二代王、王冠のみ言葉 8月19日英語説教から

8月19日 英語説教から  5つの王冠

翻訳:Harry

ビデオをみましょう。ゆっくり流してください。

これは重要なビデオです。私は祈り続けました。心の内から叫んでくるのです。
ペンテコステ派、メソジスト、長老会などみるとき、ああ、みんな祝福されているなと感じます。そこではすべて人々をイエスキリストに罪を告白するように導くのです。それさえすれば、救われるのです。驚くべきことです。魂が救われたのです。もう神様から離れた魂ではなくなったのです。霊界に行っても切り離された存在ではない。救われた、それが素晴らしいというのです。

もちろん自分たちがキリスト教会に属するとはいえ、完ぺきではないことを知っています。もちろん、彼らも問題を抱えていることでしょう。何かの依存症だったり、それはアルコールや薬物かもしれません。だから「はい、救われた」「はい完ぺきだ」とはなりません。

しかしそれが素晴らしいのは、今回のリバイバル(訳注:ピッツバーグ)で長い時間祈りました、15時間の説教、多くの説教者が神様を讃美しました。神様は私にはっきりといいました。「5つの王冠」をみなさいと。

「5つの王冠をみなさい」

もちろんこれは、聖書にある義の王冠、栄光の王冠、生命の王冠、不朽の王冠、喜びの王冠です。この聖句が示す5つの王冠をみなさい。

考えてみて下さい。統一教会はとても壁が高いのです。多くの人が入ることを願い入会しました。入会して、入会して、歓迎も受けないで、救われた感覚も持てず、祝福を受けるまではコミュニティにも入れずに、受けたら受けたで40日の聖別・・三日儀式、聖酒も飲まなければならない。やることが多いのです。たくさんのことをしなければなりません。だから挫けるというのです。入ったとしてもそれがあるから壁が高いというのです。入会するには敷居が高い。信者になるには難しいというのです。そういうパリサイ文化を超えて、今度こそはっきりさせるのです。神様(お父様)はこのみ言葉をくださいました。

ここで動画を流しながら聖句をみましょう。
最初の王冠は、義の王冠でした。簡単に言えば、義の王冠とは、まずイエス・キリストを主、救い主で死から蘇ったお方。その方に自分の口で悔い改めるなら救いがある・・・これは聖句そのものです。イエス様を信じて、愛する。メシアとして、油注がれし者として受け入れる。

これはイエス様が人々に王冠を授けるところです。正義の王冠を簡単に言うならこの(絵の)通りです。正義の王冠はある褒美として与えられるのです。まず自分の口でイエス様に告解すること。次に、再臨を願うこと。これです!これなのです。

イエス様を信じて、自分の罪を告白して、再び来られることを切望するのです。

これです!これによって正義の王冠を授かることができるのです。とても興味深いでしょう。

ここで考えてください。私たちは(信仰者になるために)高い壁を持っています。統一原理を理解して、7デイズに出て・・21修に行って・・相対者を探して、祝福を受けて・・40日聖別をして・・3日行事、聖酒式などなど・・福音派の人なら私の言っている意味がわかるでしょう。これはもう・・・。

神様がおっしゃいました。「これらをすべて調合しなさい」と。

キリストに信仰告白して、イエス様をメシア、油そそがれた者として愛し・・・抜けたことがあるのでビデオを戻してください。

もう少し前に。
どうしてこんなに暗いのか。

ここです。テモテへの第二の手紙、4章8節。

8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。

今読んだように、義の冠はキリストを信じる者に与えられることはもちろんですが、再臨することを熱望するものに与えられるのです。

これは入信するのに高すぎる壁ではないでしょう。これは王権に参画するための最初の段階です。まあ、色々質問が来るでしょう。「まだ祝福は受けていないのですが王冠が欲しいです」とか「私は資格がありますか」などなど。いまそういう話ではないのです。

マクロ(全体)的視点で見ているのです。私に電話してこないで下さいね。「祝福はまだなんですが王冠は授かりたい・・」とか。

もっと大きな絵を描いているのです。
まず、キリストへの信仰告白、そして再臨を熱望すること。それで義の冠が約束されるのです。これです!わかりますか。

こうすれば、神を愛し、キリストを愛し、再臨を切望する人々とともに働くことができるのです。まさにそこから!

(再臨を)熱望することで、その人たちを祝い、敬うことができるというのです。
神様は何とおっしゃいましたか。

「私を信じなさい、そうすれば心の願いを満たしてあげよう」

そう言われるのです。皆が再臨を切望しないということ、これが問題です。
キリストに信仰告白して、その再臨を待ち望むなら、いいですか、神様が内側から変えてくださるのです。新しい望みを古い望みと入れ替えてくださるのです。新しい葡萄酒は新しい革袋に。

だからイエス・キリストへの信仰告白と、再臨主に会いたいという願いだけでそれを祝ってあげるべきでしょう。誰か祭壇に来て、再臨主を待ち望む、それだけでいいのです。

その場ですぐに祝福を受けなくてもいいのです。40日聖別も、3日儀式も後回し。それで全く変わるわけではありません。

祭壇の前で主イエスが救い主であると信仰告白をし、イエスの死からの蘇りを信じるなら、それで地獄から救われるのです。それからキリストの再臨を待ち望む。義の王冠はそこに在るというのです。

