天一国二代王様のスピーチ(2018年1月20日 スイス、ローザンヌ)

「防衛のための武器(Arms for defense)」協議会での二代王様のスピーチ

(2018年1月20日、スイス、ローザンヌ)

翻訳:BAMBOOS

今日私は自然権についてお話ししたいと思います。哲学的観点と聖書的な観点の両方から、です。普段の説教では私はとても感情的です。ですが今日はもっと学術的になるよう努めたいと思います。ご存知の方は私が大声で怒鳴るのを知っていることでしょう。今日は控えめになるようにします。神様がそれをお許しになるといいですが。

主権を持った市民としての自然権、または権利について調べてみると、私の考えでは、すべての権利はユダヤ・キリスト教の価値観を基礎とせざるを得ません。私たちの権利が団体や組合、委員会や官僚によって決定されるとしたら、実はそれは権利ではありません。それは下位の民衆に与えられた特権に過ぎないのです。

権利は、人間のあらゆる機関、委員会、政府といったものを超えた、超越的なものに根差したものでなければなりません。神様に根差したものでなければならないのです。

人の権利は人の本質に固有のものでなければならず、つまり人が胎内に宿ったら即座に持たなければならないものです。動かし得ないものでなければならず、いかなる外部の力をもってしてもその人から分離できないものです。それゆえに偉大な哲学者の中には、人間の持つ権利や普遍的な価値観について語る場合に、神様についての考えだけではなく真実をも撤回した人がいました。

現代においてとても一般的なこととして、相対主義、道徳的相対主義、哲学的相対主義など様々な哲学が生まれているということがあります。今日、そういったものが大学で強く推進され様々な機関で学ばれています。

残念なことにこのような信条には、何が正しいか、何が道徳的として客観的に正しいのか、そして何が間違っているのかを人間が判断できるという弱点があります。

もちろんヨーロッパでは、ヒトラーという人物においてそのような哲学的立場の影響が分かります。つまり独自の善や善悪の判断を作ることができると考えていたのです。言うまでもなくそれが行われた歴史は世界中の教科書に書かれています。

私が辿った道のりはとても興味深いものです。というのも私はアメリカの非常にリベラル的な州であるニューヨークで育ったからです。しかし、私の父と家族はいつも銃に没頭していました。

ご存知のように、みなさんの中でもご存知の方が多いでしょうが、私の父、文鮮明師が手掛けた最初のビジネスの1つは、韓国で行った銃のビジネスでした。

もちろん父が北朝鮮から逃れてきた後でも有益でした。父はそこで福音を説いていたために投獄されていたのです。韓国に来てからも迫害を受けましたが、最終的には韓国政府と協力して韓国軍のためのバルカン砲のようなものを開発しました。ですから父はこの分野での開拓者であったのです。

しかしおそらく、道徳的なレベルから、あるいは教会の側からはそれが分かっていませんでした。初期の時代に父と共に過ごした人々ほどありありとは。今ペンシルベニア州で、私たちの伝統で言う真の母という方と一緒に住んでいるのですが、彼女もその初期のビジネスに参加しており、その初期のライフルビジネスで最優秀販売員として表彰を受けたのでした。

またご存知かもしれませんが、文師の息子の1人である文國進氏はアメリカでトップクラスの銃の発明者、製造者の1人であり、カー・アームズ、トミー・ガン、トンプソン・マグナム・リサーチといった会社を経営しています。

東アジアの出身でしたが、私たちの家族の過去にはそのようなことがかなりあったのです。すべての人に主権を経験させ、人生における権威を経験させ、自由に神様を追求できるようにさせたいというのが常に父の願望でした。自由社会かどうかに関わらず。

しかし、常に父の祈りは神様を追い求めることであることは明らかでした。それは私たちの権利と価値が神様との関係で決まるからです。

個人的な・・・という考えなしに自然権と人権についての率直な話し合いがありません。ウィリアム・クレイグ博士、アルバン・プランティンガのような卓越した学者の業績についていくらかご存知であれば・・・。彼らはキリスト教弁証学における本当に確固たる強力な立場を取っており、ドーキンス、ヒッチンズ、パリスのような世界のトップクラスの無神論者と討論をしています。私が概要を少し説明すれば彼らの立場がとてもはっきりと分かるでしょう。

その考えというのは、私たちはある設計者が創造した世界に住んでいるというようなものです。例えば微調整(ファインチューニング)という観点で見てみると、つまり宇宙が微調整されているということであり、非常に正確に微調整されているので、宇宙に存在するあらゆる条件の概念に対してどんな修正を行っても、電子、陽子、弱い力、重力なども、完全に宇宙の崩壊という結果に陥るのです。

こういった主張はこのような知的な研究で生み出されました。この場で深く踏み込むことはしませんが、宇宙には偉大な微調整があるというのです。そしてこのような定数や条件は、宇宙が機能するために一緒にバランスを取って働かなければなりません。(そうでなければ)科学者がリバース・インプロ―ジョンとか呼ぶような、生命が完全に絶滅するような事態に陥るのです。

また世の中に善や悪が本当に存在するのかという問題を見てみましょう。例えばレイプ行為が悪であるのか、それとも単に文化的なタブーであるのか、ということです。すると、道徳的な客観的真実について、また言うまでもなく道徳的な客観的真実を与えるものについて、そしてあることが善であるのか悪であるのかを解読するための基準について議論することになります。

もちろん私たちは、本質的に自分の良心から、世の中には悪が本当にあるのだと分かっています。つまり、誰も多数の子供たちが殺戮されるのを見て「それはタブーにすぎない」と言える人はいないということです。またヨーロッパの危機を見て、女性が襲われるのを見て「それは単なる文化的なタブーであり、悪ではない」とは言いません。

ですから人間として直感的に善と悪があるのだと分かっているのです。言うまでもなくこのような立場は、道徳的な客観的真実の議論を通して生み出され、結果が出たものです。これらの話は、神と個人的な神のための理由について最も説得力のある議論の一部をかいつまんで出しただけのことです。

というのも、もっとも現代的な科学ですら、宇宙の創造をビッグバンのようなものとして説明しているからです。私たちは宇宙の本質の始まりについて、すべてのものが元々存在しなかったあるところで一度に始まった、ということが分かっています。言うまでもなくそれが科学の主流の説となっています。

ですから、エージェントのような存在か、選択的な要素を持った個性を持つ誰かがいて、宇宙と私たちの時空の次元に無から何かをもたらしたということになります。

こういった議論が哲学的な論文と知的な著作に広く書かれています。ウィリアム・レイン・クレイグ博士の著作を大いにお勧めします。また、存在論の議論などについてはプラティナ氏です。綿密な議論で非常に深く分析されています。今日はちょっとそれを取り上げる時間がありません。

つづく

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