようになるのです。そうですね。

アメリカでは感謝祭パレードのようなものを、見なければならないと命じられてはいません。
見る必要はありませんが、重要な行事が継続して行われているのです。
なぜなら国家に感謝しているならば、建国の父に感謝するようになっているからです。
異文化同士を国家に結びつける、共通の歴史と共通の遺産を浸透させようとすることになります。共通の信条体系で結びつける。もしも国がそれをしなければ、バラバラになり分断されます。

今、アメリカで実際に起こっていることです。二つに割れています。社会主義・共産主義者との間で分断されています。建国の父に感謝の念を抱く人々および、一般的にユダヤ・キリスト教の原理で統御された人々との間で。
分断されていっています。真っ二つに分かれています。

それを認識している、ある一流雑誌の記者が書いた記事には…グレッグが示してくれたんですが…
「アメリカは回避不能の分断になる。もちろん衝突と戦争は起こる。」
しかし彼は、そこに新しい体制が出現すると予測しています。

一国の中に、二つの国が存在するかのように分断されることによって。

そこには、公共教育・大学と呼ばれる社会主義者養成所によって洗脳及び訓練された、莫大な左翼市民が存在するのです。共和国とは相容れない社会主義を信じる者たち。主権と責任に基づく国とは矛盾する。共にすることができません。

このように二つの、何百万人もの人々、これはいまのアメリカにとって、小さな割合の人ではありません。何万、何百万の人々です。わかりますか。

二分化と分断が起こっており、学者の予測では明らかに衝突が増えて、さらに拡大して…基本的に内戦であり、しかしそれを起点として新しい体制が建てられるのです。

(新しい体制が)築かれることでしょう。

運任せにしないでください-2月17日英語説教(その3:最終回)

Sunday Service February 17 2019 Rev Hyung Jin Moon Unification Sanctuary Newfoundland PA on Vimeo

2019年2月17日 英語説教 その3

翻訳:BAMBOOS

我々はヘマをすることがあります。私は昨日やってしまいました。疲れていたのです。真剣さが足りませんでした。しかし悔い改めたので、また今度別の人に向けて頑張ります。

ただ我々と一緒にいるだけではだめです。キリストを他の人に広めたいという願望――これは、ただ我々の中に留まっているべきではありません。願望は行動に移す必要があります。

私の言っていることが全員分かると思いますが、ある人に会って、その人に(キリストについて)話さなければと思うことがあるのです。神様が完璧な状況を準備してくださって、イエス様について話さなければならないと感じます。みなさんの中で、特に古い勇士たちはきっと多くの人が分かる話だと思います。人生でこれを感じたことが必ずあるはずです。

そしてそのように行動しなかった場合、どうなったか分かりますか。後悔したのです。その人にはもう二度と会えません。しかしそのうち、起きたことを意図的に忘れようとし始めます。自分を断罪せずに、次は臆病にならないで前進しよう、その人に話すようにしよう、と。

素早く、十分に時間をかけてやらなければ失うことになります。そしてその願望を失い、聖霊は離れます。心は沈み空虚に感じるようになります。なぜならそれは、キリストによって永遠の命と喜びを感じ、人々が救いを受け解放されるということを、他の人に共有することを通じて出て来るものだからです。

それは、人々が救われることは、どんな癒しよりも良いことです。癒しは神様の存在と神様の働きに対する素晴らしい証人です。しかし、どんな癒しよりも素晴らしいことは、人が救われることです。地獄に行こうとしていた人が、今度はイエス様の隣にいるようになるということなのです。

我々の中で余りにも多くの人が神様の霊に圧倒され、満たされて、聖霊の洗礼をうけているに違いありません。

・・・願望を持っているのに・・・。思いがやってきて、もうできない、プライバシーの侵害になると言い訳を重ねて失ってしまいます。知らないうちに聖霊は去っていくのです。神様の臨在に対する感覚を鈍らせずにいれば、我々は人々が救われることを渇望するようになります。渇望、そして喜びです。

ここに新しいゲストを迎えることがあります。様々な場所から何人か若者が来ました。そしてキリストに命を捧げました。もう二度と彼らに会うことがないかもしれません。しかしその日、キリストに命を捧げたのです。

1カ月程前、体の大きな人がここに座っていました。その人に会うことはもうないかもしれません。しかし彼の人生で何かが変わり、自分の命をキリストに委ね、サタンから神様へと捧げました。そうしたことに興奮しなければなりません。外面では分かりませんが、その人に革命的なことが起きています。

どんなにおいしい持ち寄り料理よりも満足感を与えるものは、人が救いを受けることです。彼らがついに、自分の命をキリストに捧げようと約束することなのです。霊的な目が開いて、彼らの魂に喜びを見ることができます。喜んでいるのです。なぜなら、彼らが今永遠の命の賜物を与えられたからです。

小さなことのように思えるかもしれませんが、大きな物である必要はありません。自分の命を変化させたというその小さな出来事。その人に、これから他にどんなことが起こるのを神様が準備しているのかは分かりません。しかし始まったということは分かります。過程は始まったのであり、変化は起きたのです。そして変化の兆候はだんだん増えていきます。

誰かが命をキリストに捧げるということに、本当に胸が躍ります。それほど豊かなことはありません。誰かがついに自分を解き放ち、自分自身と自分の道を信頼し、行き止まりを自覚して・・・。最終的に自分を解放します。

なぜなら自分で牢獄に入っているようなものだからです。誰かが解放されるのを目撃します。悪魔によってまわりに築かれた牢獄から解放されるのです。いったん解放されると、彼らの命がどこへ行くのか分かりません。南に行くのか、北に行くのか、西に行くのか、東に行くのか。

どんな場合でも神様は彼らの人生に何か働きかけています。神様は人生を変えておられます。教師や講師であるなら、人々の人生を変えることがどれほど素晴らしいことか分かります。教師や講師として、人生が変わっていくのを見るのがどれほどの喜びとなるでしょうか。創造主である神様ならその喜びはどれほど大きなものでしょうか。

命の根源である神様です。人間に自由な世界を与えた神様にとって、どれほどのものでしょうか。神様は人間に自分を選択して欲しいと願っておられます。その選択がなされた時、どれほどの喜びとなるでしょうか。その瞬間を過ぎ去らせないでください。

