天一国二代王様のスピーチ(スイス)その2(全3回)

1月24日のキングズレポートによると、亨進様はスイスからアメリカに戻られ、1月23日から26日までの予定でラスベガスで開催されているSHOT SHAWに立ち寄られたそうだ。 ― 管理人

26992323_10156116514009886_381834507145767122_n


「防衛のための武器(Arms for defense)」協議会での二代王様のスピーチ

(2018年1月20日、スイス、ローザンヌ)その2(全3回)

翻訳:BAMBOOS

自然権の話題に戻りましょう。牧師としての私の観点から、神様のみ言を調べる必要があります。私が神様の存在の妥当性について少し要約したのは、結局私たちは、神様なしでは動物に過ぎないからです。何百万年も進化の過程を遡っていくなら、それは何の意味も目的もなく、宇宙空間で巨大な小惑星の岩の上に浮かんでいるのだということになります。

このような哲学と立場は、道徳的には快楽主義的な立場へと繋がります。しかし言うまでもなく、哲学的虚無主義の立場というものは、人生に本当の目的がないという考えです。つまり人生は結局無意味なものだというのです。

もちろんこのようなものは、キリスト教の世界観からは受け入れがたい立場です。というのは、私たちの姿と性質は創造主に似せて作られているからです。ですから私が牧師として、自然権、人権という考えを掘り下げるには聖句を調べなければなりません。ですからそれが今朝、私が最も焦点を当てたいところなのです。

ユダヤ・キリスト教の世界観と枠組みにおいて、我々の自然権は創世記1:26から始まります。
“神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。”

また創世記9:6ではこう言われています。
“人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに。”

この二つの聖句は、人の本質について語る場合に、また唯一の被造物として人間はオランウータンやチンパンジー、またはアルマジロや他の何かスイスにいるものでも、それとは異なるのだという話をする場合に欠かすことのできないものです。

それは他と異なる存在論的な存在であり、創造主に対して別のつながりを持っているのです。

ですから人権という観念は、少なくとも聖句的には、人間が神様の形に作られているということに始まっています。これが枠組みの中で当てはめられるべきです。というのも神様は単なる別の人ではないからです。神様はすべてのものの偉大な創造主であり、宇宙の偉大な設計者であり、我々が発見しているすべての定数や条件を生み出した数学者であり、宇宙を支えているのです。すべてのものの背後にある偉大な精神と知性です。

我々が、人間は神様の形に作られていると言うとき、また神様より偉大なものは無いのだと言うとき、それは実に注目すべき言葉であり、強力な言葉です。

言うまでもなくあらゆる生物の中で人間は、宇宙の中で特別な立場を保っています。単なるもう一つの種(しゅ:生物学的な意味)ではありません。単なるある形態の動物ではないのです。

宇宙における我々の立場は非常に特別で独特のものであり、とても大きく巨大なもののように思えます。

エレミヤ書 31:33で神様は人々に契約について語っています。
“しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。“

またローマ人2:14にはこのようにあります。
“すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。”

ユダヤ・キリスト教の枠組みから見て、全人類、すべての男女は一般に、良心と呼ばれるもの、または聖書における心に記された神様の律法と呼ばれるものを持っています。本質的に善と悪の違いを知っており、人々が抑圧されたり搾取されたり、襲われたりレイプされたりする場合にそれが悪いことだと分かるのです。人間は本質的にそのようなことは間違っていると知っています。

聖書ではそこに踏み込んで光を当て、創造主が私たちの心にこういったことを記しているので心が良心となり、意思決定者となって善と悪を識別するようになるのだと言っています。

自己防衛の話題に移そうと考えてみるときに、興味深いことですが、こういったことすべては、生命自体に価値があり、目的があり、それが重要であり、守るだけの価値があるという人間の持つ価値観において決定されています。

