わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども、わたしから離れて行け-「恩寵を相続する王国」 英語説教6月11日から(その3)

Kingdom Grace Inheritance June 11 2017 Rev. Hyung Jin Moon Unification Sanctuary Newfoundland PA on Vimeo (2)

「恩寵を相続する王国」Kingdom Grace Inheritance 6月11日【英語説教日本語訳】

アメリカ建国の父は知っていても、その次の世代について聞いたことがないでしょう。

迫害と試練、01:05これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。 テサロニケ第2(1:5)

神様はすでに私達の性格や善行、を知っておられ、われわれは正しい行いをするかもしれないが、決して完璧ではないから誇らないということも、またわれわれが正しい時に正しいことをする、決して(家庭連合の)売春婦のように、権力と地位とお金のために不名誉なことはしないということも予めご存知でした。私たちは「善」を選んだのです。なぜなら、権力、地位、金を基礎としてとして、永遠に存続する文明、4千年の時を超えて存続した文明などあったためしがなかったからです。むしろ文明は、人類に、サタンの誘惑にたいして立ち向かう力を与える、永続する価値、永続する原理に基づくべきなのです。神様が任命した、自由と責任をもつ導き人、支配者となるべきです。

「01:05これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。」

「01:06神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、 01:07また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。」

「01:08主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。」

マタイ福音書では、イエス様はこういわれています。

「[7-21]  『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』[23]しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告する。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」

そして日に投げ入れられるのです。
あまりに多くの者たちが「私は(お父様を)愛しています・・・」などといってきました。そうではなかったのだ。その者たちはただ、自分の地位とお金そして権力を愛していたにすぎない。正しい選択をして、迫害を受けるのはもうごめんだ・・・知り合いからもそっぽを向かれたくない・・・。嘘つきで口先だけの者たち。

キリストを中心として生きそして死ぬことによって、少年は大人の男性に、少女は大人の女性になるのです。真の人間を、天使長の奴隷である偽りの人間から区別します。主体的な者と奴隷のような非主体的な者を区別するのです。

「神様は正しく、神の人々に休息を与えて下さいます。」

そして「そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります」、なんということでしょう。聖書に「神様が罰を与える」と書かれているのです。

神様が罰する・・・なんと、イエス様が罰するというのです。

「神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者・・・」つまり、神様の計画を知るだけではなく、従うということです。愛と信仰と従順、福音に従うためには、まず愛をもっていなければなりません。神様は偽りの行いを基にする従順は求めておられません。真実の愛に基づくものを求めておられるのです。愛するから従うのです。神様に傷跡を残したくないから従うのです。神様を愛するから、傷つけて傷跡を残したくないのです。
配偶者を愛するから淫行をしないのです。

同じように、お父様の命令に従うのは、お父様を愛するからです。お父様が残された権力の座にすわり、贅沢を続けたいだけの韓オモニとは違います。

お父様は最後の最後に、全世界に向けて、「オモニが自分をもはや愛していない」という事実を示されました。オモニはお父様を怒らせたのです。自己崇拝の言い訳欲しさにオモニに従う、全体主義者で傲慢なナルシスト、いかさまで偽りの女性たちは、最初から最後まで失敗者だというのです。哀れです。

いかなる文明もそのような、弱くて哀れな悪魔主義的な人々の基盤のうえには建てられることはありません。ただの一つもありえない。

「神を知り、主イエスの福音に従う者は・・・」ここでいう福音は、イエス様自身がいっておられるように、「王国」のあらましを描く福音でした。これまでの説教を通してこれは見てきたことです。

イエス・キリストの福音は、王国の福音です。

「彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう」(1-9)

地獄とは、神様のおられない場所です。神様から切り離されて、永遠の時を過ごさなければならないのです。霊界では神様こそが生命を支える力なのです。生命の根源から切り離される永遠の死、延々と繰り返される痛み。霊界では、神様こそ光の源泉、生命の源です。

しかしすべてこれは、あらゆる男女の決断に委ねられています。選択で分かれるのです。

ある神学者がいいました。
「神様は人を地獄に送る必要がない。自ら好んでそこに行くのだ」

神様はそれを許さざるを得ません。「そこまで私を憎むのなら、私をお前の父だと認めたくないのなら、そうしなさい。離れて暮らすがよい。」

パウロはさらに、こういいます。
「また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように」

パウロは、あらゆる願いの成就を願っているのではなく、「善を求める」あらゆる願い、と言っているのです。人は馬鹿げた願いをもつこともあります。「善を求めるあらゆる願い」であるということです。福音の善、神の国の善です。そのような願いを神様は成就させて下さるのです。神様は全能であると同時に、信仰者なのです。ご自分の義に立つ者への約束に対して絶対的に忠実なお方です。その者が完全だからではありません。神様を抜いては、取るに足らない者なのです。