もしかしたら、神様はあなたがある人に鉢合わせするような、あるいはある人が「イエス様を知っていますか」と尋ねて来るような時間を準備されたのかもしれません。

物を盗んだことはありますか。嘘をついたことはありますか。結婚しているのに浮気したことがありますか。女性に情欲を抱いて、心の中で姦淫を犯したことがありますか。神様の名前をみだりに唱えたことがありますか。それを自分で認めるなら、あなたは嘘をつき、盗み、姦淫を犯し、神を冒涜している人です。

それが当てはまる場合、そして神様が正義の神様であるなら、あなたは裁きの日に裁かれます。あなたは最終的にどこに行くと思いますか。あなたの話した通りなら、良い場所でしょうか悪い場所でしょうか。我々に神様が必要だと悟らせてくれるのは、自分たちの罪です。罪がそれを悟らせてくれます。

私はヒトラーではありません。人を殺していないし虐殺もしていません。でも神様はそのようには見ていません。嘘をついたことがあれば嘘つきです。罪を犯しました。神様の名前をみだりに使うなら、罪を犯したということです。情欲を持って女性を見たなら、罪を犯したのです。

公正な世界、公正な国では、犯罪は罰せられなければなりません。そうでなければ正義はありません。犯罪者はいつも罪を免れてしまいます。正義がなく、誰もが不満を漏らします。

我々に直面する罪の現実が、我々に衝撃を与えて自己満足から抜け出させ、こう悟るのです。私は本当にそういう人間だ。神様はご自分の完璧さと比較して私を裁かれるのだ。私は神様から遠い。少なくとも、嘘をつき、盗み、姦淫を犯し、冒涜した。神様の前に主要な罪を全て犯した。そうであるならば、裁きの日に私は裁かれる。

それは正しいですか。正義の世界なら正しいのです。

どんなに自分が完璧だと思っても、清い、罪のない神様に対して、我々は罪を犯しています。神様は嘘をつかず、盗みません。動物や他人と比べるのではなく、神様と比べます。すると自分が多くの罪を犯していることが分かります。

罪のない完璧な裁判官の前に出て、その人が私を見れば、私には罪があるのです。全ての罪は犯罪となり、公正な世界では罰せられます。しかし、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」のです。「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」なのです。それが逃れる道です。

つまりたとえ我々が罪人であっても、キリストは我々の罪のために死なれました。もちろん、キリストは王国を説き、王国を築くことが目的でした。人々が失敗し、キリストを拒絶したのです。霊的救いをもたらすために、神様によってその道が用いられました。

罪人としてキリストから分かれた人たちは、十字架がもたらしたものを見ます。我々は自分の罪の対価を支払うべきでした。それが裁判所から自由に出てきました。キリストは、あなたたちを自由に行かせ、自分が罪を償うので、ただ私が生きるように生きてくださいと願います。今までのように生きてはいけません。あなたが完璧でないのは知っていますが、私が生きたように生きようと努めてください。それだけが私の願いです、といって。

キリストは解放者です。その願いは人々をサタンと罪から神様へと解放することです。私たちへの願いも解放されることです。人々が罪から解放され、神様に忠実であるよう助けることです。

しかし興味深いことですが、こうした会話をしてみると、気分を良くさせると思うでしょうが、死の運命や審判、正義、罪といったことについて最初から考えさせることになります。こういうことを言われたこともなかったかもしれません。

彼らが悔い改めないのはそういう理由からです。自分は良い人間だと考えています。誰も殺していません。それが重要ではありません。神様は他の人と比べているのではなく、ご自分と比べています。それが問題なのです。問題は、教会が罪についてあまり話さないことです。そのため人々は自分に救い主が必要であることを忘れます。

そして罪を受け入れ、救いの賜物を受け取ると自由が得られます。死んだときに訪れる、自分の目の前にぶら下がっていた罰から解放される、そういう自由が生まれます。いろいろなことを信じようとしたとしても、死ぬ時はもう逃げ場がありません。創造主に向き合い、審判されます。

ですから実際こうしたことを人々は初めて考えます。「そんな風に考えたことはありませんでした。あなたの気持ちは分かります。私を傷つけるつもりではないことは分かります。あなたの話には少しショックを受けましたが、私を傷つけるつもりはないですね」と。

そうして素晴らしい会話ができます。我々は、人をキリストに導き、彼らが祭壇で自分の命を初めてキリストに捧げるように導くことで、大きな恵みを受けました。素晴らしい恵みです。本当に大きな恵みです。若い時にキリストに命を捧げる人もいれば、年を取って逃げ場がなくなってから命を捧げる人もいます。永遠に逃げることはできません。

どのような場合であっても、そうすることで人生全体が、永遠が変わります。そしてそれを目にする時、必ず大きな喜びとなります。なぜなら、自分の時のことを考えてみてください。あなたは実刑判決を受けましたが、自由の身になりました。どれほど幸せなことでしょうか。問題は、多くの人が実刑判決を受けていることも知らないことです。気づいていないのです。

それが来ると分かっていれば、違った行動を取るかもしれません。違った行動を取るという選択肢もありますが、問題は教会が、人々の気分を良くしようとしてそのことを話していないことです。死の運命や罪を突きつけません。それでひどい仕打ちをすることになります。人の目には好かれても、魂に対してはひどい仕打ちをすることになります。なぜなら死んで地獄に行くからです。肉体が死んでも地獄に行くという意味です。

ですから私は、韓氏オモニを支持することができませんでした。魂が危機に瀕しているというのです。彼女がこれをすれば地獄に送られます。罰を受けるのです。私が電話をかけるのを止めようと選択したのではありませんでした。地獄に行くといけないので、これをやめるように電話で伝えようとし続けました。すると母は愚かな秘書に話をさせたのです。秘書と話をする必要はありません。母と話をする必要がありました。

だから本当に悲しいことです。あなたが最善を尽くしても、その人が頑なな態度で神様を裏切ることを選択するなら、それが彼らの選択であり自分で選んだことをするのです。人々は最後に自分の選択で神様を否定します。その人のことを嘆きます。あなたがそうするのは悲惨なことです。しかしその選択を尊重します。神様はそれを尊重し、そうなることを許されます。