我々の生命に価値がないのであれば、とりわけ自分の生命を危険に晒してまでそれを守るだけの価値はないということです。

防衛という観念は、生命、特に人間の生命に価値があり、特に自分で自分を守れない脆弱な人間の生命は保護されなければならない、という考えから来ているものです。

全ての人間はそれぞれの心の中に本質的な性質を持っています。他の人たちが抑圧されているのを目撃した場合、その人たちを守りたいと自然に思う傾向があります。しかしそれは、人間の生命の価値という観念と観点に由来しています。

現代の、ポストモダンの虚無的な枠組みでは、なぜ人権に価値があるのか、またそもそも人間に価値があるのかを十分に説明することができません。

あらゆる虚無主義者とさらに多くの客観主義者がたどり着くことのできるのは、普遍的に優先される行動という観念ですが、それにはあることが善なのか悪なのかと言えるようなものはありません。言うまでもなく独裁主義に反対する理由もありません。それはもちろん、理論上の概念であり歴史的事実であり、もし独裁者が武力で国を支配し、反対する者を抹殺するなどして自身が新しい権力の多数派となる場合、当然ながら道徳的に優位で普遍的に優位な新しい価値観が生まれ、変化が起きます。独裁者が勝って、多くの場合には反対者を虐殺する場合のことです。

どんな哲学的課題や人権と自然権という観念に対する探究も、神様が私たちにくださった神性から切り離すことはできません。せいぜい言えるのは、普遍的に優先される行動ということですが、暴力的な勢力が多数派になったり、自分たちの欲しいものを取り上げるために何の問題もなく武力を使用する、力が正義だとする勢力が多数派になったり、何が普遍的な道徳的優先事項であるかを決定する勢力が多数派になるというような、同じ問題に直面することになるのです。

残念なことにそれは言うまでもなく、ユダヤ・キリスト教の枠組みから見て我々が堕落した国、堕落した歴史と呼ぶ、何度も繰り返されてきた歴史なのです。

また聖書では、神様が人々に出エジプト記22:2で語っていることがあります。
“もし盗びとが穴をあけてはいるのを見て、これを撃って殺したときは、その人には血を流した罪はない”

神様はそう言っています。誰かが夜人の家に押し入ったら、その侵入者がたとえ泥棒であって殺人犯やレイプ反でなくても殺されるというのです。ユダヤ・キリスト教の法律の観点からは、人を殺した人が有罪になるのではありません。

もちろん次の聖句では続けて、朝その人が現れていれば警告を与えるべきであり・・・というようなことです。それで人が殺されればその人は有罪となります。そしてその人を追い出すことができるということです。

ネヘミヤ書4:14。
“わたしは見めぐり、立って尊い人々、つかさたち、およびその他の民らに言った、「あなたがたは彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、あなたがたの兄弟、むすこ、娘、妻および家のために戦いなさい」。”

これもまた、神様がその民に脆弱な人たちのために立ち上がるよう呼び掛けている例です。自分の血縁者と人々のために立ち上がるのだと。

箴言31:8-9で神様は次のように言っています。
“あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。口を開いて、正しいさばきを行い、貧しい者と乏しい者の訴えをただせ。”

このようにいつもキリストから貧しい人を守るように説得されます。新約聖書の聖句にはこういったことに言及しているものがたくさんあります。

マタイ5章の山上の垂訓では、貧しいものは幸いだ、柔和な人たちはさいわいであり、彼らは神の王国を受けつぐであろうと言っています。

他の人の権利を守るために立ち上がることに言及しているところがたくさんあります。キリスト教の中心的な、聖書的な原理です

また詩篇82-3には、
“弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ。”
とあります。

ここでも信者と人類に、弱い人々、苦しむ者と乏しい者のために立ち上がるよう呼び掛けています。言うまでもなくこれがキリスト教の中心的な価値観であり、ユダヤ・キリスト教の価値観です。それは被造物としての人間に根差したものです。それは神様の形に作られています。

繰り返しになりますが、単なる別の種(しゅ)の動物ではなく、宇宙で特別な立場と価値を持つ存在です。

ルカ22章でイエス様が弟子たちに語っていることがあります。非常に有名な逸話でありますが残念なことに、ほとんどのキリスト教会、教区、カトリック教会などで教えられていません。