後の女の子たち前に来なさい。

女子の十字軍NINJAはこっちに来なさい。

私たちは喜ぶことができなければなりません。新しい人が来たとします。その人がイエス様を証(あかし)して、そしてイエス様の再臨を切望する。それで十分ではないですか。それが出発点です。もし再臨を待ち望まなければ・・・再臨主を待ち望まなければなりません。心に願いを満たすためにも。もしその人たちが再臨を切望しない場合は、ただ祝福を受けてなどと言う場合は・・それは間違った願いをっ持っているのです。どうやって真のお父様と出会うのですか。どうやって、統一原理を学びますか。原理もキリストの再臨がすべてではないですか。

われわれは盲目だったのです。人びとが願いをもって主イエスに信仰告白をしてそして再臨を待ち望んでいる- 私たちは盲目でした。「はい、では1デイに申し込んでください、3デイに・・7デイに・・。では次は40日修錬会に・・」といって。

その人が第1歩を歩みだすときに、キリストに信仰告白して、キリストの再臨を待ち望んでいるというなら、喜ぶべきではないですか。それだけで義の冠は約束されるのではありませんか。

内側が変わったのです。少なくとも内側で何かが変わった!神の勝利として祝うことができます。

ああ、そうですか、素晴らしいですね。ではこちらに申し込んでください。では、これこれの修錬会、はいでは40修・・・10年かかるというのです。

ちょっと待っててください、10年はかかりますから。そこであなたを歓迎します。
いかに神様の賜物を喜んでいなかったかが分かるでしょう。

今回、ピッツバーグに行ったときに神様から言われたのです。はっきりと神様は仰いました。まったくぼんやりしていました。皆が、もたもたしていたというのです。神様の祝福を喜んでいなかった。貧しき者のメンタリティーだった。満ち溢れる感覚、豊かさを忘れていました。「わたしの杯はあふれます。」詩編23章にもあるでしょう。

「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます」(詩編23章5節)

今日、新鮮な油を欲しい人が誰かいますか。欲しい人は誰ですか。
聖油を塗られた気分ですか。

神は生きておられます。

もっと自然体で説教もすべきですね。パワーポイントを使っていましたが、不自然でした。私らしくありません。私はもっと自然体で説教していました。それがお父様であり、それが私です。

この義の王冠、テモテ第2の手紙の4章5節が基礎になっています。教会が開いている時、これをプラカードか何かにしたらいいでしょう。私たちが忘れないように!

新たに人が来て祭壇の前でキリストに信仰告白して、主の再臨を待ち望む-これだけです。これはすべてのクリスチャンがすべきことです。ただ、「私はまた来る」これを待ち望むことだけです。これだけで祝うべきではないですか。「おめでとう!これであなたも義の王冠を授かることができる」ここに義の王冠の約束があります。

つぎに生命の王冠があります。関心ある人のために王冠を見てみましょう。
義の王冠はもっとも授かりやすい王冠です。他の王冠をみましょう。

これは不朽の王冠。これが最も授かることが難しい王冠でしょう。
最初の王冠は易しいのです。

生命の王冠を移してください。不朽の王冠は後で見ます。

これが生命の王冠です。ヤコブの手紙第1章12節。
すべて聖句に出ているのです。もし聖書を良く読むクリスチャン、信仰を新たにした(Born-Again)クリスチャンなら、聖書を信じるべきです。私たちが王冠を被っているからといって狂っているということができません。すべて聖書からです。

ヤコブの手紙第1章12節を一緒に読みましょう。

試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。

聖句に「神を愛する者」とありますね。神を愛し、隣人を愛する。神様を愛さなければなりません。

試錬を耐え忍ぶ人・・・それを忍びとおしたなら、試練と艱難を超えることができるというのです。

試錬を耐え忍ぶ人、それを忍びとおしたなら・・とあります。

いいですか、義の王冠を授かったらすぐに、再臨を切望するとき誘惑を受けるというのです。試練、艱難が始まります。

「あなたはあの気違いのカルト教会に通っているのか!」

ペンテコステ派教会に行ってもこう言われます。試練と艱難を通過します。なぜか?
生命の王冠に向かっているからです。心に願いをもてば動くでしょう。キリストは主だと告白し、再臨主を待ち望む・・生命の冠、再臨主を待ち望むだけで義の冠を受けるのです。ただそれだけで!

ただある人が再臨主を待ち望む、それだけで、祝い神様に感謝する文化ができるなら神様の霊、聖霊が降り注ぐことでしょう。「わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ」「年寄りは夢を見、若い男は幻を見る」「その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル2:28-30)とあるでしょう。

キリストがメシアだと告白するとき・・使徒行伝2章にもありますが、「あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」。どういうことかといえば神様があなたに入りあなたをつかさどるということです。あなたの願いが変わり始めます。新しい人がうちに宿るからです。新たな所有者、新たな主権、新たな王がやってくるということです。

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