しかし、全ての人が命を失い滅びることが神様の意図ではありません。我々の意図でもありません。しかし我々は、問題を提起することはできません。それは重大なことであり、死ぬ日のことを考えさせます。永遠に年を取らない人はいません。

大変なジャンプをして自分の体をいじめて、たくさん格闘技の訓練をして、ひざを痛めて、弱くなったと感じ始めています。先日息子たちをハイキングに連れて行って、大きな山までたった3マイルですが、少し勾配のある道を近道して行っていたら、下りで膝を痛めてしまいました。リオに私のストックをぶつけてしまいました。心配しないで、あなたのせいではありません(笑)。

彼らと同じ年齢の頃、山登りは簡単だと思っていました。下りは簡単だと。青年たちは上りと下りのどちらがきついですか。上りですね。下りで痛めてしまいました。鋭く刺すような痛みがずっとありました。2、3歩歩くたびに、「息子たち待って、お父さんは少し待たないといけないから」。それで私のバッグを持ってくれました。私が12歳とか14歳で、格闘技の訓練をしていた時に、ひざが痛むようになる日が来ると思ったことがあったでしょうか。全くありませんでした。

我々は誰もが死にます。自分の死の運命に向き合わなければなりません。その日に向き合わなければなりません。運に任せないでください。お願いです。命をキリストに捧げたことがないなら、それを運任せにしないでください。いつ死ぬかは分からないのです。今日家に帰る途中で死ぬかもしれません。運任せにしないでください。

キリストに命を捧げたことがないのであれば、今日がその日です。あなたがあと1日ただ頑固であろうとして、命を捧げずに家に帰る途中で死ぬことになれば、我々は永遠に苦しみ、悲しむことになります。あなたが苦しむのを見ると我々は本当に、永遠に悲しむことになります。どうかそうしないでください。神様に対してそうしないでください。あなたはもう十分に泣いてきました。

つづく

デュナミスの力-2月17日英語説教(その2)

Sunday Service February 17 2019 Rev Hyung Jin Moon Unification Sanctuary Newfoundland PA on Vimeo

2019年2月17日 英語説教 その2

翻訳:BAMBOOS

イサクはアブラハムと歩んでいました。彼は父親を信頼し、父親のすることを信じていました。父の話、自分の命についての予言を信じていました。言い換えれば自分の命を父親の手に委ねていたのです。それは神様が我々に求めていることです。それが大きな試練です。

みなさんは誰かの手に自分の命を委ねなくてはならなくなります。それがポストモダニズムであろうと、あれこれ教える教師であろうと、誰かの手に命を預けることになります。神様が我々に問いかけるのは、どこで自分の命を神様に委ねるのかということです。アブラハムとイサクのように神様を信頼するのか、ということです。

我々がもしそのような考え方、心情、気持ちを備えるなら、空気が全て変わってきます。天使ですら何が起きているかを感じることができます。神様がその手を止めるよう言われた時、天使でさえもう為されたのだと分かりました。というのも、彼らはイサクの心、そして父親との一体化によって空気が変わったことを感じることができるからです。

我々が祈祷を受ける時これは重要です。我々の多くが熱心にお互いに祈っています。いい加減な祈りをする教会が多くあります。我々は床を叩きながら熱心に祈り、大声で神様に叫びながら、人々のために祈ろうとします。熱心な祈りです。熱心な祈りを捧げるために、人がどれほど自分の命を注いでいるか理解してください。

あなたのために人が祈る時、「彼のことを考えていますよ。あなたのことを祈っていると彼にメールで送りますので」というような態度で祈るのではありません。そうではなく、人のために祈る時は汗を流しながら、天に向かって叫んで、熱心に祈るのです。そのようにしてあなたのために祈っています。

自分が死ぬ間際に、「去る時が来ました。受け入れなさい」と、いい加減な祈りをして欲しいとは思いません。自分の命について真剣な人を望みます。

ある姉妹が激しく戦っています。リサです。彼女はあらゆることについて戦うだけの力を持っていないかもしれません。しかし、彼女のために霊的に熱心に戦っている人たちがいます。当然のことと思わないでください。あなたのために祈る人たちから、どれほどの努力と血と汗が注がれていることでしょうか。彼らの命からの真剣な精力と努力です。

我々は人々の祈りを軽々しく受けてはいけません。特に熱心に祈っている場合。そうした祈りに真剣に感謝しなければなりません。なぜならそれは、人が惜しみなくただ与えるものではないからです。熱心に祈っているなら、あなたのことを熱心に思っているということです。それが空気を変えるものです。霊界でも天使はそれを感じることができます。彼らはアブラハムとイサクについてもそれを感じました。イサクの熱心な信仰にそれを感じました。また父親に対する信頼にもそれを感じたのです。命令が来た時、手を止めるのだと分かりました。

ここにいる人の多くが他の人のために熱心に祈っていますが、それを軽々しく取ってはなりません。彼らも戦っています。彼らも戦いの中で祈りと支援を必要としています。

(使徒行伝10章)38節です。

神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。

今度は11章(13節)に飛びましょう。

13:すると彼はわたしたちに、御使が彼の家に現れて、『ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。14:この人は、あなたとあなたの全家族とが救われる言葉を語って下さるであろう』と告げた次第を、話してくれた。15:そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった。16:その時わたしは、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう』と仰せになった言葉を思い出した。

聖霊は無制限のキリストです。それはキリストの力であり臨在であり、無制限の力です。創造主、無制限のキリスト。「そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった」。ペンテコステの瞬間、聖霊が降りた時・・・舌が分かれるようにして聖霊が彼らの上に降りました。

聖霊を受けた時、心の中で何かが変わります。依存を続けるとかいうことではありません。何かが内面で変わるということです。神様の火が触れると、神様の火が心を支配すると、何かが変わり始めます。何かが燃え尽き、破壊されます。そして再創造されます。世の中に対するかつての見方が、人々が変わり始めるのです。変化し始めます。

