(王様の本)ROD OF IRON KINGDOM (日本語訳)第1回

 


 

 ROD OF IRON KINGDOM (日本語訳)第1回

推薦文:

修正第2条についての優れた弁証だ。
人びとが修正第2条、自己防衛、政府権力の制限について語るときに往々にして陥る誤りに対する格好の手引書である。一冊手に入れることを是非お勧めする。

ラリー・プラット
GOA(米国銃所有者協会)設立者、名誉理事長

 

ヒョン・ジン・ムーン牧師は半端ない!     Pastor Hyung Jin Moon is the real deal!

トム’チーフ’バーク
アメリカ陸軍特殊部隊(通称グリーンベレー)創設メンバー

 

INTRODUCTION  序文    

 文亨進

 
2018年2月、ペンシルバニアの小さな田舎町ニューファンドランドの小さな教会でAR-15ライフル携帯する、世界中のメンバーを招いて聖婚祝福式をおこないました。
式典の計画は半年以上前に開始していました。フロリダ州パークランドの高校での銃乱射事件の影響に対する懸念はあったものの、神様が6カ月前に与えられたみ旨が一人の狂人のせいで変わる訳がない、というのがわれわれの認識でした。その後起きるであろう嵐のような宣伝記事と世間の注目は予想もつかないものでした。

「ペンシルバニアのガン・チャーチAR-15ライフルを祝福!」

「ペンシルバニアの銃教会(ガン・チャーチ)」

とメディアの見出しが躍る。

本書ではこの式典の真意と、それがわれわれの国家と世界が直面する深刻な挑戦にどう関わっていくのかを明らかにするでしょう。

 **********

私の両親は、私を「亨進」と名づけてくれましたが、私は英語名を「ショーンSean」と名乗りました。なぜならアメリカで生活していく上で覚えやすいからです。

私の父、文鮮明師は私と12人の兄弟姉妹たちを、ニューヨーク州アービントン、ウェストチェスター郡の、ニューヨーク市から(車で)45分かかる小さな町で育ててくれました。

19エーカーの教団施設の中で私たち兄弟は暮らしていました。子供たちでも独身の者は許可と警護なしに、そこを勝手に離れることは許されませんでした。私の家庭は長年、数知れない殺害の脅迫を受けていました。だから近所をぶらぶらしたり、友人達とたむろしたり、自転車で走り回ったりすることもできませんでした。

われわれにとって、それは監獄のようなものでした。しかし振り返ってみれば両親はわれわれの安全を確保するために最善を尽くしていたに過ぎませんでした。教団施設内での隠遁生活は、私たち兄弟姉妹にこの隔離生活に対処する方法を発見させることになりました。

あるものは絵画や音楽に救いを求め、あるものは車やオートバイにそれを見出しました。私は、格闘技を学ぶことに没頭しました。幼いころにいじめにあったことから、自己防衛の思いが私の情熱をもっともかきたてたのです。格闘技こそ私の青春時代のすべてでした。いじめに対抗できる自分を作るために毎日7時間から9時間、道場で学び、練習し、訓練しました。

成長するにつれて、自己防衛への情熱は、刀や棒術、流星錘(りゅうせいすい)へと広がっていきました。最終的には、銃器の使用、いわば「鉄のつえの扱い方」を開始しました。

父は晩年、私に総合格闘技、ブラジル柔術、武器の扱いなどの腕前を上げることを強く勧めました。世界中の教会でデモンストレーションをすることをひじょうに好んだのです。

私の自己防衛の技術を広めようとする情熱は、われわれの教会-「鉄のつえミニストリ」のライフスタイルであるのみならず、私の家庭のライフスタイルでもあったのです。私は、妻子を訓練し、教会メンバーを訓練しています。自衛の知識は、特定の武器について学ぶことではありません。それは力を行使することについての学習です。

