お知らせから-2月17日英語説教

Sunday Service February 17 2019 Rev Hyung Jin Moon Unification Sanctuary Newfoundland PA on Vimeo

2019年2月17日 英語説教 お知らせから

翻訳:BAMBOOS

王妃とそのチームが動画を公開しています。先月始めたところですが、最初の動画が2万ビューを超えました。最初の動画としては非常に早く、大きな達成です。全て韓国語で、フェミニズムや、若い女性の未来を破滅させるフェミニズムの嘘に対して真剣に批判を行っています。

王妃はフェミニズムの嘘についてちょうどまた動画を上げたところです。これが韓国の大きなチャンネルで取り上げられました。自分たちのところで使用して良いか、と許可を求めて来ました。そして多少編集が入ったものの、何万人もの視聴者がいる大きなチャンネルで、ほぼ完全に彼女の動画を放送したのです。

それが広まって、チャンネル登録が急速に増えました。つまりこの30代、40代の女性たちが隙間市場を埋めることができ、フェミニストの母たちによって嘘を洗脳されている若い女性たちに方向性を示すことができたのです。王妃はいくつかの思想を掘り下げて、若い女性たちに驚くほどうまく示しています。

実際わずか数週間でこうして聴衆を引き付けたのは、目を見張るような結果であり、市場が成熟していて真実に飢えており、あらゆる大衆文化の言いなりになることにうんざりしていることを示すものです。それがとうとうセカンドオピニオンを得ることができたのです。

ユジンはすくに韓国に帰ってしまいますが、王妃に編集などで協力してくれました。彼女たちのチャンネルは韓国でもとても大きなものになっています。彼女は韓国に帰って、韓国の保守運動のために左翼と戦うつもりです。しかし王妃の動画はユーチューブでヒットしています。見てくれた人全員に感謝しています。メッセージは伝えられています。

今この場所から強い女性が現れたということは、驚くべきことです。世界について明確に理解している女性です。明確であり、洗脳されておらず、公立学校によってレベルを下げられていません。あらゆる機関の嘘を理解しています。結婚、子供、力と名誉などの社会の本当の価値を支持する、信仰を持った高潔な女性たちです。

人々がこうした女性たちのことをますます知るようになり、それに従ってくる人たちは弟子となり、キリストに近づくことになります。なぜならキリストに似た女性であり、信仰を持つ女性であり、羊飼いのような導き手であるからです。弱い女性ではありません。本当の守護者、導き手となるのです。この女性たちは、普通の女性に見えても普通の女性ではありません。普通の女性は弱く、思考停止に陥り、レベルを下げられています。ここにいる女性は訓練を受け、守護者となり、危険なことを学び、エピジェネティクスが解放されています。

つづく

サンクチュアリNEWS 閲覧回数の報告

Professional Business テーマ ‹ サンクチュアリ NEWS — WordPress com.png

日本ブログ村の規模縮小によるシステム変更に伴い、当ブロブが使用している(WORDPRESS)への対応が遅れ、むしろなされず、ランキング、INポイント、新着記事の認識に関していまだ不具合が改善されていないのが現状です。

愛読者の皆さまにはご不便をおかけしておりますが、ブログ村に所属していた時の閲覧回数よりも、ブログ村を出て「独立系」になってからの方が平均閲覧回数が伸びている(増えている)ことを皆さまに感謝しながら、謹んでご報告いたします。

統計情報 ‹ サンクチュアリ NEWS — WordPress com.png

ブログ村にいた期間 1月5日~1月22日(年末年始は記事更新を停止していた。記事更新再開時1月5日からの数字)の1日の平均閲覧回数  772ビュー

ブログ村を出てから 1月23日~2月16日までの1日の平均閲覧回数  904ビュー

ご愛読感謝申し上げます。

管理人:Harry

2019年2月10日英語説教(その4:最終回)

Sunday Service   February 10  2019   Rev  Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

2019年2月10日 英語説教 文亨進二代王

翻訳:Harry

手を置いて祈るのは、聖書によれば(献げ物の)動物が命を絶たれる直前に行われるものです。

「私はただ二代王から祝祷されたいだけだ」「友達が行くから私もお願いしよう」などと考えてやってくるなら私は祈りません。それは快楽主義です。そういう人のために祈る必要を感じません。それは聖所で献祭を捧げる正しい姿勢ではありません。それは汚れた献祭をするときの姿勢です。そのように献げられた若雌牛はうち捨てられるでしょう。ここでは傷のない若雌牛が選ばれるべきです。

だから按手を求めて来るときには、準備を整えたイサクの心を持ってこなければなりません。決意したイサクの心構えをもって。死の決意をしたイサクの心構えです。こうして聖霊が働くのです。あなたのために選ばれた道具-それは何人かの若い青年かもしれません-それに関していかなる偏見を持つべきではありません。聖霊が彼らを通して働くのです。

そうすると、霊的障壁、霊的ブロック、心の壁をつくることがないのです。
イエス様がいわれたように「主なるあなたの神を試してはならない」ということです。多くの人が神様を試そうとしてやってきます。それはサタンの意志を実行しているのです。それをすると呪われるでしょう。

神様が用意したものを受けるために来たとしたらどうですか。祭壇の上で死んでその血を祭壇に撒かれるとするなら。そこにアロン(レビ族)の息子たちがいて、彼らは次の世代の祭司です。いまはもちろん、物を知らないかもしれません、成長の過程です。神様がそれを用いるとするなら、そのようなことは関係ありません。

若者たち、いつも私がいっているように、君たちの力でするのではありません。ただ、人のために祈りたいという願い、思いがあるならば、神様がその人に受け取らせたいと願われるものを受け取って欲しいと願うなら・・・ある人には叱責が必要かもしれません、あるいは厳しい非難が必要な場合もあるでしょう、例えて言うなら、その人の罪をあからさまにするスピーカーを頭の上につけて。また(祭壇の上で)死ぬ前に罪を悔い改める必要のある人もいるでしょう。イスラエルの罪をその頭上に載せて、そこに手を当てて、霊が打ち倒されるのです。

神様に祈りが導かれるように祈ります。神様の神秘な力の中で、神の王国の霊的証の中で導かれますように。そして按手を求めて来たすべての人が利己的な目的できたのではないということを求めます。むしろ(献げ物として)死ぬために来たのです。「(日本語で)分かりますか」。「(韓国語で)分かりましたか、分かりませんか」

では祈りましょう。

お父様、この時この日を感謝いたします。
あなたは霊を注ぎ、み言葉を注いでくださいました。
主よ、あなたが生きて私たちの中に住まわってくださることを感謝します。
あなたは完全に私たちの心の内に住むことを願っておられます。
神様、今日、われわれは祈りとともに按手をしたいと願っております。
皆、あなたを慕い求める者たちです。御顔を求め、あなたのご臨在を求める者たちです。
祭壇の前に立つイサクのように勇敢に信仰をもって信頼しながら、喜んで死なんとする人々です。

