神の国の福音を宣べ伝えたイエス-12月31日英語説教(その3)

Kingdom of the Rod of Iron 1   December 31  2017   Rev  Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

2017年12月31日 「鉄の杖の王国 1」

Kingdom of the Rod of Iron 1

翻訳:管理人

そこで、神様はわたしたちに鉄の杖をもたらしました。
それは単に信仰やライフスタイル(生活様式)の問題ではありません。
それは全人類の権利、全人類の人権を守る基本的、根本的な能力の問題なのです。

しっかりとこれらの聖句を把握すれば・・・(スクリーンを指して)これを適当なサイズにして、希望者全員で共有できるようにするつもりです、そこの兄弟に声をかけて下さい・・この聖句を机の上や電話に貼り付けたり、これを写真に収めて、「ほら、この興味ぶかい聖句を見てください」と(クリスチャンに)見せるのです。

こうしてアベル型の準備されたクリスチャンと話をするのです。皆さんが好むと好まざるとにかかわらず、彼らも王国の相続者なのです、そうあらねばならないのです、たとえ彼らが知らないとしても-。

マタイ10章7節には、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」とあります。
ルカ4章43節には、「しかしイエスは、『わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである』と言われた」とあります。これらはイエスご自身の言葉です。普通のクリスチャンに「この聖句をご存知ですか」と尋ねてみなさい。「いや知りません」と答えるでしょう。

また、イエス様は「私は、神の国の福音を宣べ伝えなければならない。自分はそのためにつかわされたのである」とおっしゃってる。「私は十字架で死ぬためにつかわされた」とは一言もおっしゃってはいない。キリスト教神学の根幹は「イエスは十字架で死ぬ」ことです。これが2千年間のキリスト教による霊的救いの神学の核心だったのです。イエスは十字架で死ぬために来られたと。父なる神様も十字架での死を知りながらイエス様を地に送ったと。

しかしイエス様ご自身は、十字架で死ぬためにではなく「ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と語っておられます。
ジェームズ王欽定訳聖書でもこの部分は、「これが私がつかわされた理由だ」となっているのです。神の国の福音を宣べ伝えるために来たと。

マタイ4章23節、「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった」御国の福音です。
イエス様は何と言ったか、「御国の福音」。
十字架の福音でもなければ、死と復活の福音でもない。民主主義の福音でもない。
神の国の福音だというのです。これは聖書に書かあれている内容です。

次に、マルコ1章14節、「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた」。ここでも福音は、十字架の死、墓中3日、復活の福音ではない。これをクリスチャンに言うと衝撃を受けます。これをいうとたいていのクリスチャンは、「おまえはとんでもない異端だ、とっとと向こうへ行け」というのです。

「とんでもない異端だ」とは言葉を変えれば「どうしてそんな大胆なことを言うのか」ということです。だからみ言は大事だというのです。私がいっているのではなく聖書に書かれているのです。派手な説教者や、金持ちの福音説教者、またフェイクな自由神学の牧師がどういおうと関係ないのです。偽の福音を説いている。イエス・キリスト本人が福音は、神の国の福音だといっているのです。十字架上の死、墓中3日、復活などとは言っていません。

これはショッキングな内容です。皆さんはいつも聞いているので「この話は知っている」と思っているかも知れませんが、もちろん知っているでしょう。だけども、ここにクリスチャンがいればとんでもなく狂った話に聞こえるでしょう。なぜならどこの日曜学校でも聞いたことがないことだからです。クリスマスでも教会でも一度も聞いたことのない話だからです。しかし聖書にはこう書かれている!これは問題です。

このことから、ほとんどのクリスチャンは聖書をよく読込んでいないということが分かりました。自分で聖書をよく読まずに大小の教会の説教師の話を鵜呑みにしているのです。

聖書自体は、エウアンゲリオンすなわち、福音、良い知らせ、これを十字架の死、空の墓、復活ではなく神の国のことだと定義しているのです。だからこのことは簡単に聖書から導き出せるのです。

イエス・キリストは神の国の福音を宣べ伝えたのです!

クリスチャンなら、これを否定するとき、聖書を否定することになります。いかに信仰者を装い、手をあげて讃美し、聖書を讃美したとしても。神のみ言、聖書を否定しているのです。

福音を間違ってとらえながらキリスト教徒だということができません。聖句は別のことを言っているからです。

マルコ1章15節、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。どの福音ですか。神の国だということです。バシリウス、これは王と言う意味です。そしてバシリアは王国を意味します。王を中心とする国だからです。

これをクリスチャンとしてどう話しますか、現代西洋の民主主義を愛する人々に。しかしクリスチャンなら「王国」を信じなければならないのです。この地上に実体を持って現れる王国です。ここで困ったことになりました。民主主義が大好きだからです、この300年と続いたことのない体制が大好きです。トランプもこれを続けていくでしょう。しかし民主主義は300年以上続きません。かならず衆愚政治にとってかわられるのです。大衆は自分が欲しいものを国から取ろうとし、政治かは国民に迎合して票を集めようとする。そして文明は崩壊する。例外はなかった。

つづく

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