最後の時、誰も中間位置に留まることができない―1月14日説教「鉄の杖の王国 3」ポイント2

Kingdom of the Rod of Iron 3 January 14 2018 Rev Hyung Jin Moon Unification Sanctuary Newfoundland PA on Vimeo

Kingdom of the Rod of Iron 3

鉄の杖の王国3

翻訳:管理人

イエスが福音とは何かはっきりと言っていることが分かります。
福音は、神の国の福音なのです。
もう一度言いますが、福音は十字架の福音ではないのです。

通常のキリスト教神学からみれば、まったくの神聖冒涜でしょう。
伝統的に(十字架の福音だと)そういってきたからです。
また、それを用いて神様はこれまで救いの御業を行ってこられたからです。
しかしそれは、キリストが再臨するまでの話です。

(聖書で)神様は福音とは何だといっておられますか。
それは神の国だといっているのです。それを創建し、それを宣べ伝えるのが私がつかわされた目的だとおっしゃっているのです。しかし人々の不信仰によって神様は第2の道を進まなければなりませんでした。もちろん最終的に神様はそれを達成されるでしょう。神の国が創建されるでしょう。この聖句(神の国の福音)が消えることなどない、期限切れになることもないのです。

「福音」とはエウアンゲリオン、「良い知らせ」、「よい音信」という意味です。そしてそれは神の国のことなのです。福音のいう神の国・・・そこではライオンが羊と共に横たわる・・・いいですか、ライオンがオオカミと共に横になるとはいっていません。それは共産主義者の信条です。

カトリック教会は基本的にライオン(獅子)がオオカミと一緒になる・・・と教えています。(イエス様がライオンだとすれば)自分たちは中央集権で支配するオオカミだというのです。(カトリック教会は)堕落の組織、ビルダーグループ、ダボスグループ、国際銀行家、巨大なマフィアのカルテルたちと結託する者たちです。教会を装いながらそういう者たちとグルになっている! イスラム急進派も同じです。一緒になって動いている。

神様はライオンがオオカミと共に寝そべるなどとは言っていません。ライオンが子羊と一緒に寝そべるといっているのです。

羊は羊飼いの声を聞きわけるのです。
だからイエス様ご自身が、神様が福音とは神の国の福音だとはっきりといっているのです。
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。(マタイ25:34)

そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。(マタイ24:14)

これは説得力があります。
御国(神の国)が再び述べ伝えられるとき、それが終わりの時、最後だというのです。これが終末です。種ともみ殻がわけられるとき、山羊と羊がわけられるとき、その分別のときが今です。善と悪も分けられる。
世間を見ても、いまそうなっています。
善なる人はさらに、さらに善になり、キリストをより愛する人になっています。邪悪な人は暴き出されるとともにさらに邪悪になっています。その悪さ加減が先鋭化しているのです。まさにバルカン化(Balkanization)が起こっているようです。誰も中間位置に留まることができません。中間位置で隠れていることができないというのです。主権と全体主義のどちらを選ぶか、その中間で楽しく、お上品に隠れていることができません。

これが時のしるしです。この神の国の福音が説かれるとき、全世界に宣べ伝えられるとき、最後が来るのです。

イエス様が御国(王国)について話をされるとき、王国について教え、王国を治められるといいました。ではいかにして御国を治められるのでしょうか。どのようにして信仰者たちがキリストと共に共同相続人になるのでしょうか。神様といかに王国を統治するのでしょうか。
忘れてはならないことは、王国は神様と神様の愛、人類への神様の賜物が基礎にあるということです。神の国が打ち建てられた後も神様の本性は不変です。神様は創造の神であり、イエスという人に臨在される方です。神の国創建が実現した途端に、(独裁者の)フィデル・カストロや金正恩のような人間になるはずもないのです。アジアのポーキー・ピッグ(豚)にはならないというのです。

北朝鮮のバーベキューでは皆、樹の皮まで食べるのです。だから体内には何十センチもの寄生虫がいる。

神の国ができた途端に神様の本性が変わるわけはないのです。聖書には神様は永遠不変のお方とあります。だからその性質は変わらない。新約旧約の愛なる神が、神の国ができた途端に独裁の神になったりしないというのです。

キリスト教界の問題は、だれも神様による統治、鉄の杖の統治について語ろうとしないことです。愛なる神様がどのように鉄の杖で治められるというのか。また、どのように信徒たちが神の王国で王、王妃となってキリストの共同相続者になりうるのか。「あなたの冠がだれにも奪われないように」(黙3:11)

信仰ある者たち、生き延びた者たちは神様とともに立ち、地を受け継ぐというのです。詩編2:8に書かれています。

わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える(詩編2:8)

それはわれわれが権力を誇示するためでも傲慢に、不遜になるためでもありません。
ただ、神様がおっしゃったからそうなるのです。

だから善人がしなければならないことは・・・それは私自身も乗り越えたことですが、すなわち、神様が相続権を与えてくださったら、それを受け取らなければならない、ということです。それは自己中心だからではなく、神様が選んで与えてくださった、ただそれだけの理由があるからです。分かりますか。

もしそれを受け取らない時には、神様がくださった相続という責任を放棄したら、サタンがそれを取るというのです。ほかの誰かが奪っていく。

皆さんは私の歩みをずっと見てきました。王座に座ることに大きな抵抗を感じたりもしたのです。私は一番末の息子です。そこにいる若い人たちもわかるでしょう。そんなことはしたくないのです。私は他にもいろいろスキルをもち、あらゆる格闘技を学んできた男です。それを人前では見せなかったのです。見せびらかすことが嫌だったのです。

しかしそうしなければなりませんでした。もしお父様の後継者、相続者として席に着かなければ、お父様、神様の選びに応えなければ、その席にサタンが座るのです。だから私に選択の余地はないのです。それが相続の難しい所です。善人は往々にして謙遜です。謙虚だからいつも「自分は相応しくない」という思いをもつのです。

しかし神様には、あなたが相応しいかどうか関係ないというのです。それは神様の判断基準にはならないのです。神様はもっと他の基準で判断されるのでしょう。われわれが相応しいかどうか、そんなことが問題ではありません。もしそうなら、山ほどのサタンが「自分こそ相応しい」と名乗りを上げるでしょう。むしろ、自分などとんでもない、と思う点を神様が取られるのかもしれません、「じゃあ、もう少しおまえを信じてみよう」となるのです。

つづく

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