お父様「3回まで殴らせたら反撃しても良い」-1月7日「鉄の杖の王国2」英語説教ポイント(その5完結)

Kingdom of the Rod of Iron 2   January 7  2018   Rev  Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

Kingdom of the Rod of Iron 2

「鉄の杖の王国 2 」2017年1月7日

翻訳:BAMBOOS

(マタイによる福音書5章 38-39節)
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。

殺させても良いとは言っていません。右を打たれ左を打たれ、(その次に)刺しても良いとしたら殺されてしまいます。右と左を打たれて、反撃のための正当性が得られたということです。お父様が「3回まで殴らせたら反撃しても良い」と言われことと同じです。

誰かが致命的な武器を持ってきて、ここを撃たれたら「こちらも撃ってください」とはなりません。頬を殴られても殺されないと分かっているのです。腎臓を刺されたら心臓も刺してもらえとは言っていません。

(マタイによる福音書5章 40-41節)
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。

ある翻訳では、「兵士が道具を運ぶのを手伝わなければならないなら2マイル行きなさい」としています。慈悲深くありなさいということです。

(マタイによる福音書5章 42節)
求める者には与え、借りようとする者を断るな。

気前良くしなさいということです。誰かがお金を借りなければならないとかいったことで、
大きな困難に会っていれば、責任を持たせながらもそういう人たちに気前良くしなさいと言っているのです。政府が道を外れてしまったら、地元の教会や個人がチャリティーで隣人を助けます。しかしそれは善良な人を搾取して良いということではありません。そんなことをすれば今度はイエス様の名で叱責を受けるでしょう。

(マタイによる福音書5章 43-44節)
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

教会のクリスチャンはみな、ISISのために祈るべきです。勝利するようにではありません。ISISの家族がすべて救われるように祈るということです。なぜキリスト教会でそのように教えないのでしょうか。なぜISISの下で抑圧されている子供たちや妻たちのために祈らないのでしょうか。主イエス・キリストが彼らを救うように、と。中世の古めかしい死のカルトから解放されるように、と。レイプと略奪と暴力、抑圧のカルトから。

「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」というのは、彼らの勝利を祈るということではありません。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」ということが鉄の杖によってどのように働くのでしょうか。非常に簡単なことです。彼らの勝利を祈るのではなく、彼らが救われることを祈るのです。悪なる人のために祈るのはとても簡単です。祈ることで愛するのです。それは彼らの魂が救われて欲しいと思うからです。

しかし、彼らが悪行を働き、罪のない人を殺しレイプすることを支持するのではありません。このことで葛藤するのが理解できません。それは言い訳に過ぎないのです。それでも悪と戦うことができ、自己防衛することができ、その上彼らのために祈り愛することができるのです。どうしてそのことで葛藤するというのでしょうか。ばかげています。

しかしそれが道徳です。結局キリスト教の法律学というのはここから来ています。たとえ訴えられた人であっても「疑わしきは罰せず」なのです。その人はこんなことをした、といった訴えがあってもやはり裁判にかけられます。それでも証拠を示さなければなりません。それはこのような教えから来ているものです。

サンヘドリンの裁判から来ているのではありません。それは国と共謀して死を宣告できるものでした。ユダヤ人が、パリサイ人がやっていたとされています。イエス様はそれをサタンのシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)と呼びました。

重要な点はイエス様が原理主義的、正統派のユダヤ教徒でなかったということです。サタンの会堂と言って原理主義的、正統派のユダヤ教徒を非難していたのです。決して正統派のユダヤ教徒ではありません。決して主流のユダヤ教徒ではありません。福音派の中には、イエス様を実際よりも過度に正統派のユダヤ教徒であったかのようにしようとする人がいます。説教もギリシャ語でしていました。ヘブライ語は当時すでに死語となっていました。学問のための言葉であり日常的には使われていなかったのです。

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(マタイによる福音書5章 45節)
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

キリスト教社会はあるところまでは寛容な社会です。いったん一般的な寛容の限界を超えて逸脱し、他人の権利を侵害するようになり、子供を騙し、赤ちゃんを殺すようになれば、罰を受けるようになります。キリスト教文化は相対主義の文化ではありません。相対主義は、それ自体が最善であるという主張以外、どんなことに対しても何もしないというものです。しかしそのようなことはあり得ないのです。なぜなら最善のものなどないというのが相対主義の主張であるからです。

何でも異なる意見を持つ人のことは好きではないかもしれません。しかし、そういう人を単に滅ぼしてしまうことはできません。神様は悪い者の上にも良い者の上にも、太陽を昇らせます。

2:26:16
神様から離れずに祈り、そして鉄の杖を持つのです。私たちがキリストの肢体に平和警察平和軍を組織しなさいと言うようになって一年になりますが、今や銃コミュニティのトップのトレーナーの中に、その話をする人が現れています。驚くべきことです。