何があろうと、われわれは父なる神を、敬慕し愛する息子です。
神様、どうか祈りの按手を受けようと求める人々もそのような心情でありますように。どうかすべてのことを導き指示して下さいますように。そしてあなたの権威のもとにおいて下さい。

相応しいのなら、目を閉じ、人々に手を置いて祈りたいのです。いかなる場面においてもキリストに命を差し出したことのない人は今日がその時になるでしょう。神様は理由があって皆さんを呼び集めました。キリストに命捧げることができるように。多くの他の方法を求めましたが皆さんはうまくいくことがありませんでした。皆さんの方法では救いに至ることができないことは自分で知っているのです。年を取り、自分の死ぬ時を知ることもできません。体は弱くなり、この世の楽しみは色あせました。永遠の生命がなんであれ、死ねばそこに移るのです。キリストに命を預けたことがないとするならば、それこそあなたが今日ここにいる理由です。キリストに命を捧げることこそいま、神様に与えられた機会なのです。キリストに屈服することです。皆さんがそれを望むのなら今日皆さんのために祈ろうと思います。もし内なる葛藤、内なる痛みを魂に抱えているとするならば、弱さ、柔弱に打ち勝ちなさい。皆さんのために祈ります。特に若者が皆さんのために祈るでしょう。

もし外的な事情、身体の故障などと闘っているのなら、また自分の事業が失敗したなど外的な問題、サタンが讒訴できる条件を抱えているのなら、皆さんは次のステップを見てください。穴に落ち込んでいても、神様が次の段階を見せてくださることを心から切望するでしょう。われわれも皆さんのためにお祈りします。

最後に、あなたが救いについて確証がもてないのなら、かつてキリストにその命を捧げたけれど、その信仰が一進一退し、その熱が冷め、かつての信仰の火を失っているとするなら、自分が神の側にいることを知りたいのなら、あなたが死ぬときはサタンの側でなく神の側にいることを知ることを願うのなら。今日皆さんのために祈ります。

いま述べたどれかに自分が当てはまるなら、他の人を見ずに、手を挙げてください。

神様感謝します。

皆さん、立ち上がって神様の栄光を賛美し、今日祈祷を受ける人たちのために大きな拍手を送りましょう。

おわり

Hand of God Bookmark Yongsung Kim   ldsbookuk com.png

 

祭壇に載せて下さいといえますか-2019年2月10日英語説教(その3)

Sunday Service   February 10  2019   Rev  Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

2019年2月10日 英語説教 文亨進二代王

翻訳:Harry

しかし注意しなければなりません。誰彼なしに手を置いて祈ることはしてはいけないのです。聖書がそれを記しています。

「ああ、あの人が癒され病気が治った!」「ああ、この人はすごい体験をした!」

そんなことは知らないというのです。私は神さまを試すつもりはありません。
あなたの神、主なる神を試みてはならないのです。

おそらくそういうことを思ったことがないでしょう。神様はあなたが偽り者であることを見抜かれます。手を置いて祈ることはとても深刻な種類の祈りだということです。それが献げものになるからです。それは献げられなければなりません。ただ祈りをうけるために来てはいけません。死ぬ覚悟ができていなければならないのです。(献祭のため)山に登る心構えが必要です。自分の父が自分を祭壇の上で献げものにするつもりでもよろこんで祭壇に載る心構えです。私ならそうします、イサクのように。
そういう心情を持っています。喜んで死ぬという心情を。
私を祭壇に載せてください死ぬ用意はできています。

皆さんなら踵(きびす)を返して山を降りようとするでしょう。それはだめです、登りなさい。ここまで分かりましたか。人に手を置いて祈るのには、こういうことを知っておかなければなりません。

若者はいま流行りの服を着て、迷彩柄、オレンジに緑色の服、Tシャツを着ている人もいるでしょう。われわれはバカではありません。服装に騙されません。わざわざ祭司のローブを着る必要はありません。パーカーでもレインコートでもいいのです。(笑)

心がそこに在るなら神様が用いるのです。他人の誉れのために祈ることがなければ、・・ああ、私が治してやる、これはだめです。通過体でなければならないのです。役に立つ電気の導線のようになって、さっと電気が流れるようにするのです。若者の心は純粋で、その動機は真実です。自分が手お置いて祈ることになるということを知らなくてもいいのです。普段の生活ではいないことをするのです。たいてい若者は自己中心であり、自分のことしか考えません。それが彼らにとっても喜ばしく心楽しいことだからです。

しかし生まれて初めて、そこから踏み出して、実際に人のために祈ったのです。この若者たちにとって誰かのために、ここで、祈るということは初めての体験なのです。なぜなら世の中の世俗的文化に染められ、教え込まれて、快楽主義者になり、喜びを探し求める者、ドーパミン・ハイにさせられて、ナルシスト、利己的になっているからです。

気にかかるのは、もう自分、自分と自分のことばかり。自分が楽しければ自分が嬉しければと。だから彼らの多くにとっては、今回、人のために手を置き祈るということは人生で初めてのことだったのです。しかしそれは関係ありません。何回人のために祈ったかなど関係ないのです。10年間祈り続けて1度の癒しも与えられなくてもいいのです。祈りの目的はそこにはないからです。

彼らの多くは初めて皆さんのために祈りました。自分でも何をしているか分かっていないのです。彼らはただ一生懸命に皆さんのためにと、意識をそこに集中させていました。

神様は、からし種ほどの信仰さえあれば山をも動かすことができると言われるのです。だから皆さんは信じられないかもしれませんが。「彼らにほんの小さな信仰さえあるなら神様が用いることができる」といっても、神様が必ず用いられるとは限りません。

用いることがあるかも知れないということです。なぜなら神様はすべての背景をご存知だからです。あらゆる角度から状況を把握しておられる。ここの若い男女の青年全員が前に出て祈ったとして、自分達も知らないうちに、神様が用いられます。

だから祈祷を受ける人は御言葉が言うことを信じなければなりません。彼らは献げ物に参加する一部です。ちょうど祭司長がアロンの息子たちを呼んだように。子供を。
進み出て参加しなさいと。

こうすることはサタン世界が行なう罪なき子供殺しに関係あるのです。
神様は子供を育て上げてほしいと願っておられます。子供を殺すのではなく、育て上げる。これらの少年少女たちの心の中で何かが起こります。彼らには見ることもできなければ感じることもできません。彼らが人のために祈るとき、もちろん完全ではありませんが、「よし、ここは一度、自分のことを気にするのではなく、人のために祈ろう」と。

不幸にも彼らは世の中で、ナルシスト、利己主義者、快楽主義者になる訓練を受けてきました。大きな影響を受けているのです。ブラックボックスが彼らの中にあり・・・ところで「猿の惑星」の映画ではブラックボックスが猿をコントロールしていました。

ブラックボックスが!

