Kingdom of the Rod of Iron 2
「鉄の杖の王国 2 」2017年1月7日
翻訳:BAMBOOS
(マタイによる福音書5章 38-39節)
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
殺させても良いとは言っていません。右を打たれ左を打たれ、(その次に)刺しても良いとしたら殺されてしまいます。右と左を打たれて、反撃のための正当性が得られたということです。お父様が「3回まで殴らせたら反撃しても良い」と言われことと同じです。
誰かが致命的な武器を持ってきて、ここを撃たれたら「こちらも撃ってください」とはなりません。頬を殴られても殺されないと分かっているのです。腎臓を刺されたら心臓も刺してもらえとは言っていません。
(マタイによる福音書5章 40-41節)
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
ある翻訳では、「兵士が道具を運ぶのを手伝わなければならないなら2マイル行きなさい」としています。慈悲深くありなさいということです。
(マタイによる福音書5章 42節)
求める者には与え、借りようとする者を断るな。
気前良くしなさいということです。誰かがお金を借りなければならないとかいったことで、
大きな困難に会っていれば、責任を持たせながらもそういう人たちに気前良くしなさいと言っているのです。政府が道を外れてしまったら、地元の教会や個人がチャリティーで隣人を助けます。しかしそれは善良な人を搾取して良いということではありません。そんなことをすれば今度はイエス様の名で叱責を受けるでしょう。
(マタイによる福音書5章 43-44節)
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
教会のクリスチャンはみな、ISISのために祈るべきです。勝利するようにではありません。ISISの家族がすべて救われるように祈るということです。なぜキリスト教会でそのように教えないのでしょうか。なぜISISの下で抑圧されている子供たちや妻たちのために祈らないのでしょうか。主イエス・キリストが彼らを救うように、と。中世の古めかしい死のカルトから解放されるように、と。レイプと略奪と暴力、抑圧のカルトから。
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」というのは、彼らの勝利を祈るということではありません。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」ということが鉄の杖によってどのように働くのでしょうか。非常に簡単なことです。彼らの勝利を祈るのではなく、彼らが救われることを祈るのです。悪なる人のために祈るのはとても簡単です。祈ることで愛するのです。それは彼らの魂が救われて欲しいと思うからです。
しかし、彼らが悪行を働き、罪のない人を殺しレイプすることを支持するのではありません。このことで葛藤するのが理解できません。それは言い訳に過ぎないのです。それでも悪と戦うことができ、自己防衛することができ、その上彼らのために祈り愛することができるのです。どうしてそのことで葛藤するというのでしょうか。ばかげています。
しかしそれが道徳です。結局キリスト教の法律学というのはここから来ています。たとえ訴えられた人であっても「疑わしきは罰せず」なのです。その人はこんなことをした、といった訴えがあってもやはり裁判にかけられます。それでも証拠を示さなければなりません。それはこのような教えから来ているものです。
サンヘドリンの裁判から来ているのではありません。それは国と共謀して死を宣告できるものでした。ユダヤ人が、パリサイ人がやっていたとされています。イエス様はそれをサタンのシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)と呼びました。
重要な点はイエス様が原理主義的、正統派のユダヤ教徒でなかったということです。サタンの会堂と言って原理主義的、正統派のユダヤ教徒を非難していたのです。決して正統派のユダヤ教徒ではありません。決して主流のユダヤ教徒ではありません。福音派の中には、イエス様を実際よりも過度に正統派のユダヤ教徒であったかのようにしようとする人がいます。説教もギリシャ語でしていました。ヘブライ語は当時すでに死語となっていました。学問のための言葉であり日常的には使われていなかったのです。
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(マタイによる福音書5章 45節)
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
キリスト教社会はあるところまでは寛容な社会です。いったん一般的な寛容の限界を超えて逸脱し、他人の権利を侵害するようになり、子供を騙し、赤ちゃんを殺すようになれば、罰を受けるようになります。キリスト教文化は相対主義の文化ではありません。相対主義は、それ自体が最善であるという主張以外、どんなことに対しても何もしないというものです。しかしそのようなことはあり得ないのです。なぜなら最善のものなどないというのが相対主義の主張であるからです。
何でも異なる意見を持つ人のことは好きではないかもしれません。しかし、そういう人を単に滅ぼしてしまうことはできません。神様は悪い者の上にも良い者の上にも、太陽を昇らせます。
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神様から離れずに祈り、そして鉄の杖を持つのです。私たちがキリストの肢体に平和警察平和軍を組織しなさいと言うようになって一年になりますが、今や銃コミュニティのトップのトレーナーの中に、その話をする人が現れています。驚くべきことです。
私たちはクリスチャンとして、鉄の杖の目的と義務を理解しなければなりません。そして王冠についても同様です。それは神様からの相続であり、その愛であり道徳です。
天聖経645を一緒に読みましょう。
「そのような観点でイエス様は、心と体が一致し得る内容をもち、左右に傾く環境を除去しながら前進できる主体性を備えてこそ、天国を迎えるようになるという事実を教えてくださったのです。
天国は、他人によって来るのではありません。自分によって来るのです。我々は、堕落した人間なので、自分を否定しなければなりません。自分自ら天国を提示できなくなるときには、他人を通して提示するようになるでしょう。そのようになれば、私は天国を提示した人と一つになってこそ、天国に行くことができます」
おわり
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