聖霊役事の内的意味とその深刻さ-2019年2月10日英語説教(その1)

Sunday Service   February 10  2019   Rev  Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

2019年2月10日 英語説教 文亨進二代王

翻訳:Harry

着席して下さい。少しストレッチ(体を伸ばす)をするのもいいでしょう。
レビ記から読みます。皆さんのために祈る前に、多くの人が今日のために祈ってくれました。
レビ記第1章です。焼き尽くす捧げものの所です。3節から読みます。いや1節から読みます。

01:01主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。 01:02イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。 01:03牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、 01:04手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。 01:05奉納者がその牛を主の御前で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を臨在の幕屋の入り口にある祭壇の四つの側面に注ぎかけてささげる。 01:06奉納者が献げ物とする牛の皮をはぎ、その体を各部に分割すると、 01:07祭司アロンの子らは祭壇に薪を整えて並べ、火をつけてから、 01:08分割した各部を、頭と脂肪と共に祭壇の燃えている薪の上に置く。 01:09奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。

ここにもありますが、他にもリストアップしています。旧約聖書のレビ記においてすらいくつかの聖句は按手(あんしゅ)について記しています。按手については内的な意味があるのです。新約聖書では多くの按手を行い、それによって癒す場面があります。しかし内的な深い意味はレビ記の焼き尽くす献げ物の中に見ることができるのです。神のみ前に出て、祈りを受け入れてくださるように願うなら、イサク(アブラハムのことか)のような心を持たなければなりません。息子を捧げたくはないがそれでも祭壇に向かう。そういう時に(神様の)御手が差し伸べられるのです。死の直前の一瞬、そうなるというのです。これは興味深いところです。

あなたが神の祭壇に向かって進んでいくとき、そこで命を惜しまず、命をも捧げようとするとき・・・ちょうどキリストが言ったように「死なんとするものが生きる」ということです。だから祈祷を受けようと思ってやってくるとき、ある具体的な目的のために按手するというよりも、旧約聖書にあるように、死の直前の瞬間であることが必要になる、興味深い話ではないですか。そう、まさに死のうとするその直前です。

新約聖書ではキリストは、(古い)自分は死んで、私によって新しく生まれなさい、といわれています。それは自分自身を手放すということです、われわれの願望も意志も含めて。そうして神様の主管を願う。私たちの人生を委ねるということです。すべて祭壇の上に載せるということです。それが心構えであり、霊的決意であり、魂の姿勢、それによって御手が臨むのです。御手による救い(按手)は神様の霊の内にあるとても力強い賜物です。

レビ記の1章4節を見てください。
「手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」とあります。同3章2節はこうです。「奉納者が献げ物とする牛の頭に手を置き、臨在の幕屋の入り口で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける」この献げものの儀式には子供も参加していたのです。

ここでも若い人たちが前に来て祈りますが、これは若き祭司が立つことなのです。若き王、祭司が生まれてくることです。だから若者たちが前に来て(聖霊の役事で倒れた)人々に手を置くでしょう。その時にこの聖句を思い出してください。力強い内的背景があるのです。神様への捧げもののような気持ちになること。

聖句をもう少し深く読み込んでみましょう。レビ記3章2節からです。
「奉納者が献げ物とする牛の頭に手を置き、臨在の幕屋の入り口で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける」「奉納者がこの牛を燃やして主にささげる和解の献げ物とする場合は、内臓を覆っている脂肪、内臓に付着するすべての脂肪、 03:04二つの腎臓とそれに付着する腰のあたりの脂肪、および腎臓と共に切り取った肝臓の尾状葉を取る」

いいですかここで献げ物に火を放って燃やし尽くすというのです。だから御手の働きを体験するとき多くの人が神の火を感じるのです。皆さんは祭壇に登り、そこで献げられた物は火で焼き尽くされるのですから。旧約聖書のここに手を置く情景があります。新約聖書にもその情景は描かれています。ここで4章15節に飛びます。13節から読みます。

「イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合、そのことが会衆の目にあらわにならなくても、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、 04:14その違反の罪に気づいたときは、会衆は若い雄牛を贖罪の献げ物としてささげ、それを臨在の幕屋の前に引いて行く。15共同体の長老たちは主の御前に立って牛の頭に手を置き、主の御前でその牛を屠る油注がれた祭司は牛の血を取って、臨在の幕屋に携えて入り、 04:17指を血に浸し、垂れ幕の前で主の御前に七度血を振りまく。・・・」

わかりますか。(献げ物の)命を奪う動物の前にあってさえ、その上に手を置くとき全会衆が悔い改めるのです。悔い改め。悔い改めが献げ物の額に置かれるのです。献げ物を捧げる前に。これと同じように見ることができます。癒しは起きますがその内的な意味はキリストに屈服することです。キリストの名のためなら喜んで死ぬ覚悟です。そうするとキリストが心に入ってきて共に住まれるのです。その権能と火と神の愛が共にあります。(聖霊役事で)祈って、横たえる。祈ってあげる。普通に話せばこうなりますが、手をかざす(按手する)ということはとんでもなく深刻なことなのです。ずっと深刻です。「あなたの死の直前」だというのです。ずっとずっと深刻な、アノインティングであり祈りであるということです。今見たような献げ物を捧げる場面たというのです。

レビ記16章を見ましょう。ここはすべて献げ物について書かれています。

「21 そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない」

新約聖書に移って使徒言行録の6章6節、
「6 使徒たちの前に立たせた。すると、使徒たちは祈って手を彼らの上においた

新約でも手を上に置くというところがでてきますが、それはアノインティングの場面です。そして献げ物の場面、捧げものです。神様のみことばは連結しているからです。旧約と新約は連結している。

つづく

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