キリストを信じる者は自分を守るだけでなく、武装しなければならないという事実に明らかに言及しているためです。

ルカ22:35からです。

“そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。”

左派の多くが、信者が自分の身を守ることについてこのように明確に語られていることを除外して、イエス様を位置付けていますが、このようにイエス様はそれとは反対であることが分かります。

またイエス様は神殿に入るときに、テーブルをひっくり返したりして両替商などを追い払ったのです。キリストを平和活動家とかダライ・ラマ的な人物として扱う人にとっては、非常に過激な行動です。キリストに対してもっと過激な見方をすることができるのです。もちろん究極的には、人間の生命を守り、救うように運命づけられた方です。

ルカ22章の逸話から、イエス様は弟子たちに自分たちの衣服を売らせようとしていたことが分かります。古代の世界では、上着は様々な要素から自分を守るための最も大切なものの1つでした。また身分の象徴でもありました。上着を売るということは非常に大きなものを失うということだったのです。特に、私たちが持っているような現代の衣服を持っていなかったということを考えたらなおさらのことです。

キリストは剣を所有するためにそれを売るようにはっきりと語っています。それは明らかに攻撃のためのものではなく、弟子たちの身に何かが降りかかるとき、あるいは命が危険に晒される場合のためです。特定の目的のために剣を持つということです。

剣とは現代で言えば銃であり、人間の生命を防衛するために死をもたらすという以外に目的はありません。明らかに当時の剣は、農業に使われてはいません。剣は戦いのために使用されます。

自衛のために剣を持つという考えは、もちろん旧約ではとても強いものですが、新約でも非常に明確なものなのです。

このようなことを聞いたことのない牧師やクリスチャンに会ったとき、私はとても驚きました。

聖書的な観点からすると、またユダヤ・キリスト教の観点からも、私たちの持つ自然権や自然法、人権は特に保守派側ではそこに由来しているのですが、王としてのキリストという観念があります。それはクリスチャンと宇宙との関係、またはその人がこの惑星で割り当てられている自分の人生を歩んでいく上での力の連携に必要不可欠な特性です。

マタイ6:9でイエス様は弟子に命じました。
“だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。”

残りはもちろん知っている方がたくさんいるでしょうが、一般に主の祈りと呼ばれる祈りです。イエス様は、私たちが祈りの中で神様の王国が地上に来る日を楽しみに待つよう懇願しています。これはとても大切なクリスチャンの原則です。それは神様の王国が地上に来るということです。単なる天の王国や死んでから出会う天国というだけでなく、キリストが地上に王国を建設するときに、私たちが遭遇することのできる王国、人々が遭遇することができる王国、遭遇すると信じる王国です。

それはとても大切な概念であり、なぜかと言えば、そのために信者とユダヤ・キリスト教の枠組みの中にいる人たちが、待ちわびるようにならざるを得ないからです。何を待ちわびるかと言えば、神様が王となり苦難と独裁、抑圧が終わる日であり、私たちの道徳の指針を持った立場であり、キリストの内なる神様とキリストが治めると約束されている王国への忠誠と信頼を持った私たちの信仰生活です。

また、マタイ6:33でイエス様はこうも言っています。
“まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。”

信者、キリストにある者がまずやるべき事は、神様の王国を求めることだと言っているのです。

ギリシャ語のバシリアはバシリユスに由来しており、言うまでもなく王を表わす言葉です。

マタイ10:7でイエス様はこう言っています。
“行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。”

ルカ4:43でこうも言っています。
“「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」”

このような重要な聖句で、キリストが、自分が送られたのは神様の王国を説くという目的のためだと言っていることが分かります。歴史的に神様の王国が説かれるところではどこであっても、キリストと弟子たちが、当時ローマの権力の下にあった地域の権力者や国の権力者から、途方もない迫害を受けたということを私たちは知っています。