しかし神様はそれを大きなブレイクスルー(現状打破)に変えられます。

「ああ、二代王は私ではなくあの人を祈られた」こんなばかげたことを言ってはいけません。なぜなら私が、一緒に祈りなさいと言った時、一緒に祈る人も献げ物を捧げる祭壇の一部になっているからです。

私が、あの人の所に1秒いて、この人の所に3時間いたとしてもそんなことは関係ありません。ここはそのような利己的な思いを充満させる場ではないのです。

手を置いて祈るということは、聖霊にその人を委ねるということです。お父様がいてくださり導いて下さる、完全に主管していただく場だというのです。「ああ、この人よりも私を祈ってください」などと言っていてはダメです。関係ありません。

献げ物の場に同参している若者たち、彼らが手を置いて祈るときそれは私が祈ることと全く同じだということです。全体の一部だからです。献げ物の祭壇の場の一部です。皆さんは私の祈りを彼らを通して受けるのです。お父様があなたの所に来られるということです。手を置いて祈るその場の全体の一部なのです。だから自己中心の思いを持ってはいけません。

皆さんが海を渡ってここに来られたことは私たちにとって嬉しいことです。しかしそれが神様が恵みを与えてくださる条件になるとは限りません。航空チケットを買ってやってきた、だから恵みを受ける、神様が困難を打開して下さる、その資格がある、ということにはならないのです。

もし皆さんが、快楽主義的でナルシストのような利己心を持って来たとするなら、自分を高めようという動機できたとするなら、神様の恵みを受けることはできないでしょう。逆に呪いを受けるでしょう。按手を通して呪いを受けるでしょう。これを理解することが大切です。

(聖霊役事に)こうした様々な働きと意味があるということを聖書を通して知ることができます。私たちは熱烈に祈り、すべての者が皆さんのために祈ります。自らの命とエネルギーを皆さんのために祈りに注ぎ込みます。彼らは献げ物の祭壇の場の一部なのです。青年たちが皆さんのために祈る必要はありません。彼らのエネルギーを皆さんの健康のために投入する必要は必ずしもないのです。しかし彼らは祈ります。神の平安のための道具になるために、神様が用いることができるように。

だから手を置いて祈る、その祈り(聖霊役事)を受けるときには、いま述べた背景全体を理解しておかなければなりません。ただやってきて「恵みを受けたい」というのではいけません。どれほどの人数を神様が同時に用いるか知ってください、あなたが一度死んでキリストと共に新生するために。多くの人が今回は関わります。

つづく

holy spirit   Google 検索.png

軽々しく人に手をおいてはならない-2019年2月10日英語説教(その2)

Sunday Service   February 10  2019   Rev  Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

2019年2月10日 英語説教 文亨進二代王

翻訳:Harry

新約聖書では、手を置くと病が癒されたとなっています、しかし旧約聖書では、キリストや使徒の前に癒しを求めてやってくる人々に対してこれらの内的な意味が示されているのです。これは最初の聖句をみれば明らかです。

「軽々しく人に手をおいてはならない(Iテモテ22)」

だからやたらと手をおいてはいけないのです。「手を置く」ということは特別な行為なのです。だから聖書は、「軽々しく手を置くな」「誰にでも構わす手を置くな」と警告しているのです。「それによって人の罪の責任を背負い込むな(Iテモテ22)」。だから誰彼構わず、ただすればよいというものではないのです。「手を置く」行為は特別なことなのです。

「たまたま、ポプリオの父が赤痢をわずらい、高熱で床についていた。そこでパウロは、その人のところにはいって行って祈り、手を彼の上においていやしてやった(使徒28:8)」

この新約聖書の短い聖句から手を置いて癒されたということがわかります、またそれが聖霊の業であるということも理解します。しかしその内的な意味は癒される人が神の祭壇に自分を献げたということ、そこに祭司が手を置くことで聖霊が働く、祭司の手が道具として使われたということです。ちょうど献げ物となる動物の上に手を置いたのとおなじです。次にその人は霊によって倒されます。自ら一度死んで、それからキリストにおいて新生するということです。

そして祭壇が火に包まれる。焼き尽くされるというのです。それは聖霊の炎です。不純なものを燃やし、神の火で人を満たす。失われた子供-堕落した人間を救おうとする愛の炎です。最後の時、収穫を得ようとする燃えるような願望です。だからその行為にとても深い意味がるのです。聖書をそういうふうに読まないので、起こっていることの背景と意味を悟ることができませんでした。これを理解するとき、イスラエル神殿から聖霊による生きた神、天の父の証にいたるまで「手を置く」ことによって起きることの意味が分かるのです。

「手を置く」のはわれわれだけでなく若者も関与します。聖句を読めば、アロンの息子たちが献げ物の動物を用意したことが分かります。それを切り分けたちがことも記されています。彼らは、動物の内臓を洗ったり、火が献げ物を焼き尽くすまで火が消えないように見張っていました。これは世代を超える作業だったのです。祭司だけの仕事ではなくすべての世代が協力しておこなわれたのです。若者たちは自分たちのしていることの意味が分からないかもしれません。ただ祈るだけかもしれません。しかしその間、聖書にしるされる一連の作業のように献げ物が切り分けられ、頭部が取り除かれ、胴が切り取られる。そして一部の臓器が洗われる、そうして捧げものになるのです。こうした一連の流れを理解するとき、イスラエル神殿で神のみ前で行われたこと、その聖なる意味が分かるのです。それで、手を置くときに自分や他の若者がしていることの内側の意味をうかがい知ることができるのです。

手を置かれるとき(聖霊役事を受けるとき)、いま読んだレビ記の聖句を思い出してください。神様を試すためではなく、(献げ物として)死ぬために来るのです。神様を試すのではありません。そういう人は待たなければなりません、まだ聖霊を受ける準備ができていないのです。

手を置いてほしいと願うなら、アロンの息子たちにいろいろ準備してもらいたいのなら、いま言った心構えで来なければなりません。祭壇の上で喜んで献げものになる心情でこなければなりません。アロンの息子たちが完全で、罪を犯したことがないなどと言いません。神様が王となり祭司となるように願われた者たちです。

黙示録第1章5節から見てみましょう。

「更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」

私たちを王とし、祭司としてくださる・・とあります。王や祭司にしてくれるだろう、と未来形で述べていません。「わたしたちを王とし、・・・祭司としてくださった方」とすでにあったこととして述べているのです。だからここの若者が完全だから皆さんのために祈ってくれるということではないのです。完全な器が必要というわけではないのです。神様はいつでも完璧な器を用いられるとは限りません。ここまで大丈夫ですか。それでも神様はその器を用いられるのです。ここの若者たちは深い意味は分かりません。ただ忠実に、ただ信仰をもって人を助けたいと思っているだけです。どうにか自分の祈りが天に通じるものにしたいと彼らは思っているのです。それで(倒れた人に)手を置いて、祈っているのです。

祈りが通じたから癒されるのではありませんし、超能力を持っているからでもありません。神様の道具に徹するから、聖霊の道具になるから治癒するのです。

だから癒しを得ることができるのです。だから奇跡が起こり、答えが与えられるのです。自ら命を投げ出して(献げ物になる)、新たに生まれようとする人、新たな神の願いを持とうとする人のゆえに得られるのです。神様は私たちの心を見ておられます。何を待ち望んでいるのか。この世のものではなく、神を待ち望むのです。だから若者に頼むときこれをおかしなことだと思ってはいけません。きょう見た聖句をご覧なさい、生ける神の証があります。レビ人達は若者をよんで献げものの準備をさせたのです。分かりますか。将来の祭司です。これらの若者はキリストと共に立つ、家庭では王になるべき者たちです。古い自分は死んで新たにキリストを心に迎えるのです。だから若者を前に来させて祈らせることは重要なことなのです。