すべての善良な人々が、実際の悪から身を守るために適切な力の使い方を知らなければなりません。AR-15ライフルは力を増幅してくれるものであり、自分と家庭、そして財産を守るための素晴らしい道具です。アメリカの善良な市民が、犯罪者から安全を確保する大きな威力をもつこの道具を手に入れることができるということは、真に祝福だと言えます。

テキサス州サザランドの教会で起きた銃乱射事件はAR-15を持った1人の人物によって止められました。罪なき犠牲者のさらなる流血を防いだのです。

私たちはみずからに尋ねてみるべきでしょう。
「罪のない人びとが自衛の権利を持ち続けるのか? 良心的な人びとが暴力的な無法者が振り回すのと同等の力を行使することができるのか?」これは現実的な問いかけです。

神様はわれわれに自由意志を与えられました。だから悪に向かう潜在性を排除することができません。合衆国憲法修正第2条のおかげで、邪悪な力から、より一層大きな力で自分達と愛する人々を守る自由をわれわれは持っているのです。

翻訳:Harry

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村

カトリック教会にはなぜ九尾の鞭を持ったイエス様の絵がないのか-6月24日日曜英語礼拝(その2)

Sanctuary Church Sunday Service 06 24 2018 YouTube

2018年6月24日 日曜英語礼拝

翻訳:BAMBOOS

ここで注目して欲しい事があります。「すべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった」とあります。そして「神の国を宣べ伝え」ました。見てください。「旅のために何も携えるな」とあります。「つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな」と。まさにこのルカ9章の聖句は銃支持派が知っている有名な聖句とつながりがあります。それはルカ22章です。35節から何と言われているか見てください。

35:そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。36:そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。

これらの2つの聖句につながりがあることが分かります。ルカ9章では弟子たちを訓練する中で信仰を持って福音を伝えに行きなさいと言っています。何も持ってはいけないと言って。しかしその後、もう一度その事を取り上げてルカ22章では、ルカ9章で言っていたのと全く同じ事について、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい」と言っています。(続けて以下の聖句を読む)

あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している。

イエス様は十字架に向けて準備されています。私はもう行くのだと。今度は自分の身を守らなければならないというのです。私の保護がある時は、訓練としてあなたたちを遣わしたのだと。安全だと分かっていたので送りましたが、今は十字架に備えなければならず、今度は剣を持たなければならないということです。

剣はナイフとは違います。マカイラ(ギリシャ語)という両刃の軍隊の武器です。槍と並んでローマの戦士の主要な武器でした。またこの人たちは市民です。イエス様に従う市民でした。中には娘の治癒を求めた将軍もいたことがマタイなどの他の聖句にあります。イエス様を認め、治療者だと分かっている人たちがいました。しかし、使徒たちは一般人です。漁師や取税人などであり軍人ではありません。しかし、ルカ22章ではもう私は行く、殺されるのだと、今から自分の身を守ることができないといけないのだと言います。

剃刀を持ちなさいとは言いませんでした。小さなナイフを持ちなさいとは言いませんでした。ナイフはマカイラとは言葉が違います。剣を持てと言われたのでありそれはまさに軍用の武器のことです。それはCQB(Close Quarters Battle:近接戦闘)のための近接戦闘用武器です。

頭のおかしい左翼にはルカ9章のことを指摘したがる人がいます。おやおや、イエス様は22章で何を求めたでしょうか。ルカ9章のことを22章で言っています。どうなったか分かるでしょうか。22章では9章で起きたことを求めています。あの時はイエス様の保護がありました。今度は社会の安全のために責任を持つべきだ、武装すべきだと言っています。ルカ9章で言っていたことを22章で話しています。そういうつながりがあると分かります。

38:弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。39: イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。

ここでマタイ5章に行きます。山上の垂訓はみんな知っているでしょう。興味深い内容がありますのでここではギリシャ語で見てみます。3節からです。

3:「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

トゥーコイとは貧困を意味し、物質的に貧しいことですが大変欠乏しているという意味です。次にヌーマチは息を意味しています。ギリシャ語のヌーマチの語源です。ここで「こころの貧しい」とは「息の貧しい」または「意志の貧しい」と解釈できます。文脈によってヌーマチは様々に解釈できます。背景を見ると興味深いのです。