何かが内側で変わり始めます。ヨハネは水で洗礼を授けましたが、キリストは聖霊で洗礼を授けました。生きた神様の霊が我々の中に宿っています。我々の中にキリストが内在します。おなかの中に何かがあるのが分かります。腹の中に何かがあります。腹の中で何かを感じます。何かが間違っていたり、外れていたりする時、捕食者が木の陰から見ている時、腹の中からある種の感覚が出てきます。暴力的な対立を経験した人は、それが起こる前に何かが現れるのを感じると言います。第六感とかいろいろ呼び名はありますが、腹の中で警告する何かです。ヨハネ7章38節には、「腹から生ける水が川となって流れ出る」とあります。

中核が内面で変わります。言葉の知識のような物ではありません。知的な知識のような物ではないのです。聖霊によって洗礼を受けると何かが内面で変わります。物事の感じ方、直感での捉え方が変わり始めます。単なる頭の中の知識ではありません。

良心が刺激を受けて、呼び起こされます。善悪を判断する良心が我々の中にあります。聖霊の力が入ると、善悪をもっと強く分立することができます。悪に対して、敵を倒すことのできる火のように強くなることができます。善に対しては、保護する火になります。必要とする人をまわりから保護します。

聖書ではデュナミスの力と呼び、ダイナマイトの語源であるデュナミスと同じです。ダイナマイトのような爆発的な力です。聖書で神様の力のことをいう時、デュナミスの力という時は、爆発的な力のようなことです。爆弾は地形を変えます。爆弾を山に仕掛ければ山を低くすることができます。莫大な力を持っています。

鉄の杖はデュナミスの力を持っています。それは制御された力の爆発だからです。悪に対抗し、善のために使用すべきものです。聖霊の内在によって、爆発的な力を持つデュナミスの力が内側に生じます。安定して徐々に熱くなる力ではありません。爆発的な力のことです。門を爆破し、山を爆破してどけることのできる力です。力強い力が我々の内側にあり、我々の中を通ります。

手を置いて人のために祈る時、自分の精神や力が彼らに流れ込み、癒そうとするのではありません。それは神様の力です。我々はただ、水が流れる器となるべきです。その生きた水の源ではありません。我々はただ器になりたいのです。生きた水を流す道具になりたいのです。その人に触れますがどうなるかは分かりません。しかし、神様の力と神様はご存知です。神様は個々人の心配事を全てご存知です。全ての疑い、全ての心配をご存知です。この若者たちもそうです。彼らが出てきてみなさんのために祈る時も。

彼らは心の中で、この人のために自分の霊的エネルギーを奮い起こさなければならない、というように混乱しているかもしれません。違います。我々や自分たちのことが問題ではありません。それは神様が自分を通じて働かれるようにするということです。そのようにすればプレッシャーはありません。

自分が祈っている人が癒されなければならない、というように、プレッシャーを感じる必要はないのです。そう願うのは素晴らしいことですが、背負い込まないでください。青年たち、いいですか。それはあなたが負わなければならない重荷ではありません。ただ、神様があなたを器として使われるようにするだけで良いのです。

あなたが祈った人の中には、神様の奇跡によって癒される人もいます。神様に栄光を捧げなさい。しかし、その人のために祈る器とならなければなりません。どういうわけか神様は、その人を癒すために奇妙な方法であなたを用いることがあります。

我々は信じられないような癒しを見ました。科学と医者に反するものでした。しかし、やはりそれは我々ではなく、背負い込む必要はありません。自分の霊的エネルギーが治癒すると考えるのは妄想です。自分の霊的な力などではありません。ただ神様にからっぽの器にしてくださいと頼みなさい。

つづく

お知らせから-2月17日英語説教

Sunday Service February 17 2019 Rev Hyung Jin Moon Unification Sanctuary Newfoundland PA on Vimeo

2019年2月17日 英語説教 お知らせから

翻訳:BAMBOOS

王妃とそのチームが動画を公開しています。先月始めたところですが、最初の動画が2万ビューを超えました。最初の動画としては非常に早く、大きな達成です。全て韓国語で、フェミニズムや、若い女性の未来を破滅させるフェミニズムの嘘に対して真剣に批判を行っています。

王妃はフェミニズムの嘘についてちょうどまた動画を上げたところです。これが韓国の大きなチャンネルで取り上げられました。自分たちのところで使用して良いか、と許可を求めて来ました。そして多少編集が入ったものの、何万人もの視聴者がいる大きなチャンネルで、ほぼ完全に彼女の動画を放送したのです。

それが広まって、チャンネル登録が急速に増えました。つまりこの30代、40代の女性たちが隙間市場を埋めることができ、フェミニストの母たちによって嘘を洗脳されている若い女性たちに方向性を示すことができたのです。王妃はいくつかの思想を掘り下げて、若い女性たちに驚くほどうまく示しています。

実際わずか数週間でこうして聴衆を引き付けたのは、目を見張るような結果であり、市場が成熟していて真実に飢えており、あらゆる大衆文化の言いなりになることにうんざりしていることを示すものです。それがとうとうセカンドオピニオンを得ることができたのです。

ユジンはすくに韓国に帰ってしまいますが、王妃に編集などで協力してくれました。彼女たちのチャンネルは韓国でもとても大きなものになっています。彼女は韓国に帰って、韓国の保守運動のために左翼と戦うつもりです。しかし王妃の動画はユーチューブでヒットしています。見てくれた人全員に感謝しています。メッセージは伝えられています。

今この場所から強い女性が現れたということは、驚くべきことです。世界について明確に理解している女性です。明確であり、洗脳されておらず、公立学校によってレベルを下げられていません。あらゆる機関の嘘を理解しています。結婚、子供、力と名誉などの社会の本当の価値を支持する、信仰を持った高潔な女性たちです。

人々がこうした女性たちのことをますます知るようになり、それに従ってくる人たちは弟子となり、キリストに近づくことになります。なぜならキリストに似た女性であり、信仰を持つ女性であり、羊飼いのような導き手であるからです。弱い女性ではありません。本当の守護者、導き手となるのです。この女性たちは、普通の女性に見えても普通の女性ではありません。普通の女性は弱く、思考停止に陥り、レベルを下げられています。ここにいる女性は訓練を受け、守護者となり、危険なことを学び、エピジェネティクスが解放されています。