つづく

聖霊役事の内的意味とその深刻さ-2019年2月10日英語説教(その1)

Sunday Service   February 10  2019   Rev  Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

2019年2月10日 英語説教 文亨進二代王

翻訳:Harry

着席して下さい。少しストレッチ(体を伸ばす)をするのもいいでしょう。
レビ記から読みます。皆さんのために祈る前に、多くの人が今日のために祈ってくれました。
レビ記第1章です。焼き尽くす捧げものの所です。3節から読みます。いや1節から読みます。

01:01主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。 01:02イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。 01:03牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、 01:04手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。 01:05奉納者がその牛を主の御前で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を臨在の幕屋の入り口にある祭壇の四つの側面に注ぎかけてささげる。 01:06奉納者が献げ物とする牛の皮をはぎ、その体を各部に分割すると、 01:07祭司アロンの子らは祭壇に薪を整えて並べ、火をつけてから、 01:08分割した各部を、頭と脂肪と共に祭壇の燃えている薪の上に置く。 01:09奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。

ここにもありますが、他にもリストアップしています。旧約聖書のレビ記においてすらいくつかの聖句は按手(あんしゅ)について記しています。按手については内的な意味があるのです。新約聖書では多くの按手を行い、それによって癒す場面があります。しかし内的な深い意味はレビ記の焼き尽くす献げ物の中に見ることができるのです。神のみ前に出て、祈りを受け入れてくださるように願うなら、イサク(アブラハムのことか)のような心を持たなければなりません。息子を捧げたくはないがそれでも祭壇に向かう。そういう時に(神様の)御手が差し伸べられるのです。死の直前の一瞬、そうなるというのです。これは興味深いところです。

あなたが神の祭壇に向かって進んでいくとき、そこで命を惜しまず、命をも捧げようとするとき・・・ちょうどキリストが言ったように「死なんとするものが生きる」ということです。だから祈祷を受けようと思ってやってくるとき、ある具体的な目的のために按手するというよりも、旧約聖書にあるように、死の直前の瞬間であることが必要になる、興味深い話ではないですか。そう、まさに死のうとするその直前です。

新約聖書ではキリストは、(古い)自分は死んで、私によって新しく生まれなさい、といわれています。それは自分自身を手放すということです、われわれの願望も意志も含めて。そうして神様の主管を願う。私たちの人生を委ねるということです。すべて祭壇の上に載せるということです。それが心構えであり、霊的決意であり、魂の姿勢、それによって御手が臨むのです。御手による救い(按手)は神様の霊の内にあるとても力強い賜物です。

レビ記の1章4節を見てください。
「手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」とあります。同3章2節はこうです。「奉納者が献げ物とする牛の頭に手を置き、臨在の幕屋の入り口で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける」この献げものの儀式には子供も参加していたのです。

ここでも若い人たちが前に来て祈りますが、これは若き祭司が立つことなのです。若き王、祭司が生まれてくることです。だから若者たちが前に来て(聖霊の役事で倒れた)人々に手を置くでしょう。その時にこの聖句を思い出してください。力強い内的背景があるのです。神様への捧げもののような気持ちになること。

聖句をもう少し深く読み込んでみましょう。レビ記3章2節からです。
「奉納者が献げ物とする牛の頭に手を置き、臨在の幕屋の入り口で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける」「奉納者がこの牛を燃やして主にささげる和解の献げ物とする場合は、内臓を覆っている脂肪、内臓に付着するすべての脂肪、 03:04二つの腎臓とそれに付着する腰のあたりの脂肪、および腎臓と共に切り取った肝臓の尾状葉を取る」

いいですかここで献げ物に火を放って燃やし尽くすというのです。だから御手の働きを体験するとき多くの人が神の火を感じるのです。皆さんは祭壇に登り、そこで献げられた物は火で焼き尽くされるのですから。旧約聖書のここに手を置く情景があります。新約聖書にもその情景は描かれています。ここで4章15節に飛びます。13節から読みます。

「イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合、そのことが会衆の目にあらわにならなくても、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、 04:14その違反の罪に気づいたときは、会衆は若い雄牛を贖罪の献げ物としてささげ、それを臨在の幕屋の前に引いて行く。15共同体の長老たちは主の御前に立って牛の頭に手を置き、主の御前でその牛を屠る油注がれた祭司は牛の血を取って、臨在の幕屋に携えて入り、 04:17指を血に浸し、垂れ幕の前で主の御前に七度血を振りまく。・・・」

わかりますか。(献げ物の)命を奪う動物の前にあってさえ、その上に手を置くとき全会衆が悔い改めるのです。悔い改め。悔い改めが献げ物の額に置かれるのです。献げ物を捧げる前に。これと同じように見ることができます。癒しは起きますがその内的な意味はキリストに屈服することです。キリストの名のためなら喜んで死ぬ覚悟です。そうするとキリストが心に入ってきて共に住まれるのです。その権能と火と神の愛が共にあります。(聖霊役事で)祈って、横たえる。祈ってあげる。普通に話せばこうなりますが、手をかざす(按手する)ということはとんでもなく深刻なことなのです。ずっと深刻です。「あなたの死の直前」だというのです。ずっとずっと深刻な、アノインティングであり祈りであるということです。今見たような献げ物を捧げる場面たというのです。

レビ記16章を見ましょう。ここはすべて献げ物について書かれています。

「21 そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない」

新約聖書に移って使徒言行録の6章6節、
「6 使徒たちの前に立たせた。すると、使徒たちは祈って手を彼らの上においた

新約でも手を上に置くというところがでてきますが、それはアノインティングの場面です。そして献げ物の場面、捧げものです。神様のみことばは連結しているからです。旧約と新約は連結している。

つづく

leviticus   Google 検索.png

サンクチュアリ通信2月号の紹介

2019-02-11

サンクチュアリ通信 2019年2月号

- 新千年紀の礎研究 / 世界に広がるイエローベスト運動 / アイスマンと山岳修験者 /
鉄の杖特集 -

1面 12月から1月にかけてのサンクチュアリ教会の主な出来事
聖霊役事が本格始動 

2面 Providence2019と内外情勢
  文亨進二代王様のみ言と動向 M. Nagata
  世界に広がるイエローベスト運動  山下滋子
  Coffee break 父親の本質的影響

3面 新千年紀の礎研究 川原徳昭

4面 Free Themeと融和の広場
  アイスマンと山岳修験者 EIJI HARIKAWA
今、感ずること 田中広二
   8月の言葉 アラン
   編集後記 ハリー

