ドナルド・トランプを見てみなさい-10月21日 英語説教(その5:最終回)

Sanctuary Church Sunday Service 10 21 2018   YouTube.png

2018年10月21日 英語説教

翻訳:BAMBOOS

ドナルド・トランプを見てみなさい。この男は何度も事業の一部が破産しています。5回か6回か、とにかく全部でありませんが事業の一部が何度か破産して、その度に再建しています。というのも彼がアノインティングを受けているからです。祝福を受けています。触れるもの全てを黄金に変えます。彼のタワーは文字通りの金色ですが(笑)。

彼には名声があり、評判があります。彼が接触するものは全て成功します。ですから神様は彼を用います。誰にも分かりません。なぜなら彼はマフィアに関係していて、彼の一家やフランク・トランプ(訳注:ドナルド・トランプの父)、ニューヨーク市の建設業者も、またカジノもかなりマフィアと関係があるからです。

毒舌のリアリティーショーのスターがどこからともなくやってきて、ヒラリー・クリントンを激しく非難して、悪い女だと呼びました。彼が神の民を保護したキュロス大王のような人物となると誰が分かったでしょうか。我々が誰も思いもしなかった人物です。神様を信じる者のための安全な避難場所をもたらすために神様が用いる人物。

「神に従う人は逆らう者の家を識別し(箴言21:12)」(訳注:口語訳は著しく異なるため新共同訳から引用)彼はこのような悪の側よりもはるかに良く知っています。

ですから彼らが攻撃して、ロシアだとかプーチンと寝ただとか、全く狂ったようなことを言われて、どんなことを言われてもその攻撃の中でトランプは栄えます。ただもっと強くなるだけです。今度は別の国から(移民)キャラバンを送って南部国境になだれ込ませようとしています。しかし彼は、「やめた方がいい、大変な結果が待っている。軍隊を送るぞ」と言っています。すると少しずつ散り散りになり始めています。

このような攻撃の圧力の中で、トランプはこの国の王として成功していることを示しています。完全な人ではありませんが正義の人です。彼は良いことをしたいと思っています。我々が与えられている神様の祝福を保ちたいと願っているのです。それをグローバリストの手に渡したくないと思っています。ソロス、ロスチャイルド、ビルダーバーグといった悪の共産主義者に渡したくないと思っています。

息子のジュニア(訳注:トランプの長男Donald John “Don” Trump Jr.は「トランプ45」の銃をカー・アームズから買いました。その後銃を撃つ様子のビデオを投稿すると思います。トランプ・ファミリーは銃を携帯する権利を支持する、という声明として。なぜなら結局、どんなメッセージかというと、最終的にはこれがどういう意味か分かっているからです。

我々は分かっています。悪と暴力の勢力がハリウッドから、またサンフランシスコでもシリコンバレーでもその技術屋から、親切な人を装ってやって来る時に。彼らの内面がどうなのか分かっています。彼らの悪が分かっています。彼らが我々に暴力を使うと分かっています。

だから我々は自分たちも武力に対する支配力があることを示します。なぜなら、考えてみれば、大きな抵抗に遭うかもしれないからです。そういうメッセージを出しています。彼らはメッセージを狼たちに出しています。考えてみれば大きな戦いの可能性があります。

9:いさかい好きな妻と一緒に家にいるよりは屋根の片隅に座っている方がよい。10:神に逆らう者の欲望は悪に注がれその目は隣人をも憐れまない。11:不遜な者を罰すれば、浅はかな者は知恵を得る。知恵ある人を目覚めさせるなら彼は知識を得る。12:神に従う人は逆らう者の家を識別し神に逆らう者を災いに落とす。

こういうことから、聖句を読むことがとても大切です。良いことを伝えるだけではなく、本当のことを伝えています。若者たちはますます、神様が計画した王国に対する支配を得ます。様々な規模で、また責任を持たなければならないかもしれない様々な生活地域で、適切な心の骨組みを持ちます。名誉と文明、文化について適切に理解します。神の文化、神の文明がどんなものかを理解します。悪よりも高度であり、6節で見たように財宝を得るために偽りの舌でつく嘘よりも高度なものです。

また手段を正当化してはいけません。正しいことを行ったために、大きな困難、苦労を忍耐しなければならないこともあるでしょう。我々がこういった困難、攻撃、排斥を通過しなければならず、全てを失ったのは、楽しみたかったからだと思いますか。違います。

君たち若者が見物人としてただ見ている間にドーンと落ちて、上がり始めています。映画を見ているようです。しかしその中にいなければならず、それを率いていかなければならないとすれば、神様の途方もない痛みを感じなければなりません。不安とストレスを感じるでしょう。全ての重みを感じるでしょう。

しかしもちろん君たちは外で見ていました。しかしいつかその重荷を背負わなければならなくなります。そしてそのような戦いで勝利しなければなりません。ですからこうした訓練が非常に重要です。なぜなら君たちの心が正しくなければ、ただ権力を得て、お金を得たら・・・。愚かな若者はすぐにお金を浪費するからです。ドラッグ、酒、女で浪費します。そうしなかったとしても独裁者のようになるだけです。

持つものを全て破壊する可能性があります。人に権限を与えたり、人を引き上げたりする方法を知らないからです。自分の予想を超えたところにまで人を行かせる方法を知らないからです。人を育てる方法を知りません。重要なことです。この箴言は知恵です。世の中の捉え方の知恵です。