つづく

サンクチュアリNEWS 閲覧回数の報告

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ご愛読感謝申し上げます。

管理人:Harry

2019年2月10日英語説教(その4:最終回)

Sunday Service   February 10  2019   Rev  Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

2019年2月10日 英語説教 文亨進二代王

翻訳:Harry

手を置いて祈るのは、聖書によれば(献げ物の)動物が命を絶たれる直前に行われるものです。

「私はただ二代王から祝祷されたいだけだ」「友達が行くから私もお願いしよう」などと考えてやってくるなら私は祈りません。それは快楽主義です。そういう人のために祈る必要を感じません。それは聖所で献祭を捧げる正しい姿勢ではありません。それは汚れた献祭をするときの姿勢です。そのように献げられた若雌牛はうち捨てられるでしょう。ここでは傷のない若雌牛が選ばれるべきです。

だから按手を求めて来るときには、準備を整えたイサクの心を持ってこなければなりません。決意したイサクの心構えをもって。死の決意をしたイサクの心構えです。こうして聖霊が働くのです。あなたのために選ばれた道具-それは何人かの若い青年かもしれません-それに関していかなる偏見を持つべきではありません。聖霊が彼らを通して働くのです。

そうすると、霊的障壁、霊的ブロック、心の壁をつくることがないのです。
イエス様がいわれたように「主なるあなたの神を試してはならない」ということです。多くの人が神様を試そうとしてやってきます。それはサタンの意志を実行しているのです。それをすると呪われるでしょう。

神様が用意したものを受けるために来たとしたらどうですか。祭壇の上で死んでその血を祭壇に撒かれるとするなら。そこにアロン(レビ族)の息子たちがいて、彼らは次の世代の祭司です。いまはもちろん、物を知らないかもしれません、成長の過程です。神様がそれを用いるとするなら、そのようなことは関係ありません。

若者たち、いつも私がいっているように、君たちの力でするのではありません。ただ、人のために祈りたいという願い、思いがあるならば、神様がその人に受け取らせたいと願われるものを受け取って欲しいと願うなら・・・ある人には叱責が必要かもしれません、あるいは厳しい非難が必要な場合もあるでしょう、例えて言うなら、その人の罪をあからさまにするスピーカーを頭の上につけて。また(祭壇の上で)死ぬ前に罪を悔い改める必要のある人もいるでしょう。イスラエルの罪をその頭上に載せて、そこに手を当てて、霊が打ち倒されるのです。

神様に祈りが導かれるように祈ります。神様の神秘な力の中で、神の王国の霊的証の中で導かれますように。そして按手を求めて来たすべての人が利己的な目的できたのではないということを求めます。むしろ(献げ物として)死ぬために来たのです。「(日本語で)分かりますか」。「(韓国語で)分かりましたか、分かりませんか」

では祈りましょう。

お父様、この時この日を感謝いたします。
あなたは霊を注ぎ、み言葉を注いでくださいました。
主よ、あなたが生きて私たちの中に住まわってくださることを感謝します。
あなたは完全に私たちの心の内に住むことを願っておられます。
神様、今日、われわれは祈りとともに按手をしたいと願っております。
皆、あなたを慕い求める者たちです。御顔を求め、あなたのご臨在を求める者たちです。
祭壇の前に立つイサクのように勇敢に信仰をもって信頼しながら、喜んで死なんとする人々です。

何があろうと、われわれは父なる神を、敬慕し愛する息子です。
神様、どうか祈りの按手を受けようと求める人々もそのような心情でありますように。どうかすべてのことを導き指示して下さいますように。そしてあなたの権威のもとにおいて下さい。

相応しいのなら、目を閉じ、人々に手を置いて祈りたいのです。いかなる場面においてもキリストに命を差し出したことのない人は今日がその時になるでしょう。神様は理由があって皆さんを呼び集めました。キリストに命捧げることができるように。多くの他の方法を求めましたが皆さんはうまくいくことがありませんでした。皆さんの方法では救いに至ることができないことは自分で知っているのです。年を取り、自分の死ぬ時を知ることもできません。体は弱くなり、この世の楽しみは色あせました。永遠の生命がなんであれ、死ねばそこに移るのです。キリストに命を預けたことがないとするならば、それこそあなたが今日ここにいる理由です。キリストに命を捧げることこそいま、神様に与えられた機会なのです。キリストに屈服することです。皆さんがそれを望むのなら今日皆さんのために祈ろうと思います。もし内なる葛藤、内なる痛みを魂に抱えているとするならば、弱さ、柔弱に打ち勝ちなさい。皆さんのために祈ります。特に若者が皆さんのために祈るでしょう。

もし外的な事情、身体の故障などと闘っているのなら、また自分の事業が失敗したなど外的な問題、サタンが讒訴できる条件を抱えているのなら、皆さんは次のステップを見てください。穴に落ち込んでいても、神様が次の段階を見せてくださることを心から切望するでしょう。われわれも皆さんのためにお祈りします。

最後に、あなたが救いについて確証がもてないのなら、かつてキリストにその命を捧げたけれど、その信仰が一進一退し、その熱が冷め、かつての信仰の火を失っているとするなら、自分が神の側にいることを知りたいのなら、あなたが死ぬときはサタンの側でなく神の側にいることを知ることを願うのなら。今日皆さんのために祈ります。

いま述べたどれかに自分が当てはまるなら、他の人を見ずに、手を挙げてください。

神様感謝します。

皆さん、立ち上がって神様の栄光を賛美し、今日祈祷を受ける人たちのために大きな拍手を送りましょう。

おわり

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祭壇に載せて下さいといえますか-2019年2月10日英語説教(その3)

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2019年2月10日 英語説教 文亨進二代王

翻訳:Harry

しかし注意しなければなりません。誰彼なしに手を置いて祈ることはしてはいけないのです。聖書がそれを記しています。

「ああ、あの人が癒され病気が治った!」「ああ、この人はすごい体験をした!」

そんなことは知らないというのです。私は神さまを試すつもりはありません。
あなたの神、主なる神を試みてはならないのです。

おそらくそういうことを思ったことがないでしょう。神様はあなたが偽り者であることを見抜かれます。手を置いて祈ることはとても深刻な種類の祈りだということです。それが献げものになるからです。それは献げられなければなりません。ただ祈りをうけるために来てはいけません。死ぬ覚悟ができていなければならないのです。(献祭のため)山に登る心構えが必要です。自分の父が自分を祭壇の上で献げものにするつもりでもよろこんで祭壇に載る心構えです。私ならそうします、イサクのように。
そういう心情を持っています。喜んで死ぬという心情を。
私を祭壇に載せてください死ぬ用意はできています。