鉄の杖特集 1.鉄の杖と民間防衛 堀勇一
      2.平和警察と平和軍 宇佐美優  

coffee break Google 検索

 父親の本質的影響

アメリカで連続殺人犯の生い立ちを調査したら、ひとつだけ全ての犯人に共通するものがあった。それは父親に問題があったこと。全てという確率は恐ろしい。人は、父親に問題がなければ、絶対に連続殺人は犯さず、反対に、他に問題がなくとも父親に問題があれば連続殺人を犯せる、という結論。子供の性格は母親がつくる、が常識。しかし、より本質的には、父親が重大な影響を与えている。メシアは男であり父でなければならない傍証。

 

真の神の日、天福祝祭でDr.ポール・ウィリアムスが明かした、次の本(二代王と共著)のタイトル

Dr  Paul Williams “Resist the Spirit of the Age” Presentation on Vimeo.png

翻訳:Harry

この教会について聞かれたとき、「この教会を愛している」「この教会の人々を愛している」と答えました。その理由は、この教会が神のみ言葉に基づいているからです。教会が聖書の教えを守っているからです。相対的な世界の中で「絶対」を信じ、そして何よりいまの時代精神、すなわち邪悪な精神に反旗を翻しているから、私はこの教会を愛します。

本題に入る前に、言っておきたいことがあります。まず、私の兄弟、霊的な兄弟ですが・・あそこにいるデルです。彼の結婚をショーン牧師(二代王)にまとめてほしいということです。

2つ目は、今日もスウェーデンのテレビ局が来ているそうですが、それに構わず言うと、いまショーン牧師と出版本の計画を進めています。タイトルは「見捨てられたわれらの父:旧約、新約聖書の神の放棄」です。

原題:  Our Father Forsaken: The Abandonment of  The God of The Old and New Testament 

これは非常に重要な本ですが、すでに数人と共に取り掛かっています。その人たちは昼夜を問わず作業してくれています。紹介しましょう。一人はあちらにいるケリー・ウィリアムズ。Dr.リチャード・パンザー。もう一人はグレッグ・ノルです。これは膨大な仕事です。本当にこの本は世界に衝撃を与えるでしょう。この本とショーン牧師と共に著わす理由は一つです。その究極の目的は、ショーン牧師をThe View(米国ABC放送のトークショー)に出演させてウーピー・ゴールドバーグにこの本を読ませてちびらせること、ジョイ・ベハーは心臓麻痺を起こす。(笑)

View Strong

ウーピー・ゴールドバーグ(Whoopi Goldberg)

Joy Behar Google 検索

ジョイ・べハー(Joy Behar)

真の神の日 二代王のスピーチ 2019年2月5日(陽)

翻訳:Harry

真の神の日スピーチ

創世記を読むとき、神様はエデンの園にいるアダムとエバに「生めよ、殖えよ、地を従わせよ」とお命じになりました。

全宇宙の創造者が主権をお与えになり、我が子であるアダムとエバに地に対する統治権の祝福を与えらたのです。創造の過程で、神様を支えた力強き天使長ルーシェルはこの相続を受けませんでした。彼は神の子の僕として仕えるべき身であり主人ではなかったのです。しかし、エバの堕落そしてアダムの堕落を通して神の子はその主権を失い、純潔と祝福を失いました。ルーシェルが主管性を転倒させ、天使の三分の一がその僕としての正当な位置を離れ、サタン(ルーシェル)と行動を共にして、人類の主人になってしまいました。彼らは神の子、神の家庭を奪い、夫と妻を奪い、神の血統と神の子孫、神の人々、神の国、神の王国を奪い取りました。

堕落の後、アダムとエバはいちじくの葉で下部を覆い、裸体を隠しました。彼らは裸でいることを気にかけませんでしたが、堕落の後、目が開け彼らはその生殖器を隠したのでした。盗みを働いたその手、あるいはその道具を隠す子供のように、アダムとエバはそれぞれの生殖器、すなわち彼らが罪を犯した部分を隠したのです。

天地人真の御父母様であられる真のお父様は再臨主、再臨のイエスとしてこの堕落の根を見つけ出しました。それはすなわち性的な汚れでした。

現代のインターネットによって、世界の支配者と、その公国、その権力があからさまになったことは驚くべきことではありません。彼らは積極的に共謀し、互いに資金を調達し合いながら中央支配、この世を支配する(世界)政府をもたらしました。ナチの協力者であったジョージ・ソロスを始めとして、クリントンなどの犯罪者、莫大な資産家、ロスチャイルド家などの者たちです。社会のあらゆるところにその猛毒の牙を刺し埋め込んでいます。それは主流メディア、テレビ、ハリウッド、シリコンバレーから全世界の超エリートたちを網羅しているのです。

彼らは国際的陰謀組織を形成する神とキリストを憎む、政治サタン主義者たちです。この者たちは「サタンに栄光あれ!」と直接的に宣言こそしませんが、彼らの政治イデオロギーはサタンの文化そのものです。中絶を通して胎児を殺し、公立学校とメディアを通して青少年の性的意識を過剰に高め、性別違和を正常だといいくるめ、女性・男性の区別などないと主張して子供たちを混乱させ、幼児性愛を「マイナー・アトラクション症候群」と言い換えて国連が認可したNGOにロビー活動をさせて市民権を得ようとしています。

多くの信用に足るオルタナティブ・メディアは、性奴隷売買、世界中の子供たちが性的に貶められている事実を明らかにしています。

この幼児の性奴隷売買ネットワークは、銀行家、ハリウッド、政府高官、世界の権力者といったスーパーエリートにつながっており、彼らを結び付けているものが、この世を支配する超エリート階級の間で共通のサタン崇拝であることが明らかになってきました。あたかもエデンの園で、最初の幼児性愛者ルーシェルが行ったごとく純粋な子供を性的に汚しているのです。

人間の堕落によるこの性についての根本原因が、再臨主、再臨のイエス、真の父である文鮮明師によって明らかにされました。

左翼の邪悪な陰謀団が世界を支配しています。かれらはマルクス主義、社会主義、共産主義、いかなるイデオロギー、いかなる宗教であれ、その集団統制主義を支援しているのです。イスラム急進派がその例です。

その目的は権力を集中させて、神の名のもと、子供と女性の性的搾取を正当化することです。強制力をもって徴税する政府がそこでは資源の中心点となります。誠実な方法で富を蓄えようとしないサイコパスたちは、押し寄せるようにしてこの新しい政治勢力に殺到し、集団で政府と法律によって互いをかばい合い、国民から奪い取った資産を手にするのです。彼らの権力が大きくなるにつれて、国民からもぎ取った資産は政府に吸い上げられ、エリート階級にわたるのです。

国民はやがて検閲され、力ずくで税金を奪われることになります。国民は武装解除され、人間牧場の国民から奪った税金からなる予算の拡大しか考えない肥大化の一途をたどる政府の官僚機構によって支配されてしまいます。国民は家畜のように扱われ、政府に逆らう者は社会から抹殺され、盗聴され、そして病気にかかった牛のように謎の死を遂げるのです。

