愛と正義と慈愛の神様と鉄の杖の王国―1月14日説教「鉄の杖の王国 3」ポイント①

Kingdom of the Rod of Iron 3 January 14 2018 Rev Hyung Jin Moon Unification Sanctuary Newfoundland PA on Vimeo

Kingdom of the Rod of Iron 3

鉄の杖の王国3

翻訳:管理人

鉄の杖の王国シリーズその3に入ります。
これを本にするときにははっきりと章に分けるつもりです。
また聖句をみていきましょう。繰り返し読むことが重要です。

この中でエマソン・エガリッチの「Love & Respect (愛と尊敬)」を読んだ人はいますか。
夫は妻を愛し、妻は夫を尊敬するという素晴らしい著作です。作者はこの本を書くにあたりたった一つの聖句をもとにしたのです、それはエペソ人への手紙第5章からでした。

夫は無条件に妻を愛しなさい、妻は無条件で夫を敬いなさいという、ほんとうに鍵となる聖句です。これは神様の戒めであり、選択の余地はありません。神様を信じ、神様に忠実であろうとする者である限り、どうこういうことができません。妻を無条件で愛するということ、時には愛し難い時もあるかも知れません、そういう時、夫は忍耐強く愛をもって変えるのです。またその逆に王妃(妻)からすると無条件に王(夫)を敬わなければなりません。見下すのではなく尊敬をもって夫を変えるというのです。これが大切です。男性である夫に口やかましくいうこと、これは尊敬を欠く行為です。

これは神様から頂いた戒め、命令だと知らなければなりません。だから実践するのです。いつもそれを完璧にできるひとはいません。しかしそれをやろうとしなければなりません。
神様の命令です、とやかく言えるものではない、選択の余地はありません。

著者(エガリッチ)の本のすべてはエペソ人への手紙第5章の中の聖句だけをもとにしているのです。この本も、そのシリーズもその聖句から湧き出たものなのです。まさに夫と妻の関係について鍵を解き放つような聖句だったのです。

われわれは王国の聖句、鉄の杖の聖句について学んでいますが、これは一つや二つの聖句どころではありません。それをみればイエス様が「福音」とは何かはっきりと話しておられ、それは「神の国」、「神の国(御国)」こそが良き知らせだとおっしゃっているのです。

またその神の国について、特に、再臨の時には鉄の杖で治められるというのです。もちろんキリストは愛の神様ではあり、その中心が愛であることは間違いありませんが、同時に鉄のつえで御国を治められるというのです。これはキリスト教会の一般の人々にはそれがどういうことか理解することが難しい。

どうしたらそうなるのか鉄の杖に関する聖句をみるまえに、「王国の福音」についての聖句を読むことにします。先週も読みましたがこれは「主の祈り」です。

マタイ6章
9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。

「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」この聖句は絶対的に重要だというのです。神の国は天界の国でもなく、霊的な国でもありません、死後に待ち望む王国ではないのです。これは実体的(物理的)な王国です。通常の伝統的なキリスト教神学ではこれを肉体の復活だと解釈します。つまり主イエスが戻られるとき、死人が墓も中から文字通り生き返ると、多くのキリスト教徒の兄弟姉妹は信じています。これは皆さんもご存知でしょう。そして肉体をまとってイエス様と一緒に地上で暮らすというのです。そうして千年統治に同参する。

天国が地上にくるということ、これが重要なことです。天界の王国でもなく、死後の天の王国でもなくキリストが地上で打ち建てる王国なのです。それは正義の王国であり、善の王国であり、愛と正義の王国です。しかしそこにはまた統治の鍵となる部分があり、それは王国の支配は鉄の杖によってなされるということなのです。

しかしクリスチャンの兄弟はそれがどういうふうに実現するのか理解できません。もちろん神様はこれを、原理を通し、天一国憲法を通して、万王の王の三大王権を通して明快に示してくださっています。愛と正義と慈愛の神様と鉄の杖の王国、それが何の矛盾もないことを示してくださったのです。

マタイ6章33節
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

マタイ7章221節
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

ルカ4章43節
しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。
イエス様ご自身が、私は神の国の福音を宣べ伝えるためにつかわされたとおっしゃっているのです。決して、「皆のために死ぬために来た」とか、「十字架に架かるために来た」などといっていない。われわれは、それによって霊的救いがなされたことは知っています。しかしイエス様はもう一度来なければならないのです。イエス様も私はまた来るといわれました、それは地上天国が来なければならないからです。

ルカ4章43節ではっきりとおっしゃっています。これは2000年前の文献です!なのにこれを誰も見ようとしなかったのです。誰もこの聖句を読みたがらなかったのです。これがローマ・カトリックの正統的神学、あるいはギリシャ正教の神学と一致しないからです。そうした伝統的弁証学と合致しない。

ルカ4章43節で、イエス様が自らの口で話しているではないですか。ここを避けて通ることなどできないのです。無視することなどできません。イエス様と聖書の権威は、この世のすべての教会にまさっているではないですか。それらは、その権威の下位にあるものです。

キリスト教の伝統、正統性、そのようなものにかかわらず、聖書はそれらを凌駕するものです。特にイエス様ご自身が語られたご自身のこと、宣べ伝えた福音の内容ともなればなおさらです。イエス様が最高の権威をもっているのです、いかなる教派も問題にならない、その下位に属するのです。イエス様はこう語られました。

わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである (ルカ4:43)

マタイ4:23では、
イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった

マルコ1:14では、
ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、
15 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

だから、神の福音とは神の国だというのです。
王国というのはバシリア(ギリシャ語)で、こればバシリウス、王という単語から派生したものです。民主主義でも社会主義でも共産主義でもないのです。マルクス主義でもない。王国です、王国。         

つづく

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