皆さんなら踵(きびす)を返して山を降りようとするでしょう。それはだめです、登りなさい。ここまで分かりましたか。人に手を置いて祈るのには、こういうことを知っておかなければなりません。

若者はいま流行りの服を着て、迷彩柄、オレンジに緑色の服、Tシャツを着ている人もいるでしょう。われわれはバカではありません。服装に騙されません。わざわざ祭司のローブを着る必要はありません。パーカーでもレインコートでもいいのです。(笑)

心がそこに在るなら神様が用いるのです。他人の誉れのために祈ることがなければ、・・ああ、私が治してやる、これはだめです。通過体でなければならないのです。役に立つ電気の導線のようになって、さっと電気が流れるようにするのです。若者の心は純粋で、その動機は真実です。自分が手お置いて祈ることになるということを知らなくてもいいのです。普段の生活ではいないことをするのです。たいてい若者は自己中心であり、自分のことしか考えません。それが彼らにとっても喜ばしく心楽しいことだからです。

しかし生まれて初めて、そこから踏み出して、実際に人のために祈ったのです。この若者たちにとって誰かのために、ここで、祈るということは初めての体験なのです。なぜなら世の中の世俗的文化に染められ、教え込まれて、快楽主義者になり、喜びを探し求める者、ドーパミン・ハイにさせられて、ナルシスト、利己的になっているからです。

気にかかるのは、もう自分、自分と自分のことばかり。自分が楽しければ自分が嬉しければと。だから彼らの多くにとっては、今回、人のために手を置き祈るということは人生で初めてのことだったのです。しかしそれは関係ありません。何回人のために祈ったかなど関係ないのです。10年間祈り続けて1度の癒しも与えられなくてもいいのです。祈りの目的はそこにはないからです。

彼らの多くは初めて皆さんのために祈りました。自分でも何をしているか分かっていないのです。彼らはただ一生懸命に皆さんのためにと、意識をそこに集中させていました。

神様は、からし種ほどの信仰さえあれば山をも動かすことができると言われるのです。だから皆さんは信じられないかもしれませんが。「彼らにほんの小さな信仰さえあるなら神様が用いることができる」といっても、神様が必ず用いられるとは限りません。

用いることがあるかも知れないということです。なぜなら神様はすべての背景をご存知だからです。あらゆる角度から状況を把握しておられる。ここの若い男女の青年全員が前に出て祈ったとして、自分達も知らないうちに、神様が用いられます。

だから祈祷を受ける人は御言葉が言うことを信じなければなりません。彼らは献げ物に参加する一部です。ちょうど祭司長がアロンの息子たちを呼んだように。子供を。
進み出て参加しなさいと。

こうすることはサタン世界が行なう罪なき子供殺しに関係あるのです。
神様は子供を育て上げてほしいと願っておられます。子供を殺すのではなく、育て上げる。これらの少年少女たちの心の中で何かが起こります。彼らには見ることもできなければ感じることもできません。彼らが人のために祈るとき、もちろん完全ではありませんが、「よし、ここは一度、自分のことを気にするのではなく、人のために祈ろう」と。

不幸にも彼らは世の中で、ナルシスト、利己主義者、快楽主義者になる訓練を受けてきました。大きな影響を受けているのです。ブラックボックスが彼らの中にあり・・・ところで「猿の惑星」の映画ではブラックボックスが猿をコントロールしていました。

ブラックボックスが!

しかし神様はそれを大きなブレイクスルー(現状打破)に変えられます。

「ああ、二代王は私ではなくあの人を祈られた」こんなばかげたことを言ってはいけません。なぜなら私が、一緒に祈りなさいと言った時、一緒に祈る人も献げ物を捧げる祭壇の一部になっているからです。

私が、あの人の所に1秒いて、この人の所に3時間いたとしてもそんなことは関係ありません。ここはそのような利己的な思いを充満させる場ではないのです。

手を置いて祈るということは、聖霊にその人を委ねるということです。お父様がいてくださり導いて下さる、完全に主管していただく場だというのです。「ああ、この人よりも私を祈ってください」などと言っていてはダメです。関係ありません。

献げ物の場に同参している若者たち、彼らが手を置いて祈るときそれは私が祈ることと全く同じだということです。全体の一部だからです。献げ物の祭壇の場の一部です。皆さんは私の祈りを彼らを通して受けるのです。お父様があなたの所に来られるということです。手を置いて祈るその場の全体の一部なのです。だから自己中心の思いを持ってはいけません。

皆さんが海を渡ってここに来られたことは私たちにとって嬉しいことです。しかしそれが神様が恵みを与えてくださる条件になるとは限りません。航空チケットを買ってやってきた、だから恵みを受ける、神様が困難を打開して下さる、その資格がある、ということにはならないのです。

もし皆さんが、快楽主義的でナルシストのような利己心を持って来たとするなら、自分を高めようという動機できたとするなら、神様の恵みを受けることはできないでしょう。逆に呪いを受けるでしょう。按手を通して呪いを受けるでしょう。これを理解することが大切です。

(聖霊役事に)こうした様々な働きと意味があるということを聖書を通して知ることができます。私たちは熱烈に祈り、すべての者が皆さんのために祈ります。自らの命とエネルギーを皆さんのために祈りに注ぎ込みます。彼らは献げ物の祭壇の場の一部なのです。青年たちが皆さんのために祈る必要はありません。彼らのエネルギーを皆さんの健康のために投入する必要は必ずしもないのです。しかし彼らは祈ります。神の平安のための道具になるために、神様が用いることができるように。

だから手を置いて祈る、その祈り(聖霊役事)を受けるときには、いま述べた背景全体を理解しておかなければなりません。ただやってきて「恵みを受けたい」というのではいけません。どれほどの人数を神様が同時に用いるか知ってください、あなたが一度死んでキリストと共に新生するために。多くの人が今回は関わります。