我々は神様の霊が自分たちの内側に住まわれることを知っています。幕屋が共に宿り、腹から川の流れのように出てきます。その「腹」に触れなければなりません。神様が我々をその歩みを通して導く際に与えた感情です。我々は余りにも遠くまで進み、余りにも不安で、余りにもイライラしています。神様の前に何があるのか見たいと望んでいます。そこにはたどり着けません。賢い人間は神様が歩まれるペースで歩みます。神様が歩まれる時、神様と共に歩みます。

神様に毎日、「励ましてください」と願いません。あなたが落ち込んでいるから何だというのでしょうか。もしかしたら神様はあなたに落ち込ませる必要があるのかもしれません。そうすることで自分を励ます方法を覚え、もっと強くなります。なぜなら神様はあなたのすぐそばにおられるからです。

子供を訓練する時に、いつも「素晴らしい」と言うことはできません。時には「おい、それが君の全力じゃないだろう」と言うこともあります。現実を伝えなければなりません。「この部分は弱い、この部分は強い」と本物の指導をしなければなりません。全ての手順を伝えることはできません。

若者たち何人かといっしょに、バックパックを背負ってコロラド、ロッキー山脈へ30マイルのハイキングをしましたが、私は行く道をずっと励ましたりはしません。何時間も何も話さない時間がありました。彼らはただ一緒に歩いてきます。

先に走っていきたいと思う人もいました。荷物の軽い男の子たちが先へと走りたがっていました。私は彼らにここに来た目的は何なのか尋ねました。王と一緒に行くことが目的なのか、それとも自分の栄光を得るためだけなのかと聞きました。

その後彼らは証しの中で、悪いことだと気づいたと話しました。考えてもみなかったけど、自分は強い人、かっこいい人になりたかったと思っていたのだと、しかし、自分は王を守るためにここにいたいのだと言いました。彼らはその瞬間に興奮して忘れていたのです。目的を失っていました。友達に勝たないといけないという目的になっていました。王を後ろに置いてもいいと。自分勝手でした。

目的が重要だったのです。ミクロ世界で起きたことだと言えますが、信仰生活世界でも起こり得ることです。先に進みたい。あの丘の向こうが見たい。しかし先に急げば、主人はここで右に曲がってしまうかもしれない。もう自分は丘を越えた。ここから見てみろ・・・あれ、彼はどこにいってしまったのだろう。と、そういうことでした。神様はどこへ行くべきかご存じだからです。

今日は聖霊によって話が導かれているようです。本当に聖霊が働いています。私ではなく神様の霊です。神様に栄光を。ハレルヤ。

祈る時、神様と歩む時、そういうことを心に留めましょう。今日タンパにいる仲間のために祈りましょう。そこで歩んでいる人たちのために祈ります。みなさんを愛しています。ブラウン牧師と訓練を受けている人たちです。彼らの教会のためにも祈ります。しかし神様と共にあるようにすることを、いつも忘れないでください。先に進みすぎないようにしましょう。道に迷ってしまいます。全ての歩みを一緒に保ってください。アーメンですか。ハレルヤ!
(全体の終了)

(当初視聴できなかった前半部分からの追加)
これが今日の聖句が示している内容です。ですからあなたの祈祷生活がそのようであるか確認してください。神様に「神様、今日のみ言が必要です。どうすべきか教えてもらう必要があります。今日はこれを聞いていただく必要があります」と言っても、「昨日言っただろう」というのが答えです。それを強く主張するのをやめなければなりません。神様と共に歩んで、先に行き過ぎず、また遅れ過ぎないようにしてください。ただ共に歩むのです。それが最良の方法です。

何とあるかと言えば、共に歩み神様を喜ばすのだ(第1テサロニケ4:1)とあります。ただ我々の父を喜ばせ、その顔を笑顔にしようとするということです。それが文字通りの人生の意義です。神様に喜びを捧げること。笑顔にすることです。

私がお父様に侍っていた時にそれがまさに私という存在でした。私が存在するのはお父様を笑顔にするためでした。コメディーのように笑わせるということではありません。喜んでいただくということです。すっかり喜びの笑顔にするということです。それ以外のことは重要ではありません。地位が重要ではありません。何であっても気にしません。ただお父様と一緒に楽しもうとしていました。

持っていた技や学んだ技能も、ただお父様に見せようとしました。家族の部屋や、麗水、ボートの中などで訓読会をすることもありました。私は自分の茶道具を持って行き、韓国式の茶道具が準備してあってお茶を淹れて訓読会の間にお父様がお茶を飲めるようにしました。私はお父様と一緒にいて、リラックスしてその関係を楽しむようになりました。

ただ一緒にいるという事実を喜ぶのです。事業に関連させようとか、自分に地位をくださいとか、私は尽くしているのでいくらか相続やお金をもらいたいとか、そういうことはありませんでした。ただ共に過ごすことを楽しもうとしていました。

するとお父様は霊的に感じることができます。愛情を感じることができます。この子供は自分といたいだけなのだ、と。90歳、93歳ですから全てを見て来られました。3つの世界大戦を経て、6度の死の牢獄を経験し、全てを見てきたのです。人が何かのために働こうとしていれば分かります。何かを求めようとしていれば分かります。ですから目的が純粋でなければならず、心情が純粋でなければなりません。少なくともできる範囲で、それに気づかなければなりません。

ですから私は、ただお父様と過ごす時間を楽しもうとするのです。ただお父様を笑顔にしようとするだけです。それが私の人生の目標です。簡単なように聞こえますが、神様に、お父様に喜びを捧げることがまさに信仰者の目標なのです。それが喜びであり、それだけです。その顔に笑顔を浮かべさせるのが我々の喜びです。簡単に思えますが非常に純粋なことです。子供を持っていればもっと理解できます。子供がいる人はいますか。親たちは分かりますね。

おわり

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村

コメントを残す