私たちはクリスチャンとして、鉄の杖の目的と義務を理解しなければなりません。そして王冠についても同様です。それは神様からの相続であり、その愛であり道徳です。

天聖経645を一緒に読みましょう。

「そのような観点でイエス様は、心と体が一致し得る内容をもち、左右に傾く環境を除去しながら前進できる主体性を備えてこそ、天国を迎えるようになるという事実を教えてくださったのです。
 天国は、他人によって来るのではありません。自分によって来るのです。我々は、堕落した人間なので、自分を否定しなければなりません。自分自ら天国を提示できなくなるときには、他人を通して提示するようになるでしょう。そのようになれば、私は天国を提示した人と一つになってこそ、天国に行くことができます」

おわり
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天国で最も小さい者-1月7日「鉄の杖の王国2」英語説教ポイント(その4)

Kingdom of the Rod of Iron 2   January 7  2018   Rev  Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

Kingdom of the Rod of Iron 2

「鉄の杖の王国 2 」2017年1月7日

翻訳:BAMBOOS

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悪口を言われても気分を悪くしないでください。ただ「ありがとう」と言うのです。自分のYouTubeチャンネルでいつも悪口を書き込まれ、挑発されたからと言ってそれがどうしたというのでしょうか。興奮していちいち回答しようとしないでください。彼らは愚かなロボットのような、インターネットのキーボード戦士にすぎません。弱虫です。現実の生活で向き合えば逃げ出すような人たちです。過呼吸に陥って紙袋を使っているような。

(マタイによる福音書/5章13節)
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。

私たちは守ります。塩は食べ物を守るものです。味を付けます。風味を添えます。食べ物に対してこのような良い効果があります。神様は生ぬるい中途半端がお嫌いです。熱いのか冷たいのかのどちらかを好みます。みなさんはぬるいコーヒーが好きですか。おいしくて熱いコーヒーか紅茶ですね。

(マタイによる福音書5章 14節)
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。

神様は私たちの自尊心を満足させようといっているのではありません。神様は父であって母ではありません。

王妃が母親の愛について言っていました。母親は外が寒いとき子供に「上着を着なさい」「靴下をはきなさい」と言いますが、父親は「行きなさい。15分で戻るように。そんな服装で報いを受けるのは自分だ」と言うのです。

神様は父ですから、私たちの自尊心を満足させるためにこのような言葉を書いたのではありません。私たちに教えを授け、弱虫になるなと言っているのです。「あなたを励まして言いますが、あなたは塩です。そして光となるのです」と言って、そういうわけだから弱虫になってはいけないということです。

誰かが攻撃しているとき弱虫にならずに、喜びなさい、心配するなと言っているのです。励ましています。それは本当に大切なことです。良いコーチ、良い教師、良い父親は叱って真実を伝える方法を知っています。子供がナルシスト的になって偽善に陥っているときに率直に真実を語りますが、同時に励ましてあげます。

(マタイによる福音書5章 15節-16節)
また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

神様は愛のある父です。霊と真実で教えながら私たちの霊を励まします。すばらしいではないですか。父なる神様を賛美しましょう。天のお父様を愛します。

(マタイによる福音書5章 17-19節)
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

天一国がそうだと言えるでしょう。もし神様に反対する人を教えているとすれば、あなたの評判は下がっていきます。処罰されるとさえ言っていません。「天国で最も小さい者と呼ばれる」と言っているのです。自由市場はまさしくそのように機能するものです。

あなたが無能で約束を果たさず、人に悪い扱いをし、不正なことを行うなら、自分の評判を貶めることになります。誰もあなたやあなたの子供を助けたいと思わなくなります。

見てください。「しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう」とあります。王国とはユダヤ・キリスト教の世界です。そこではやはり十戒を守ります。やはり神様を愛し、自分を愛するように、自分を守るように隣人を愛することに従います。

(マタイによる福音書5章 20節)
わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

パリサイ人は共産主義の独裁者であるローマ帝国の寡頭体制と共謀していました。当時マルクスはいませんので名前は違いますが、同じような愚かな体制です。現代の言葉にすれば共産党の一派です。

そうすると義がまさるのは全く容易です。難しくもありません。人に対して抑圧、搾取、殺人、レイプ、略奪をしないようにするだけのことです。それほど高い制約ではありません。誠実な心を持っていればパリサイ人にまさるのは難しいことではありません。

みなさんは神様を愛し、人を愛し、故意に人を傷つけたくないと思っています。搾取したくないと思っています。問題ないです。王国でもちゃんとやれます。しかし、これはいらないなどと言っていると自分の評価を傷つけることになります。「天国で最も小さい者と呼ばれ」、評判は落ちてしまいます。

つづく

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