つづく

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軽々しく人に手をおいてはならない-2019年2月10日英語説教(その2)

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2019年2月10日 英語説教 文亨進二代王

翻訳:Harry

新約聖書では、手を置くと病が癒されたとなっています、しかし旧約聖書では、キリストや使徒の前に癒しを求めてやってくる人々に対してこれらの内的な意味が示されているのです。これは最初の聖句をみれば明らかです。

「軽々しく人に手をおいてはならない(Iテモテ22)」

だからやたらと手をおいてはいけないのです。「手を置く」ということは特別な行為なのです。だから聖書は、「軽々しく手を置くな」「誰にでも構わす手を置くな」と警告しているのです。「それによって人の罪の責任を背負い込むな(Iテモテ22)」。だから誰彼構わず、ただすればよいというものではないのです。「手を置く」行為は特別なことなのです。

「たまたま、ポプリオの父が赤痢をわずらい、高熱で床についていた。そこでパウロは、その人のところにはいって行って祈り、手を彼の上においていやしてやった(使徒28:8)」

この新約聖書の短い聖句から手を置いて癒されたということがわかります、またそれが聖霊の業であるということも理解します。しかしその内的な意味は癒される人が神の祭壇に自分を献げたということ、そこに祭司が手を置くことで聖霊が働く、祭司の手が道具として使われたということです。ちょうど献げ物となる動物の上に手を置いたのとおなじです。次にその人は霊によって倒されます。自ら一度死んで、それからキリストにおいて新生するということです。

そして祭壇が火に包まれる。焼き尽くされるというのです。それは聖霊の炎です。不純なものを燃やし、神の火で人を満たす。失われた子供-堕落した人間を救おうとする愛の炎です。最後の時、収穫を得ようとする燃えるような願望です。だからその行為にとても深い意味がるのです。聖書をそういうふうに読まないので、起こっていることの背景と意味を悟ることができませんでした。これを理解するとき、イスラエル神殿から聖霊による生きた神、天の父の証にいたるまで「手を置く」ことによって起きることの意味が分かるのです。

「手を置く」のはわれわれだけでなく若者も関与します。聖句を読めば、アロンの息子たちが献げ物の動物を用意したことが分かります。それを切り分けたちがことも記されています。彼らは、動物の内臓を洗ったり、火が献げ物を焼き尽くすまで火が消えないように見張っていました。これは世代を超える作業だったのです。祭司だけの仕事ではなくすべての世代が協力しておこなわれたのです。若者たちは自分たちのしていることの意味が分からないかもしれません。ただ祈るだけかもしれません。しかしその間、聖書にしるされる一連の作業のように献げ物が切り分けられ、頭部が取り除かれ、胴が切り取られる。そして一部の臓器が洗われる、そうして捧げものになるのです。こうした一連の流れを理解するとき、イスラエル神殿で神のみ前で行われたこと、その聖なる意味が分かるのです。それで、手を置くときに自分や他の若者がしていることの内側の意味をうかがい知ることができるのです。

手を置かれるとき(聖霊役事を受けるとき)、いま読んだレビ記の聖句を思い出してください。神様を試すためではなく、(献げ物として)死ぬために来るのです。神様を試すのではありません。そういう人は待たなければなりません、まだ聖霊を受ける準備ができていないのです。

手を置いてほしいと願うなら、アロンの息子たちにいろいろ準備してもらいたいのなら、いま言った心構えで来なければなりません。祭壇の上で喜んで献げものになる心情でこなければなりません。アロンの息子たちが完全で、罪を犯したことがないなどと言いません。神様が王となり祭司となるように願われた者たちです。

黙示録第1章5節から見てみましょう。

「更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」

私たちを王とし、祭司としてくださる・・とあります。王や祭司にしてくれるだろう、と未来形で述べていません。「わたしたちを王とし、・・・祭司としてくださった方」とすでにあったこととして述べているのです。だからここの若者が完全だから皆さんのために祈ってくれるということではないのです。完全な器が必要というわけではないのです。神様はいつでも完璧な器を用いられるとは限りません。ここまで大丈夫ですか。それでも神様はその器を用いられるのです。ここの若者たちは深い意味は分かりません。ただ忠実に、ただ信仰をもって人を助けたいと思っているだけです。どうにか自分の祈りが天に通じるものにしたいと彼らは思っているのです。それで(倒れた人に)手を置いて、祈っているのです。

祈りが通じたから癒されるのではありませんし、超能力を持っているからでもありません。神様の道具に徹するから、聖霊の道具になるから治癒するのです。

だから癒しを得ることができるのです。だから奇跡が起こり、答えが与えられるのです。自ら命を投げ出して(献げ物になる)、新たに生まれようとする人、新たな神の願いを持とうとする人のゆえに得られるのです。神様は私たちの心を見ておられます。何を待ち望んでいるのか。この世のものではなく、神を待ち望むのです。だから若者に頼むときこれをおかしなことだと思ってはいけません。きょう見た聖句をご覧なさい、生ける神の証があります。レビ人達は若者をよんで献げものの準備をさせたのです。分かりますか。将来の祭司です。これらの若者はキリストと共に立つ、家庭では王になるべき者たちです。古い自分は死んで新たにキリストを心に迎えるのです。だから若者を前に来させて祈らせることは重要なことなのです。

つづく

聖霊役事の内的意味とその深刻さ-2019年2月10日英語説教(その1)

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2019年2月10日 英語説教 文亨進二代王

翻訳:Harry

着席して下さい。少しストレッチ(体を伸ばす)をするのもいいでしょう。
レビ記から読みます。皆さんのために祈る前に、多くの人が今日のために祈ってくれました。
レビ記第1章です。焼き尽くす捧げものの所です。3節から読みます。いや1節から読みます。

01:01主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。 01:02イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。 01:03牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、 01:04手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。 01:05奉納者がその牛を主の御前で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を臨在の幕屋の入り口にある祭壇の四つの側面に注ぎかけてささげる。 01:06奉納者が献げ物とする牛の皮をはぎ、その体を各部に分割すると、 01:07祭司アロンの子らは祭壇に薪を整えて並べ、火をつけてから、 01:08分割した各部を、頭と脂肪と共に祭壇の燃えている薪の上に置く。 01:09奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。