オバマ政権下の合衆国政府と軍は心理学者を抱えこんで、「精神障害の診断と統計マニュアル」を公表させ、政府の正統性を疑うものを次々と「反抗挑戦性障害(ODD)」との診断を下して、標的にしました。このような医学を用いた専制はかつてヒトラーのナチスドイツが行ったことです。そこでは、ヒトラーの残酷な計画に反対する者たちを沈黙させ「入院」させたのでした。

ハリウッド、主流メディア、ITの巨人たち、グーグル、フェイスブック、ツイッター、アマゾン、シリコンバレー、そして映画産業、音楽産業、テレビ番組等々、これらが権力集中とエリートによる支配のために利用されているのです。マルクス主義の唱えた、分断-統治の作戦を実行することで、世界の人々が、小さな政府、主権、中央政府とスーパーエリート階級からの自由を唱えて団結することを妨げているのです。

エリートたちは性的不道徳、相対主義、家庭の破壊を押し進め、離婚と逸脱した性交渉を促進し、「女性の権利」「性別違和」「トランスジェンダー主義」の大義を掲げ、アンチ・キリスト教イデオロギーと、この世の霊的混乱、霊的カオスの最中(さなか)に罪なき赤ん坊を殺し続けています。言い換えれば、彼らは、世界にサタンの王国を宣布する政治サタン主義者なのです。

黙示録には善と悪の最後の戦いが記されています。キリストを信じるものはあざけられ、あなどられ、罵(ののし)りを受けて殺され、首を切られるとあります。それはまさに(ISによって)シリアで起こりました。一つの世界政府が全世界を支配する、そのなかで大いなるうめきと災いが今日も起こっています。

しかし、神様のみ言の中に私たちは希望と約束を感じ取ります。その約束は、黙示録3章と12章によると、キリストが「新しい名」をもって再臨されて、信じる者たちに最後の日に必要とされる、真の装具を与えられるというものです。

その第1のものは、私たちの主権と王家の血統、そして天の父が約束された相続を象徴する王冠です。これは詩編第2章8節と9節に明らかです。

「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く」

イエス様は黙示録3章11節でこう語られています。

「わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい」

イギリス女王、ヨーロッパやアフリカ、そしてアジアの王を世界はどう見ているでしょうか。それに比べればあなたや私は農夫か奴隷のように見えるでしょう。しかしロマ書8章17節にあるように、私たちは万王の王キリストの共同相続者です。

私たちは王の血統に基づく王権を要求します。私たちは正当性を持たない狂った者のように思われ、カルトのメンバーだと呼ばれています。

神様は神の王国をどのように治めるか定められました。黙示録第2章27節に記されています。

「彼は鉄の杖をもって彼らを治める。土の器を打ち砕くように。同じように、わたしも父からその権威を受けたのである」

黙示録第12章5節ではこう記されています。

「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた」

黙示録第19章15節、

「この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている」

鉄のつえはキリストが用いる装具であるとともに神の永遠の王国の相続者に求められそして与えられるものです。神様はすべての男女に義務として課されたものが鉄のつえによる統治であり、王家の冠と鉄のつえを求めておられます。鉄のつえとは現代版マスケット銃(訳注:アメリカ独立戦争の際にアメリカ人がこの銃を使った)である、AR-15ライフルです。

神の王国の相続者として世界の善良な人びとが鉄のつえの力を支配するとき、ガンのような犯罪行為と独裁政府がその横行をやめ、おののきと共に打ち砕かれるのです。

おおかみは鉄のつえをその手に持つ羊飼いを恐れます。具体的に「鉄のつえ」を所有するという簡単なことで侵略者、サイコパス層に恐怖を抱かせるのです。一方、羊は羊飼いによって安らぎを得ます。詩編23章が記すように、「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける」のです。

善良で自由な民が「神を愛し、隣人を愛する」というキリスト教の価値観をもち武力の行使を主管するとき、そこに平和があります。神を畏れる善良な民が武装権を自由に行使するとき、悪は退くのです。

鉄のつえの権能が政府に独占されず、正義の民の手にあるときこそ、人びとは繁栄し豊かで互いに守り合い、双方が利益を得る企業体、そして人類を創造できるのです。

神の王国は愛と正義と寛大な法を持つ王国です。世界を鉄のつえの統治によって(羊飼いのように)導きます。キリストによる専制支配ではありません。もしそうであるならば昨日も今日も永遠に変わらない神様のみ言に反するのです。

アダムとエバの神様は人類に自由意志を与えられました。神様を憎み反逆することを選ぶ結果をも許容するほどに人間の自由意志を尊重されました。神様は悲しみと共に人類に悔い改めるよう呼びかけられました。旧約聖書に登場する預言者をとおして御自分のもとに帰るように訴えられました。神は、その独り子イエスキリストをお与えになったほどに世を愛されました。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。神は世を愛されるがゆえに、キリストの王国が到来するときその国はキリストと共にその共同相続者とともに鉄のつえで治められます。

マタイ第19章にこうあります。

「人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」

また黙示録第20章4節から6節にはこう記されています。

「彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する」

マタイ第25章には「羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、
羊を右に、やぎを左におくであろう」そして羊に力を与えられるのです。

神の永遠の王国は、信仰者にとっての社会主義的な福祉国家ではありません。
神の王国は、キリストと共に治める王と王妃がキリストより与えられた権能と責任をもち、鉄のつえでキリストと共に統治する王国です。鉄のつえの権能を神の国のすべての市民に分かち与えることにより、神様は邪悪を制圧し、神様の忠実で神聖な子供、王統を継ぐ者としてわれわれに託された集団的な力によって、サタンが身を震わすほどに打ちすえます。

マタイ第25章(33節~)はこう記します。

「羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい」

キリストは決して権力を自分に集中させた独裁的暴君として神の国を治めるのではありません。神様は、政治サタン主義を実践する独裁者、過去の君主等のような方ではないのです。

真の天地の王は、私たちに共同後継者、共同相続者になるように呼びかけておられます。万王の王、主の主の血統を継ぐ者であることを悟ることで、ともに生命、自由、愛、善を守る者となり、王国と国民、そしてその文化、文明を守る防御の装具として鉄のつえを受け取るよう呼ばわっておられるのです。

テモテ二第2章3節4節にこう記されています。

「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします」

兵士という言葉は、ギリシャ語でストラティオーティスστρατιώτηςといい、文字通りに訳せば、「軍人」「戦いの闘士」です。私たちは闘士として召命され、ペトロ一第5章4節にいう「大牧者」、キリストに似た者として呼ばれました。キリストはポイマイノ、すなわち愛と正義を携えた羊飼い、牧者として神の王国を導かれるのです。そして同時に鉄のつえの権能を持ち、邪悪なものを打ちすえます。

人類が当然のように自由と名誉をもって暮らすことができ、キリストを中心とした倫理観で困窮する者たちを助けて自立する力を与え、胎児の生きる権利を守り、神のもとでの結婚と親子の強い絆を奨励する、そしてその全体が神様を愛し隣人を愛する、平和警察・平和軍で近隣と街を守り、適正な手続きを通して邪悪な文化、政治サタン主義を破壊し根絶やしにする、そして創造主、神様の似姿として造られたすべての人間に、奪うことのできないものとして与えられた人権を守る国、それが神の王国です。

