6月4日「名誉の王国」【英語説教日本語訳】(その3:完結)

Kingdom Honor   June 4  2017   Rev. Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

名誉の王国 Kingdom Honor

さて、身代わりの償いの問題ですが、神様が何の罪も犯していない無実の人に罪を負わせることは公平なことでしょうか。善なる神様がそのようなことができるというのでしょうか。

あなたが何か罪を犯したら、裁判官が「身代わりの償いをさせることにします」と言って、町を歩いている人を見て「あの人を捕まえて連れてきなさい」、「あなたはこの人の代わりに罪を償いなさい」と言ったとすれば、それを偉い裁判官だと言うでしょうか。それはその裁判官の正当性と道徳的性質を示すのでしょうか。それは奇妙なことです。法律学的に見ても良い裁判官とも良い人とも思えません。

このような身代わり(代理人)が成立するために必要な5つの要素とは何でしょうか。

1番目に、罪が同じ性質で罰せられるために、罪人と代理人に共通の性質がなければなりません。そしてもちろん、動物の生贄では十分でありません。

2番目に、代理人の自由意思による同意が必要とされます。その人は自由意思のボランティアでなければなりません。先程のたとえ話で裁判官が町で誰かを適当に選んで罪を償わせると言う話をしましたが、問題はその人が自発的にやっていないことだということが分かります。裁判官が自分の権限でそうすることを申し付けたとすれば、そのような裁判官は悪でしょうか善でしょうか。他人の権利を侵害しているのですから全くの悪です。彼は正義を司っているのですから、それは悪だと言えるのです。

ですから同じように私達とその罪、犯罪のために身代わりになろうとする人は、そこに自由意思による同意がなければならず、自発的にそうすることを選択していなければならないのです。

3番目に代理人は、正当にそれに甘んじることを決定できる、自分自身の人生に対する力を持っていなければなりません。彼は同意しているだけでなく力を持っていなければなりません。18歳以下であるために代理になるために両親がサインするようなこととは違います。

4番目に代理人は、私達すべての人に由来するすべての罰に耐える力を持っていなければなりません。それはつまり、神人(キリスト)が要求されるということです。普通の人は自分自身の罪の重荷を持っていますのでそれができません。それに加えて私達すべての人の罪の身代わりになろうというのですから、私達によるすべての罰を償うことはできないのです。それは彼が自分の罪も持っているからです。

キリストについて言えば、それはお父様の言う本体であって、神様が地上に現れた本体である方は自分自身の罪の重荷を持っていないのです。これは独生女についてもまったく同じで、韓お母様は、お父様は罪があるが自分は罪が無いと言っており、罪が無いという問題全体が非常に大きいということなのです。なぜならそれが神人を決定し、誰がキリストであるのか否かを決定するからです。

ですから代理人は力を持たなければなりません。それは簡単です。すべての罪の罰を耐えることができるために、罪がないこと、完全に無実であることです。なぜなら彼が私達の罪を、世界中の罪を負っていながら更に自分自身の罪も負うなら、彼はすべての罪による罰に耐えることはできないからです。ですから彼は罪が無い者でなければならず、それで彼はすべての罪を負うことができ、すべての罪に対して正義が下されるようにできるのです。

5番目に代理人は他人にも自分にも満足を与える必要がないように、罪のない人でなければなりません。彼は神様に何の負債も持たない人でなければならず、罪のない人でなければなりません。それは4番目ともつながりがありますが、これで身代わりの償いがある場合に必要な5つの主要な点が分かりました。

神様とイエス様との関係性という観点だけではなく、私達はお父様の価値が分かります。お父様がどのような道を歩まなければならないか理解するとき、それは私たちが蕩減の道と呼んでいるものです。そしてお父様がどのような正義を自分自身にもたらさなければならなかったのか。お父様は罪人や人類と共通の性質を持っておられました。ですからその代理となることができ、そして有罪であるという同じ性質で罰を受けることができました。

お父様は自分で選択しなければならない自由意思による同意をしていました。それは人間の側として選択しなければならなかったのです。イエス様がゲッセマネの園で御心のままになさってくださいと言って選択しなければならなかったのと同じです。この盃を去らせてくださいと求め、自由に、自由な働きとして決定しなければなりませんでした。

これは非常に重要な問題なのです。なぜなら、前のスライドに戻りますが・・・絶対に間違いのないバロメーターと言う話があります。バロメーターというものを知っていますか。それは気圧を教えてくれるものです。絶対に間違いのないバロメーターというものがあったとします。つまりどのような環境であっても、100パーセントの正確さで未来の気圧の予測を示してくれるということです。それは今から1分後、10分後、そして100年後や1万年後の気圧が分かるのです。絶対に間違いのないものです。

ここでの問題は、信仰という点で私たちが神学的運命論と呼ばれるものに陥ってしまうかもしれないということです。それは決定論とはことなるものです。神学的な運命論と言うのは、神様は私が選ぶものを知っていて、私が選ぶものを運命づけているというようなことです。ですからもう最初から終わっているのです。私がやることも分かっているので私は自由意思を持ってはいないということです。それが神学的運命論と呼ばれるものです。

その問題は、この絶対に正確なバロメーターの例を理解していないということです。そのバロメーターは今日も明日も、1000年後も1万年後の気圧も分かりますが、それはそのバロメーターがその気圧を作っているわけではないのです。それがここでの勘違いです。それが私たちの自由な働きの話の良いたとえになっています。それはもちろん身代わりの償いの2番目のポイントです。