ここにもありますが、他にもリストアップしています。旧約聖書のレビ記においてすらいくつかの聖句は按手(あんしゅ)について記しています。按手については内的な意味があるのです。新約聖書では多くの按手を行い、それによって癒す場面があります。しかし内的な深い意味はレビ記の焼き尽くす献げ物の中に見ることができるのです。神のみ前に出て、祈りを受け入れてくださるように願うなら、イサク(アブラハムのことか)のような心を持たなければなりません。息子を捧げたくはないがそれでも祭壇に向かう。そういう時に(神様の)御手が差し伸べられるのです。死の直前の一瞬、そうなるというのです。これは興味深いところです。

あなたが神の祭壇に向かって進んでいくとき、そこで命を惜しまず、命をも捧げようとするとき・・・ちょうどキリストが言ったように「死なんとするものが生きる」ということです。だから祈祷を受けようと思ってやってくるとき、ある具体的な目的のために按手するというよりも、旧約聖書にあるように、死の直前の瞬間であることが必要になる、興味深い話ではないですか。そう、まさに死のうとするその直前です。

新約聖書ではキリストは、(古い)自分は死んで、私によって新しく生まれなさい、といわれています。それは自分自身を手放すということです、われわれの願望も意志も含めて。そうして神様の主管を願う。私たちの人生を委ねるということです。すべて祭壇の上に載せるということです。それが心構えであり、霊的決意であり、魂の姿勢、それによって御手が臨むのです。御手による救い(按手)は神様の霊の内にあるとても力強い賜物です。

レビ記の1章4節を見てください。
「手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」とあります。同3章2節はこうです。「奉納者が献げ物とする牛の頭に手を置き、臨在の幕屋の入り口で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける」この献げものの儀式には子供も参加していたのです。

ここでも若い人たちが前に来て祈りますが、これは若き祭司が立つことなのです。若き王、祭司が生まれてくることです。だから若者たちが前に来て(聖霊の役事で倒れた)人々に手を置くでしょう。その時にこの聖句を思い出してください。力強い内的背景があるのです。神様への捧げもののような気持ちになること。

聖句をもう少し深く読み込んでみましょう。レビ記3章2節からです。
「奉納者が献げ物とする牛の頭に手を置き、臨在の幕屋の入り口で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける」「奉納者がこの牛を燃やして主にささげる和解の献げ物とする場合は、内臓を覆っている脂肪、内臓に付着するすべての脂肪、 03:04二つの腎臓とそれに付着する腰のあたりの脂肪、および腎臓と共に切り取った肝臓の尾状葉を取る」

いいですかここで献げ物に火を放って燃やし尽くすというのです。だから御手の働きを体験するとき多くの人が神の火を感じるのです。皆さんは祭壇に登り、そこで献げられた物は火で焼き尽くされるのですから。旧約聖書のここに手を置く情景があります。新約聖書にもその情景は描かれています。ここで4章15節に飛びます。13節から読みます。

「イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合、そのことが会衆の目にあらわにならなくても、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、 04:14その違反の罪に気づいたときは、会衆は若い雄牛を贖罪の献げ物としてささげ、それを臨在の幕屋の前に引いて行く。15共同体の長老たちは主の御前に立って牛の頭に手を置き、主の御前でその牛を屠る油注がれた祭司は牛の血を取って、臨在の幕屋に携えて入り、 04:17指を血に浸し、垂れ幕の前で主の御前に七度血を振りまく。・・・」

わかりますか。(献げ物の)命を奪う動物の前にあってさえ、その上に手を置くとき全会衆が悔い改めるのです。悔い改め。悔い改めが献げ物の額に置かれるのです。献げ物を捧げる前に。これと同じように見ることができます。癒しは起きますがその内的な意味はキリストに屈服することです。キリストの名のためなら喜んで死ぬ覚悟です。そうするとキリストが心に入ってきて共に住まれるのです。その権能と火と神の愛が共にあります。(聖霊役事で)祈って、横たえる。祈ってあげる。普通に話せばこうなりますが、手をかざす(按手する)ということはとんでもなく深刻なことなのです。ずっと深刻です。「あなたの死の直前」だというのです。ずっとずっと深刻な、アノインティングであり祈りであるということです。今見たような献げ物を捧げる場面たというのです。

レビ記16章を見ましょう。ここはすべて献げ物について書かれています。

「21 そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない」

新約聖書に移って使徒言行録の6章6節、
「6 使徒たちの前に立たせた。すると、使徒たちは祈って手を彼らの上においた

新約でも手を上に置くというところがでてきますが、それはアノインティングの場面です。そして献げ物の場面、捧げものです。神様のみことばは連結しているからです。旧約と新約は連結している。

つづく

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サンクチュアリ通信2月号の紹介

2019-02-11

サンクチュアリ通信 2019年2月号

- 新千年紀の礎研究 / 世界に広がるイエローベスト運動 / アイスマンと山岳修験者 /
鉄の杖特集 -

1面 12月から1月にかけてのサンクチュアリ教会の主な出来事
聖霊役事が本格始動 

2面 Providence2019と内外情勢
  文亨進二代王様のみ言と動向 M. Nagata
  世界に広がるイエローベスト運動  山下滋子
  Coffee break 父親の本質的影響

3面 新千年紀の礎研究 川原徳昭

4面 Free Themeと融和の広場
  アイスマンと山岳修験者 EIJI HARIKAWA
今、感ずること 田中広二
   8月の言葉 アラン
   編集後記 ハリー

鉄の杖特集 1.鉄の杖と民間防衛 堀勇一
      2.平和警察と平和軍 宇佐美優  

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 父親の本質的影響

アメリカで連続殺人犯の生い立ちを調査したら、ひとつだけ全ての犯人に共通するものがあった。それは父親に問題があったこと。全てという確率は恐ろしい。人は、父親に問題がなければ、絶対に連続殺人は犯さず、反対に、他に問題がなくとも父親に問題があれば連続殺人を犯せる、という結論。子供の性格は母親がつくる、が常識。しかし、より本質的には、父親が重大な影響を与えている。メシアは男であり父でなければならない傍証。