癒しを受けるから従うのか-10月21日 英語説教(その1)

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2018年10月21日 英語説教

翻訳:BAMBOOS

(第一テサロニケ4章)4節に行きましょう。

4:各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、5:神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、

どういう意味でしょうか。神様を知る人たちは違っていなければなりません。神様に従い神様を愛し、その戒律に従って神様に似ようとする人たちと、神様を知らず道に迷っている人たちの間には違いがあります。救われた立場というだけでなく、生活パターンも違います。

神様の子は、この世で経験さているような同じ葛藤の中に、誘惑の輪の中にあるべきではありません。私たちには全く異なる葛藤があって、それは通常サタン側から私たちが受ける計略的で組織化された攻撃に対するものです。ですから我々は全く異なる勝負をしているということです。我々は同じ振る舞いをすべきではありません。

だから例えば大きなメガ・チャーチは憲法修正第二条を支持していません。主権、王権を支持しません。(若い)世代が強い王と王妃になるように育てません。彼らはただかっこいい教会になるように育てます。彼らは神様のみ言を説かずに多文化主義を説いており、座席を埋めることのほうが大切です。魂を救うことをせずに。それは自己満足です。

我々は魂を救いたいと思っています。魂の収穫を願っているのです。というのも結局それが大切だからです。魂です。それが次の世界に行くためのものです。肉体はいつか去ります。

ブラウン牧師が先日言っていました。葬式を迎える人たちのようなことです。肉体は上着や服のようなものです。上着を脱いで床に放り投げるような。さあ(上着を)床に放ってください。

(上着を指して)「ああ、信八(シンパル:亨進様の長男)。なんて悲しいことだ」と言いますが、それは信八ではありません。彼が来ていた上着でしかありません。彼の霊はそのまわりにいて、「どうしてみんな悲しむのですか。私はイエス様といっしょなのに。どうしたのですか」と言います。

私たちは肉体、器を悼んでいます。それはとても愚かなことです。なぜならみなさんは動物ではなく、ただの肉体でなく、チンパンジーのルーシーの子孫ではないからです。進化論者はみなさんのことを猿だと言いますが、それは狂った宗教です。みなさんは霊なのです。また神様は霊です。聖書にそうあります。我々は霊であり神様のかたちに造られています。

ではヨハネ福音書7章に行きます。たくさんの内容があります。もちろん本当に集中すべきところに注目してもらいます。30節から始めましょう。

30:そこで人々はイエスを捕えようと計ったが、だれひとり手をかける者はなかった。イエスの時が、まだきていなかったからである。31:しかし、群衆の中の多くの者が、イエスを信じて言った、「キリストがきても、この人が行ったよりも多くのしるしを行うだろうか」。

信じていると言いましたが、キリストだとは信じなかったのです。奇跡を行う人だから付いて行きました。預言者であり、奇跡を行う人であり、癒しを行う人だと。

癒しを受ける必要があるから彼に従うということです。キリストだと信じていませんでした。それは最も重要なことです。キリストだと信じませんでした。そう信じて従っていなかったのです。自分たちの良心でそれが誰なのか、それがメシアであると認識したために、従ったのではありませんでした。

32:群衆がイエスについてこのようなうわさをしているのを、パリサイ人たちは耳にした。そこで、祭司長たちやパリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、下役どもをつかわした。

なぜかと言えば恐れたからです。人々が従っているのが分かったからです。人が従っているからと言って信じてはいないかもしれません。インスタグラムでフォローしている人がいても、彼らは信じていないかもしれません。1万人フォロワーがいても1万人の信者がいるわけではありません。キリストの時代であっても、フォロワーは自分の利益のための、恵みを受けるための人たちであって、必ずしも信者ではありませんでした。弟子たちでさえ裏切りました。信じられないことです。

33:イエスは言われた、「今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く。34:あなたがたはわたしを捜すであろうが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない」。

不信仰者が来ることができない場所です。彼らは神様の栄光、神様の力、神様のアノインティングに至ることはできないということです。神様の霊に至ることはできません。

34:あなたがたはわたしを捜すであろうが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない」。35:そこでユダヤ人たちは互に言った、「わたしたちが見つけることができないというのは、どこへ行こうとしているのだろう。ギリシヤ人の中に離散している人たちのところにでも行って、ギリシヤ人を教えようというのだろうか。36:また、『わたしを捜すが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所には来ることができないだろう』と言ったその言葉は、どういう意味だろう」。37:祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。38:わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。

「生ける水が川となって」。ハレルヤ!水道の水とは言っていないことに注目してください。化学物質の入った毒の水とは言っていません。「生ける水が川となって」とおっしゃいました。創世紀を見ると創造の初めには、あのビデオでも言っていますが、神様の霊が海の上を、水の上を覆っていました。

興味深いことですが、「腹から生ける水が川となって流れ出る」と言われた時の「腹から」の腹が重要です。子供たちは以前より戦士のように強くなって、コアである腹の重要性が分かっています。どのような戦闘の動きにとっても腹が本当に重要です。

では「腹から生ける水が川となって流れ出る」という時、何が川に命を与えるのでしょうか。水道の水ではありません。小川の水ではありません。普通の川の水ではありません。生ける水です。水道水と生ける水の違いは何でしょうか。神様の霊です。創造の初めに神様の霊が水全体に広がっていました。我々が新生して新しい人として生まれる時、キリストにおいて全てが消え去り、全てが死んで新たに作られます。そして川が流れ出して神様の霊がその川に広がります。神様の霊は私たちの中で生きています。私たちに生命を吹き込みます。

我々の方向性は単に自分の方向性や、ユーチューブにある成功のための7段階のような、自分で計画できるものだけではありません。我々は神様の霊によって導かれます。神さは私たちの内に、腹に宿ります。

本物である限り、強く叫び求める限り、ここ(腹)にあります。昨日答えを与えてくださったので今日もっと注目を集めたいというのは赤ん坊です。私が話しているのは、苦労と死の谷を通過しても神様に答えを強く求める人のことです。また神様が答えを与えなくても、忍耐することができます。そして答えを与えてくれたら、とても強力で変革をもたらし、人生を変えるものとなり、文字通り運命のページを変えます。

我々は神様の霊に導かれなければなりません。すでに水を飲んだのにお母さんの注意を引こうとする、愛情に飢えた赤ん坊であってはいけません。

お母さんの神様ではなく、お父さんの神様でしょう。

神様はあなたが支配権を持つ王と王妃に育って欲しいと願っています。ナルシスト的な自己崇拝の愚か者になって欲しくはありません。もちろんそれは王権と王国の破壊につながります。

 
つづく

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