それはとても過激な教義だったので、信者を増やしたということだけでなく、中央集権の権力にとっては存続にかかわる脅威でした。私たちはそのような権力を天使長的な権力と呼びます。

マタイ14:23でイエス様はガリラヤ全土を回り、群衆に礼拝堂で教え王国の福音を説きました。そして病人を癒されたのです。聖書はやはり、キリストの福音を神様の王国の福音として示していることが分かります。

マルコ1:14。
“ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。”

イエス様が神様の王国の福音を説かれるところでは、癒しと悔い改めがありますが、政治的な激変もありました。これはもちろん、神学会やキリスト教学会では強調されていない場合が多いです。キリストのメッセージの性質は非常に政治色の濃いものであり、そのメッセージは政治的な力が強く、当時の世界で最も強力な文明ですら、この全く無名の人物から存続にかかわる脅威を感じていました。

マタイ9:35。
“イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。”

マタイ24:14。
“そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。”

マタイ25:34。
“そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。”

キリスト教の観点、ユダヤ・キリスト教の旧約、新約両方の観点から、人間の価値というものは神の形として作られ、最終的にその王国でキリストの共同相続人となることだと私たちは捉えています。

クリスチャンは社会を他と異なる枠組みで見ていますが、その理由というのはクリスチャンが、やがては地上にできる神様の王国へと向けた、王国の福音という考えを持つようになっているからです。その中で神様も、信者と信仰を持つ人々は共同相続人であると言っています。

現代の民主主義、世界中に広がった民主主義では、西洋の多くの人が君主制のことをとても否定的に捉えています。もちろんそれにはもっともな理由があります。つまり、ほとんどの君主国は非常に中央集権化されていたからであり、主人と奴隷、または農奴の制度を作っていたからです。現代の政治的投機家がネオ封建制と呼ぶものがあり、それは特に左翼がネオ封建制という形で作り直したいと考えている封建制のことです。

もちろんこのようなことは、神様の観点から見て神様が人間に意図したこととは正反対のことです。なぜなら神様は人間を自分の形に作り、支配、主権の祝福、つまり生育せよ、繁殖せよ、地上を主管せよという祝福を与えたからです。例えば私有財産権は聖句に根差したものです。人間に価値があるだけでなく主権に対する権利があるという考え。それは私有財産を持つ権利であり、共産主義国の共産主義の教義では不可能なことです。

西洋で最も大切にされている信念は、このような歴史的、聖書的な原理に由来していますが、見過ごされており、財産を所有しそれを守るという考えが西洋での当たり前の概念であると見なされることが多く、その由来や過激さが忘れ去られています。

様々な神学的、または政治的立場に応じて、人々が財産を所有し、地上の一部を所有することができるという考えを、左派の多くがひどく嫌っているということを私たちは知っています。

しかしこのような原理は、世俗的な伝統から来たものではなく、また多数派に支持される優先的行動からではなく、ある立場から来ていると西洋では見なしています。その立場とは歴史的に聖句であったのです。

ポストモダンの文化にそれほどまで支配されてしまうことは、現代の西洋人にとって大きな悲劇です。そこでは宗教的な過去から切り離されています。聖句から来る私たちの枠組みによって、私たちが共に発掘したこの短い時間で私たち人間の経験が組み立てられるのです。

私はいつもこのように信じているのですが、真剣な信者はみな、人権も自然権も超越的な宇宙の設計者のみに基づいていると信じています。その方は力強く、私たち以上にもっとたくさんのことを知っており、あらゆるものより偉大であり、すべての時間を超越しており、つまりそういったものは時間と物質の両方で作られたのであり、あるものを無からいつ創造するかを意識的に決めることができます。人権はそこから始まったのであり、結局人権は人間の精神の産物ではあり得ず、超越的な創造主の産物であるに違いないのです。

それが私たちに主権を授け、価値を与え、目的を与え、うぬぼれや身勝手さや、キリスト教の世界で言及されているような罪、人間としての悪からの救いをもたらしました。そのおかげで私たちは、もっと善なる神様のようになれるよう努めることができるのです。

つづく

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村