共産主義体制で見てみましょう。疲れ切った人たちは誰でしょうか。息が切れ、貧しく、生命力と精神力に乏しいのは誰でしょうか。意志が挫かれている人はだれでしょうか。精神が挫かれている人は誰でしょうか。その通り、市民です。

民主党を見ると復讐心にさいなまされています。何のためかと言えば意志を挫くためです。罪悪感と恥ずかしさを抱かせ、あなたは偏屈な人種差別主義者だと言います。同性愛嫌悪だと。そうやってあなたを挫こうとしています。彼らが嫌うのは自信を持った人たちです。というのも、どんなばかばかしいレッテルを貼ったとしても、「ばか野郎。私があなたの権利を取り上げるつもりはない。あなたこそ私の権利を奪おうとしている。だが私は推進し続けるのだ」と言います。彼らは、あなたを破滅させ、あなたを挫き、あなたの精神を挫くことにワクワクしているというのです。

彼らはあなたに神様を信じさせたくありません。超越した力の源のようなものを信じさせたくありません。「我々の委員会を通過しなければ次の段階の力に到達はできない」とでもいうように。彼らが最も嫌うことは、あなたが創造主と話ができるということです。「お前のような奴隷が創造主と話ができると考えるとは何事だ」と。「我々はホルスやラー、バフォメット、またそういったあらゆる悪魔と話をするのだ」と。

彼らのような政治的サタン主義者は何をするのでしょうか。あなたの精神を挫くのだということが分かります。あなたを貧困にします。喜びや聖霊の力を持てなくします。ですから私たちが賛美の歌を歌う時、あなたの精神は高揚して神様の力が血管を流れるのを感じます。わたしはもう奴隷ではない。全能の神の子供だと。

1:02:05
4節にいきましょう。

4:悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。5:柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。

この柔和という言葉は誤って解釈されることが多いです。

(解説の文を読んで)
「この翻訳の難しい語源プラウスは、『柔和』以上の意味があります。聖書での柔和さは弱さではなく、むしろ神様の支配の下でその力を発揮することを意味します」

彼らが考える柔和はこういうものです。「そうですとも。ヒラリー・クリントン様」「そうですとも。ローゼンスタイン様、オバマ様」こういったカルトのようなものです。彼らはそれが柔和の意味だと考えています。

(もう一度繰り返して)「この翻訳の難しい語源プラウスは、『柔和』以上の意味があります。聖書での柔和さは弱さではなく、むしろ神様の支配の下でその力を発揮することを意味します」

ですから神様の力、権威を発揮するのですがそれは神様の下でそうするということです。私たちは神様の上に王座を置こうとはしません。

「あなたのお父さんはどういう人だと思っていますか?」
「彼は再臨のイエスです」
「分かりました。では彼の息子であるあなたは何になるというのですか」
「私は後継者、相続者として任命されています」
私のことを弾丸の王冠の教皇と呼ぶ人もいますが(笑)。カトリックの人は理解できるかもしれません(笑)。

柔和さは弱さではありません。ここは、キリスト教徒を弱くし本当に関わりから孤立させるために社会主義の教義を教えるような、連邦政府やそのプログラムに買収された社会主義者、共産主義者の教会ではありません。弱いという意味ではありません。イエス様は弱くありませんでした。両替商を追い出しました。先に刃の付いた九尾の鞭を作り、両替商を鞭打ちました。分かりますか。イエス様は攻撃用の武器を作りました。先に破片や歯の付いた九尾の鞭です。カトリック教会にはなぜ九尾の鞭を持ったイエス様の絵がないのでしょうか。イエス様が武器を製造したのです。それで打たれたいと思う人は誰もいないことを請け合います。彼らはその話をしたくありません。

 つづく

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村