私たち自身から始めましょう。キリストを主、救い主、父そして指導者として生活の中に受入れ、心を強く持ち、他者を守る願いを心深く持ち、国内外の敵から神の王国とその憲法を守る責任を負うために必要とされる高潔な人格を涵養し、天の父と、父が送られたキリストに栄光をお返ししましょう。キリストの王統は、天一国の王、王妃とともに立ち、神の国がこの地を覆い、義と正義そして真理を地球の果てまでもいき渡らせるでしょう。そうすることによって、神の王国は永遠の王国になるのです。

アーメン、アージュ。

d-3

2月3日礼拝説教 パンザー会長 (後半)

Sunday Service   February 3  2019   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

2019年2月3日  

翻訳:BAMBOOS

アメリカ建国の父たちは、アメリカ合衆国憲法の修正第1条で信教の自由を法定化しました。創世記で、神様が堕落に干渉しなかったのはなぜでしょうか。人類を創造主にするためです。

神様にとって自由はとても重要です。自由がなければ神様との関係も、神様との愛もありません。強制されたキリスト教はもはやキリスト教ではありません。力でキリスト教を広めたら、キリスト教ではありません。それは正しいですか。それが信仰でなかったなら、私はイエス様を信じるから天国に行くと言っても、そのようにはなりません。

お父様は安っぽいキリスト教を教えませんでした。それは保険のようなものではないのです。私はイエス様を信じると言いますし、聖霊の体験も少しあります、というような。そうではなく、我々はイエス様のようにならなければなりません。再臨主のようにならなければならないのです。そうでなければ、我々は天国に行くのだとか、新幹線のような物に乗って直行するのだと思うかもしれません。それは正しいですか。私にはどちらだと決められません。それが政治的なキリスト教です。例えば宗教的で政治的なものとしての教皇がそうです。

皮肉なことに、アメリカでは信教の自由が保証され、政府による宗教への侵害が制限されており、世界で最も宗教的に進歩した国です。驚くべきことに、アメリカでは政府は宗教に巻き込まれることから回避されています。国教を作り出すことはできません。しかも世界で最も進んだ国です。

天一国憲法は信教の自由を保証しています。誰も自分の信仰のために罰せられることはありません。通りの向かいの家に共産主義者がいる場合、その人に親切にすべきです。あなたの牛が溝に落ちてしまった時に、彼が助けてくれるかもしれません。別の方法で助けてくれるかもしれません。言っている意味が分かりますか。地域のレベルで、我々はあらゆる種類の人たちと一緒に生活しなければなりません。誰がより互いを愛するか、誰がより優しい隣人かという競争をするのです。その人たちは鍛冶の技術をカイル・トフィーに教えてくれるかもしれません。

憲法に基づく天一国には国教というものはありません。何かを信じることを要求される人は誰もいません。宗教の自由市場があり、競争が許されています。

天一国の王様は宣戦布告できません。ほとんど全ての国には、憲法上の君主がいます。歴史を通して王というのは宣戦布告をするものでした。天一国ではそうではありません。王の権限は制限されています。多くの影響力は、道徳的な力によるものです。霊的な力です。

常備軍はいません。中央集権政府に制限があります。局所的な自己防衛と市民軍があります。

(略)

準備ということが重要視されています。全員が練習しています。私も金属の標的を撃つことはできます。それ以外のことはまだこれから考えようという感じですが、金属の標的の殺し方は分かります。たくさん練習しました。我々は様々な方法で準備しています。柔術や様々な格闘技も。

我々には自己防衛の権利があります。自分たちの家族、地域社会、また国を守る権利があります。

裁判についてはどうでしょうか。例を挙げましょう。銃を持った人がここに入ってきます。日曜礼拝の最中にサンクチュアリ教会に入ってきて、銃で襲い始めます。我々にはその人を止めるために撃ち返す権利がありますね。しかしその人物が床に横たわっていたらどうでしょうか。床に横たわり、もう銃は持っていません。しかも出血しています。誰かがその野郎を殺せと言います。歩み寄ってとどめを刺す権利があると思いますか。

彼はここにいる全員を殺そうとしていました。すると近づいて彼にとどめを刺してしまうのは問題ないことでしょうか。――彼に唾を吐きかけるのは良いと言うのですか。なるほど。テストは合格です。

亨進様は自制(forbearance)について話しをされました。 DICTIONARY.COMforbearanceを調べてください。self-control(自己統制)の意味だと説明しています。容易なことではないでしょう。なぜなら誰かが攻撃してきているため、あなたのアドレナリンがあふれて、反撃しようという怒りのエネルギーがあるからです。その後いったん敵を無力化してから、自己統制を取り戻すのは容易ではありません。

全員がこの人物のとどめを刺すべきではないと言うのですね。ほとんど全員が、すでに無力化されるか制圧された人を殺すのは間違っていると言うのですね。

ここにいるクリスチャンである私たちはみな、自己防衛は正しいと信じていますが、不必要に他人に危害を加えることが正しいとは信じていません。しかし、もしこの部屋の少なくとも半分の人たちは、無力な他人に危害を加えるよう説得される可能性が十分にあると言ったらどうでしょう。なぜならば、それを証明する心理学実験が実際にあるからです。この実験のことを教えましょう。

とても有名な実験であり、イェール大学で1961年から開始されたものです。ミルグラムの権威を持つ人物に対する服従の実験は、イェール大学の心理学者スタンリー・ミルグラムによって1961年7月から実施された、一連の社会心理学の実験でした。

参加者は無関係の実験を手伝っていると信じ込まされ、「学習者」に対して電気ショックを施さなければなりませんでした。この偽の電気ショックは、仮に本物であったら致命的となるレベルにまで徐々に引き上げられました。実験の結果、意外にも、しぶしぶではあったものの、非常に高い割合の人が指示に従ったことが分かりました。

この人たちは平均的な人たちであり、配管工や弁護士、教師といった様々な種類の職業の人たちでした。この実験で彼らは、「学習者」がいて、電気ショックが学習に役立つかどうかを研究しているのだと言われていました。奇妙に思えますがそういう実験でした。参加者が施す電気ショックは偽物で、役者がショックを受ける演技をしていました。致死的な、あるいは相当の損傷をもたらすレベルのボタンを押すこともありました。

ミルグラム実験の参加者は、実験後のインタビューで、電気ショックを与えたのはおもに3つの理由からだったと主張しました。権威ある人が信用できると思えたこと。理由が良いことだったこと。そして何か起きたら研究者が全ての責任を取ると考えていたことです。

兄弟姉妹のみなさん、ここで私が言いたいのは、お父様は誰が最大の権威を持つと言われたのかということです。――良心です。たとえあなたが尊敬する権威の高い人がいて、それが大義のためだと自分で思っても、自分の良心で確認しなければなりません。