「信仰からなされたすべての行い。それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです」

先週、「身代わりの償い」について話しました。「身代わりの償い」が成立するためには「身代わり」になるものがどのようなものでなければならないか。例えば裁判所の判事が、犯罪者を前にして、「よし、道で歩いている者、誰でもいいから連れてきなさい」と命令して連れてこられて者に対して、「この犯罪者の罪は、お前に移した」などということは決して許されないし、まともではありません。とんでもない判事であり、とてつもなく不正な判事です。

先週これについて、学びましたね。「身代わりの償い」として成立するためには必要な基準があるのです。前近代社会には、「身代わりの償い」を行っている様々な文化がありました。他の人の罪をあがなうことのできる人がいました。立ち上がって「自分が彼の罪を代わりに引き受ける」と言えば成り立つのです。古代世界のある文化ではそれがありえたのです。しかし近代では、普通ではありませんし、そのような話も聞きません。しかし、哲学では、「神の正義の哲学」、「神の法理学」においては、法哲学、罰に関する哲学が存在するのです。

このテーマで多くの文献書籍があります。この神の法理において「身代わりの償い」は先の例では、正当とは認められません。

まず条件の1番目は、罪を犯したものと、贖罪するものが同じ特性をもっていること、同じ特性に対して、罰することができなければなりません。だから神の前に罪を犯したとするなら、神の前に犯罪者であると同時に、単なる赦しで、償うことのできる遺恨などではなく、「犯罪」を構成します。

だから裁判官が「10人の人間を殺したのか、だが赦してやろう」などとは決していうことはできない。とんでもない裁判官だというのです。恐ろしい国です。罪は犯罪であるということを理解するなら、善なる神様がなぜ、悪を罰するのかが分かります。ダイエット・コーラのようなキリスト教を信じる者、気分が良くなる神様だけ信仰する者たちは、人間の罪が犯罪である、といわれると気分が良くないのです。善なる神様が、善であると同時に悪を裁くということを認めたくないのです。善良な裁判官が国の正義を守るために悪を裁くのと同じ理屈です。そこから逃げることはできないのです。

家庭詐欺連合も郭グループも、「罪が犯罪である」などと夢にも考えたくないのです。自分たちが裁かれたくないからです。しかし天一国が実体で創建されるとき、反逆罪で罰せられます。異端の団体から金を受け取った幹部はすべて裁かれるのです。

神の善と義にもとづいて、良き裁判官のするように罪は裁かれなければなりません。たとえ心が痛んだとしてもそうしなければならないのです。そうしてこそ法と国家の完全性を保持できるのです。

誰かがその罪の身代わりに償うとするなら、同じ特性をもつ者がおこなうこと、だから山羊や虫では駄目です。「裁判長、この蟻を私の代わりに裁いて下さい」とはいえません。同じ特性をもつ者でなければ。人間の罪は人間でなければ償うことはできません。人の機能をもつ者でなければならないということです。

条件の2番目は、償う人はその自由意志で行わなければならないということです。「私がやります。私が彼の罪を代わりに償います」と明言しなければならないのです。通りすがりの人では駄目な理由は、自らの意志で選択したのではないからです。だから義にかなっていない。このたとえ話を聞いたとき「ありえない!」と良心が反発を感じたのは、それが義にかなっていないからです。裁判官の命令で、無理やり連れてこられた者が、なにをしたというのでしょう。犬と散歩していたかもしれないのです。

自由意志が必要です。3つ目の条件は、罪を代わりに償う人がその決断を下すに十分な程度の自分の人生における権限をもっていることが必要です。例えば胎児では、自分の意志を示すことができません。

次に条件の4つ目です。身代わりになる人は、神の正義によって裁かれるのだから、そのような罪、すべての罪を代わりに償うことのできる能力をもつ者でなければなりません。だから「神の人」でなければならないということです。条件5番目とからんで、身代わりになる人は自分のために贖罪する必要のない人でなければなりません。これは先週見てきたことです。つまり、その人は神様に対して、いかなる負い目ももたないということです。完璧に罪なき人でなければなりません。いかなる罪も犯していない人です。

私は法律家ではありませんが、法律では、「法的擬制(legal fiction)」と呼ばれる概念があります。フィクション(擬制)ですが、法律的には実体的です。ウィキペディアでみてみましょう。

「法的擬制は、裁判所によって仮定され、または作成された事実であり、法的規則を適用するために使用される」

だから法律の世界では十分に裏付けられた概念です。また十分に分類されています。いくつか例をみてみましょう。たとえば養子縁組がそうです。

(ウィキペディアから読まれる)
「養子縁組がなされると、生物学的な両親のいずれか、または両方が、法的に子供に関係しなくなり・・・」これがリーガル・フィクション(法的擬制)と呼ばれるものです。現実ではありませんが、法律では用いられるのです。分かりましたか?これで間違っていないですね、ジム。ジムは弁護士です。

「法人格」というのも擬制のひとつです。

このように、イエス・キリストが他人の罪を代わって償うなどということは理屈が通らないし何の法的根拠がない、と主張する人々は明らかに間違っています。一般の法理学でも社会で、リーガル・フィクション(擬制)の存在を認めているのです。キリストによる贖罪がフィクションだといっているのではありません!

翻訳:管理人
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