自由な働きは、私達がロボットのようにならず、神様と愛を授受するために重要です。それは天一国憲法の根本です。神様が人間に与えた贈り物と言う点で。もちろん神様がその中心です。

しかし、もしあなたが試練を受けた最後のときに立ち上がったことを神様が知っていたら・・・しかし神様はそれが起こるようにしたのでしょうか。神様は知ってはいたのです。しかし、それが起こるようにしたのではありません。

王妃がおいしい寿司をここに持っていて、とてもおなかがすいていたとします。地虫かミールワーム、爬虫類とか・・・いっそミミズのパスタだとしましょう。彼女はその2つの料理から選ぶのですが、私は間違いなく100パーセント、彼女がミミズのスパゲッティではなく寿司を選ぶことを知っています。しかし、私が彼女に寿司を選ぶようにさせたわけではありません。私は彼女のことを良く知っていただけです。少なくともそこで彼女が寿司を選ぶとはっきり分かっていました。

神様は私たちが何をしようとしているか分かっていますが、しかしそれは神様がそれをもたらしたのでしょうか。神様は私たちのことをとてもよく知っておられるので、私たちが何をするか分かるのです。しかし、私たちがそれを行うことを選ばなければならないという意味で、そこには依然として自由の働きがあります。

その様な意味で神様は、予知はできても、ある結果になるように運命づけることはできないのです。前もって知ることはできてもそれをもたらす事はできず、私達は依然として自由な働きを持つのです。これが絶対に間違いのないバロメーターのたとえについて人々が間違うことなのです。彼らは神学的運命という観点からそれを理解しています。そして予知と因果関係の性質を理解していません。神様の予知は物事が起こる原因とはなりません。最終的に私達は選択しなければならず、自由意思が働くのです。代理に対して自由な同意が要求されるということです。

さて成約の時代で天一国の王国についてこれを考えてみましょう。なぜキリストの身代わりの償いの性質には自由な働きがなければならないのか分かるでしょう。それは私たちが救われるために絶対に重要です。キリストの側での自由な働き、そして私たちの側でもそれを受け入れることを決定しなければなりません。

あなたが法廷にいて裁判官がその裁判を検証していると、誰かがその犯罪に対して自分が身代わりになると言います。しかしあなたは、いや、その人に身代わりになって欲しくないと言うことができるのです。それは人々がキリストを拒絶する場合に起こることです。するとあなたはその負債と反目、そして犯罪に対して完全に責任を負うことになるのです。

自由な働きと言う要素は神様とその息子が自由意思を持つという一方通行ではなく、私たちが救われるようにするための自由意思を持たなければならないということなのです。神様や裁判官が、私たちが受け入れると言うか、受け入れないと言うかを知っているかは重要ではありません。それが原因とはなりません。それは運命論ではないのです。神様はそれを知っているだけで、それを引き起こすのではないのです。

すべての状況を天一国の神様の王国に照らしてみると、また終わりの日に起こるすべての状況において、神様はここにいるすべての一族が選択するということは知っておられ、家庭詐欺連合が拒否することを選択すると知っておられましたが、神様がそれをもたらしたのではないということが分かります。そこにはまだ5パーセントの責任分担があるのです。

しかし同様に、神様は私達のことを良く知っておられるので、最終的に私たちが正しいことをすると分かっておられたのです。

そのようにして私達は創造主の美と知識の両方の中にあります。ペテロへの第2の手紙の聖句で「わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい」とあります。3章18節でしょうか。

私達がキリストの中心性を理解するとき、なぜ彼は私達の永遠の生命にとって重要なのでしょうか。完璧な神様、完璧な法廷、完璧な審判の前に全く正当な永遠の罰を避けるために。どれほどキリストの性質と人格とその関係性が中心であるのか。そういうわけですべての神の形に作られた人の心には穴があります。それは他のものでは満たされず、他のものでは代えられません。

タレンタインは次のような考えを提起しています。私達が神様の前に来てキリストを受け入れるときだけではなく、私達がお父様の権威の下に立つときに私達は罪を軽減されているのか、つまり罪が洗い流されているのかというだけでなく、私達には正義、忍耐として知られているものがあり、つまりキリストにますます似ていくということです。

それは通常、神聖化、義認と呼ばれており、罪を赦免することですが、ゼロにするということではありません。神聖化の過程は、いわば神様が債権者として持っている神様の肯定的な信用と肯定的な資産の転嫁です。

それは私達に転嫁されますが、ゼロになるのではなく、肯定的な評価になります。私達の人生にキリストを持てば多くのことが起こるのです。キリストを持たない人々は、この保証のない、仲裁人のない、罰を支払う償いのない、空虚の中に生きています。

毎日このようなことを深く熟考することができ、キリストの唯一性について考えれば考えるほど、もっと多くの喜びが心から自然にわき出て、もっと賛美の歌を歌いたくなります。私は先日キングズ・レポートで歌っていました(笑)。私は聖霊の声がするといつでも歌います。

自然とあなたの心が神様を賛美し神様に感謝しなければなりません。神様への賛美を歌うのです。私達が恵みと知識を深め、その知識・・・それは私達の父の尊さを理解することです。

立ち上がってすべてを救われた神様とキリストに栄光を捧げましょう。アーメン、アージュ。

天聖経を読みます。

天聖経1262(英語版ページ)
私たちにメシヤが必要な理由は、救いを受けるためです。それでは、救いに必要な根本的な基点とは何ですか。それは、神様の愛の接触点へ帰ることです。

 

翻訳:BAMBOOS
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