こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである-1月7日「鉄の杖の王国2」英語説教ポイント(その3)

Kingdom of the Rod of Iron 2   January 7  2018   Rev  Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

Kingdom of the Rod of Iron 2

「鉄の杖の王国 2 」2017年1月7日

翻訳:BAMBOOS

Vimeo 1:13:30
王国の本質を理解するために、マタイによる福音書5章で2つの重要な聖句を見てきましたが、今度は章全体を見ていきます。というのは、それによって平和警察平和軍の文化の全般的な骨組みが分かるからです。

もちろん有名なものであり、それを選んだというのではなく、王国の聖句を見ていく中で今回マタイによる福音書5章のところに来たということです。3章と4章は先週やりましたので。

(マタイによる福音書5章3節-6節)
 こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

このような内容は全て、本当に慈悲深く善良な社会についてのものです。善良で慈悲深い人々の性格や特徴が全てあります。

イエス様が語られたのは、国のレベル、王国のレベルで見て正しい人々にとって不可欠な特徴のことです。なぜなら、今私たちは、生と死に対する主権と責任を持って行動しようとしているからです。それで今すべての聖句を、王国の福音の聖句と鉄の杖の聖句を通して見ているところです。そのような視点で聖句を見ています。

銃の訓練をしているのであれば分かることですが、道徳を持つこと、人間の基本的な徳を持つことが非常に重要です。というのは、大きな権力と権威を持つ場合、人はそれに責任を持たなければならないからです。

神様は私たちに「臆する霊」ではなく、愛の力と健全で自制心を持った心を与えたのです。

(マタイによる福音書5章 7節-9節)(最初から読まれていますが重複部分は省略)
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

平和警察・平和軍はケンカを売ろうということではありません。力による平和の文化を生み出そうとしているのです。なぜかといえば自分の子供が死ぬのを見たくないからです。人を食い物にする人たちに支配権を握られ、マフィアに圧倒されて子供をレイプされたくないからです。それゆえに私たちは平和警察平和軍を持つのであり、鉄の杖を持つのです。

またこの鉄の杖はアメリカ人のためだけのものではありません。地球上のすべての人のためのものです。自己防衛の権利、自己保全の権利、隣人保全の権利はアメリカ人(だけ)の権利ではありません。人間の権利です。南アメリカの人はそれを持つ権利があります。臓器狩りの残酷なプーこと、習近平に抑圧されている中国の人々も。

習近平をくまのプーさんと呼ぶとそれは検閲されます。中国では違法なのです。それで私たちは、残酷な臓器狩りのプーと呼んでいます。全体主義の独裁者、悪魔です。16億の哀れなアジアの人々を抑圧しています。まさに地上で活動するサタンそのものです。私たちは自分の子供や子孫、近所の人々にそのようなサタンの支配を受けさせたくありません。

ですから平和警察平和軍・・・銃に習熟し、格闘技に習熟する人々は最も平和的な人々なのです。戦争に行きたいと思っていません。戦いたくないのです。というのも、その武器がどのような悲惨な結果をもたらすか知っているからです。彼らは平和を作る人々です。

GOA(Gun Owners of America)のラリー・プラット氏が私たちを支持してくれていることに感謝しています。できればヨーロッパにも広めようとしています。奥様はラテンアメリカの人ですのでラテンアメリカにも。アフリカ、アジア。すべての人は習近平やビルダーバーグ・グループ、ダボス・グループの奴隷となるべきではないからです。

人は神様によって生育し、繁殖し、地上を主管するように創造されたのです。ですから私たちは神様の王国とその義を追い求めなければなりません。力を持つだけではなく愛さなければなりません。聖書には「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」(テモテへの第二の手紙1章 7節)とあります。

銃のコミュニティは勇ましく強い人になろうというものではないのです。それは人を愛するがゆえに命がけで練習するということなのです。そして独裁者が支配することや悪者が支配することを恐れるというのです。また奴隷になりたくない人にとっては、訓練してあげることが愛なのです。それが動機であり推進力であり、意志です。神様がそれを求めるのであれば最高の機会を得ます。つまり必要なら信仰者として、結果は保証できなくても悪い人を止めようとするということです。

(マタイによる福音書5章10節)
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

キリスト教会では、銃の所有に真剣に取り組む銃所有者ほど迫害を受けた人はいません。キリスト教会では同性愛を公表している人よりも迫害されているというのです。それほどまでに教会がおかしくなってしまっています。オオカミに扉を開いています。そして文明を本当に守っている人を遠ざけて軽蔑しているのです。

心が清く、あわれみ深く、義に飢えかわき、謙遜です。様々な国で迫害され、弱い人々。王国では慰められます。力を与えられます。

「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」それが平和警察平和軍のことです。力により平和を作るということです。備えによって平和を作ります。どう言っても良いです。力による平和です。オオカミの話す言葉は一つだけです。それは捕食です。ですからすべての地域にやってきます。すべての住宅所有者協会はそれについて話し合わなければなりません。自分が刺激となり、触媒となり、中心人物となることができます。地元の人たちを刺激するのです。そして王国に参加できるようにします。そして善なる人々が鉄の杖を手にすることがなぜ重要なのか理解できるようにします。

(マタイによる福音書5章11-12節)
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

誰かに侮辱されてもただ気を悪くするのではないのです。誰かが侮辱したとしても大丈夫です。銃で撃たれるわけではありません。命にかかわることではありません。左翼はいつもこれをヘイトクライムにしようとしています。何か悪いことを言えば、「それは犯罪だ。私を侮辱した」と言いますが、違います。何かを言っただけのことです。ばかげた名前で呼んだだけではないですか。無視して行ってしまいなさい。左翼は言葉を本当の攻撃のようにしてしまおうとしています。

誰が賛成しますか。男性でしょうか、女性でしょうか。女性のみなさん嘘をつかないで。

誰かが言葉で攻撃したらただ無視してください。誰かが弾丸を撃ってくるのとは全く違います。首をつかんでくることとは全く違います。生命にとっては完全に異なるレベルの脅威です。

つづく

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村

コメントを残す