私はただここにいる人たちに話しているのでなく、またインターネット放送で話しているだけでもありません。今から100年間の人たちに語り掛けています。なぜなら、あなたに対して高い権威を持った人が、例に挙げた銃撃犯のような――そのいまいましいやつにとどめを刺せとあなたに言うような状況が起こるかもしれないからです。

我々は注意しなければなりません。なぜなら聖書の記録が、選ばれた人たちも腐敗することがあるのだと証明しているからです。彼らも人間です。イスラエル人より我々のほうが良いと思いますか。彼らは確実に私より10倍の苦労をしました。私がここで言いたいのは、キリスト教の本質は、自分が悪を行う可能性があると理解することだという話です。

みなさんが祭壇に上がってイエス・キリストを救い主として受け入れている時、なぜあなたには救い主が必要なのですか。それは自分の中に悪があるからです。人を殺す潜在的な可能性があります。嘘を言い、レイプし、これまでに話していたあらゆる悪を行う可能性があります。それがキリスト教の本質だと理解すべきです。私は悪い人間になる可能性を持っているのです。

原理講論の376ページ(英語版)には、こうあります。

第一は、武器でサタン側を屈伏させて統一する道である。しかし、統一されたのちにきたるべき理想世界は、全人類が共に喜ぶ世界でなければならないので、この世界は、敵を武器で外的に屈伏させるだけでは決して実現できない。ゆえに、彼らを再び内的にも屈伏させて衷心から喜べるようにしなければならない。
(日本語版:後編第五章 メシヤ再降臨準備時代、 第四節 世界大戦、(四)第三次世界大戦、(1) 第三次世界大戦は必然的に起こるのであろうか)

つまり政治的な転換はありません。主張されているようなジハード的なキリスト教はないのです。戦いで人々を負かす必要はあるかもしれませんが、それが目標ではありません。目標は内的な屈服です。自発的な屈服です。それがお父様の信じておられた勝利なのです。

私がアメリカでとても誇りに思うことの1つ・・・。第二次世界大戦後、ドイツや日本とのこの悲惨な世界大戦の後、アメリカは何をしたでしょうか。我々はヨーロッパの大半を再建しました。日本のことも支援したと思います。もう敵として扱いませんでした。そのことを神様に感謝いたします。神様ありがとうございます。敵となるのではなく、友となりました。素晴らしいことです。私はその国から自分の妻ももらいました。

出エジプト記にある3番目の戒めではこう言っています。

あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。(出エジプト記20章7節)

つまり我々は、神様の名において悪を行ってはならないのです。私にとってこれはとても深刻な問題です。というのも、自分の恥となるだけでなく、神様の名に対して恥となるからです。

ビデオで二代王様が言っておられた話をもう一度読みたいと思います。

我々は悪と暗闇に立ち向かわなければなりませんが、自分がそれに吸収されたり、暗闇になったりしてはなりません。独裁を新たな独裁に置き換えるのではなく、自由を守る制度に置き換えようと努力すべきです。アベル型の革命は、復讐したいという誘惑に屈しません。

創世記9章にある、人間の命の価値についての内容を最後に取り上げたいと思います。

また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。(創世記9章 5-6節)

つまり我々が誰かを不当に殺せば、神様の似姿を殺すことになるのです。またヨハネ3章16節にはこうあります。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

神様はサンクチュアリ人をとても愛された、またはクリスチャンをとても愛されたとは言っていないのです。神様は世界を愛されたと言っています。つまり神様は人類全員を愛されたということです。地球上の全ての人間が当然生きる権利に値するというのです。私と同じ考えの人に限らないということです。

もう1つ、ローマ人5章8節です。

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

キリストは、イエス様は私たちのために死なれました。真のお父様は私たちのために生き、十字架に付けられました。私たち罪人のためです。我々が他の人よりも良いからではありません。

最後にまとめると、鉄の杖や暴力は命を救うために使ってもよいものであり、それはあなたにとってだけでなく、あなたの家族、地域社会、国、そして神様にとっても、そうした目的で使う場合は素晴らしい名誉です。しかし、鉄の杖の使い方を誤り、それで悪いことをするなら、自分にとっても、家族、地域社会、国、神様にとっても不名誉となります。長いプレゼンテーションになったことをお詫びしますが、とても重要な問題なのです。

なぜならこういう銃はおもちゃではないからです。人を殺すことのできる強力な道具です。人の命を奪うことは、小さな問題ではありません。我々は正しい動機を持つ必要があります。ご清聴ありがとうございました。

ミホに素晴らしい証しをしてもらいたいと思います。

(ミホ夫人の証し)
1カ月前のことですが、二代王亨進様が日曜礼拝で語られていました。とても力強いメッセージでした。お父様が語られていると感じました。王様を見ると口から聖霊の火が出ていました。同時に亨進様の背後に明るい光が見えました。光はとても強く、白く透き通っていてまるで火のようでした。

自分の目がおかしいのかと思い、目を閉じてもう一度見てみると光の中に顔が見えました。誰だろうと思うとすぐに答えが与えられました。それはイエス様のお顔で、微笑んでおられました。

私はそれまでイエス様に対して少し悲しげなイメージを持っていました。また私はいつも疑問に思うことがありました。イエス様と関係を持ちたいという思いです。真のお父様、と言うのは容易ですが、イエス様は・・・クック牧師のような方を迎えると私はいつも一定の距離を感じていたのです。自分自身でイエス様についてもっと知りたいという思いがありました。それで神様は、イエス様とお父様、そして二代王が完全に1つになっているところを見せてくれました。

それからここで祈り始めると、体全体が震えました。私は自分の目を開かなければならないと思いました。なぜなら、自分が飛んでいくように思ったからです。以上です。

この場所は聖霊に満たされています。二代王は、ここだけでなく世界中で放送を見ている人も同時に聖霊を感じることができるのだと言われました。

数週間前、東京に住む友人と話していたのですが、彼女は放送を一緒に見ていると言っていました。彼女たちにとっては夜中の1時とか2時になりますが、素晴らしく力強い説教を通じて聖霊を感じるのだと言います。

私は今も体が震えているのを感じます。

もう1つ証しがあります。私たちには祈りの戦士チームがあります。兄弟姉妹と3年前に始めたものです。毎週日曜日に礼拝堂の隅に行って、王妃・ヨナ様や兄弟姉妹と手をつなぎます。すると真のお父様が前のドアのところからやって来られます。毎週日曜日に。

もっと早くみなさんに伝えたかったのですが・・・お父様は私たち以上にこの日曜礼拝を心待ちにしているのです。私たちに会いたいと思っていらっしゃいます。私たち以上にこの礼拝に期待しておられます。

ここに素晴らしい共同体があることを非常にうれしく思います。そして王様は門を開く準備ができています。門を開き、多くの素晴らしい人たち、素晴らしいクリスチャンが来ています。私は、また私たちは彼らを迎える準備ができるよう祈ります。新しいキリストの身体、新しいキリストの花嫁となりたいと思います。私たちは、三大王権と共に世界に聖なる輪を作ることができます。

兄弟姉妹のみなさん、ありがとうございました。素晴らしい新年をお迎えください。

おわり