デュナミスの力-2月17日英語説教(その2)

Sunday Service February 17 2019 Rev Hyung Jin Moon Unification Sanctuary Newfoundland PA on Vimeo

2019年2月17日 英語説教 その2

翻訳:BAMBOOS

イサクはアブラハムと歩んでいました。彼は父親を信頼し、父親のすることを信じていました。父の話、自分の命についての予言を信じていました。言い換えれば自分の命を父親の手に委ねていたのです。それは神様が我々に求めていることです。それが大きな試練です。

みなさんは誰かの手に自分の命を委ねなくてはならなくなります。それがポストモダニズムであろうと、あれこれ教える教師であろうと、誰かの手に命を預けることになります。神様が我々に問いかけるのは、どこで自分の命を神様に委ねるのかということです。アブラハムとイサクのように神様を信頼するのか、ということです。

我々がもしそのような考え方、心情、気持ちを備えるなら、空気が全て変わってきます。天使ですら何が起きているかを感じることができます。神様がその手を止めるよう言われた時、天使でさえもう為されたのだと分かりました。というのも、彼らはイサクの心、そして父親との一体化によって空気が変わったことを感じることができるからです。

我々が祈祷を受ける時これは重要です。我々の多くが熱心にお互いに祈っています。いい加減な祈りをする教会が多くあります。我々は床を叩きながら熱心に祈り、大声で神様に叫びながら、人々のために祈ろうとします。熱心な祈りです。熱心な祈りを捧げるために、人がどれほど自分の命を注いでいるか理解してください。

あなたのために人が祈る時、「彼のことを考えていますよ。あなたのことを祈っていると彼にメールで送りますので」というような態度で祈るのではありません。そうではなく、人のために祈る時は汗を流しながら、天に向かって叫んで、熱心に祈るのです。そのようにしてあなたのために祈っています。

自分が死ぬ間際に、「去る時が来ました。受け入れなさい」と、いい加減な祈りをして欲しいとは思いません。自分の命について真剣な人を望みます。

ある姉妹が激しく戦っています。リサです。彼女はあらゆることについて戦うだけの力を持っていないかもしれません。しかし、彼女のために霊的に熱心に戦っている人たちがいます。当然のことと思わないでください。あなたのために祈る人たちから、どれほどの努力と血と汗が注がれていることでしょうか。彼らの命からの真剣な精力と努力です。

我々は人々の祈りを軽々しく受けてはいけません。特に熱心に祈っている場合。そうした祈りに真剣に感謝しなければなりません。なぜならそれは、人が惜しみなくただ与えるものではないからです。熱心に祈っているなら、あなたのことを熱心に思っているということです。それが空気を変えるものです。霊界でも天使はそれを感じることができます。彼らはアブラハムとイサクについてもそれを感じました。イサクの熱心な信仰にそれを感じました。また父親に対する信頼にもそれを感じたのです。命令が来た時、手を止めるのだと分かりました。

ここにいる人の多くが他の人のために熱心に祈っていますが、それを軽々しく取ってはなりません。彼らも戦っています。彼らも戦いの中で祈りと支援を必要としています。

(使徒行伝10章)38節です。

神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。

今度は11章(13節)に飛びましょう。

13:すると彼はわたしたちに、御使が彼の家に現れて、『ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。14:この人は、あなたとあなたの全家族とが救われる言葉を語って下さるであろう』と告げた次第を、話してくれた。15:そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった。16:その時わたしは、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう』と仰せになった言葉を思い出した。

聖霊は無制限のキリストです。それはキリストの力であり臨在であり、無制限の力です。創造主、無制限のキリスト。「そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった」。ペンテコステの瞬間、聖霊が降りた時・・・舌が分かれるようにして聖霊が彼らの上に降りました。

聖霊を受けた時、心の中で何かが変わります。依存を続けるとかいうことではありません。何かが内面で変わるということです。神様の火が触れると、神様の火が心を支配すると、何かが変わり始めます。何かが燃え尽き、破壊されます。そして再創造されます。世の中に対するかつての見方が、人々が変わり始めるのです。変化し始めます。

何かが内側で変わり始めます。ヨハネは水で洗礼を授けましたが、キリストは聖霊で洗礼を授けました。生きた神様の霊が我々の中に宿っています。我々の中にキリストが内在します。おなかの中に何かがあるのが分かります。腹の中に何かがあります。腹の中で何かを感じます。何かが間違っていたり、外れていたりする時、捕食者が木の陰から見ている時、腹の中からある種の感覚が出てきます。暴力的な対立を経験した人は、それが起こる前に何かが現れるのを感じると言います。第六感とかいろいろ呼び名はありますが、腹の中で警告する何かです。ヨハネ7章38節には、「腹から生ける水が川となって流れ出る」とあります。

中核が内面で変わります。言葉の知識のような物ではありません。知的な知識のような物ではないのです。聖霊によって洗礼を受けると何かが内面で変わります。物事の感じ方、直感での捉え方が変わり始めます。単なる頭の中の知識ではありません。

良心が刺激を受けて、呼び起こされます。善悪を判断する良心が我々の中にあります。聖霊の力が入ると、善悪をもっと強く分立することができます。悪に対して、敵を倒すことのできる火のように強くなることができます。善に対しては、保護する火になります。必要とする人をまわりから保護します。

聖書ではデュナミスの力と呼び、ダイナマイトの語源であるデュナミスと同じです。ダイナマイトのような爆発的な力です。聖書で神様の力のことをいう時、デュナミスの力という時は、爆発的な力のようなことです。爆弾は地形を変えます。爆弾を山に仕掛ければ山を低くすることができます。莫大な力を持っています。

鉄の杖はデュナミスの力を持っています。それは制御された力の爆発だからです。悪に対抗し、善のために使用すべきものです。聖霊の内在によって、爆発的な力を持つデュナミスの力が内側に生じます。安定して徐々に熱くなる力ではありません。爆発的な力のことです。門を爆破し、山を爆破してどけることのできる力です。力強い力が我々の内側にあり、我々の中を通ります。

手を置いて人のために祈る時、自分の精神や力が彼らに流れ込み、癒そうとするのではありません。それは神様の力です。我々はただ、水が流れる器となるべきです。その生きた水の源ではありません。我々はただ器になりたいのです。生きた水を流す道具になりたいのです。その人に触れますがどうなるかは分かりません。しかし、神様の力と神様はご存知です。神様は個々人の心配事を全てご存知です。全ての疑い、全ての心配をご存知です。この若者たちもそうです。彼らが出てきてみなさんのために祈る時も。

彼らは心の中で、この人のために自分の霊的エネルギーを奮い起こさなければならない、というように混乱しているかもしれません。違います。我々や自分たちのことが問題ではありません。それは神様が自分を通じて働かれるようにするということです。そのようにすればプレッシャーはありません。

自分が祈っている人が癒されなければならない、というように、プレッシャーを感じる必要はないのです。そう願うのは素晴らしいことですが、背負い込まないでください。青年たち、いいですか。それはあなたが負わなければならない重荷ではありません。ただ、神様があなたを器として使われるようにするだけで良いのです。

あなたが祈った人の中には、神様の奇跡によって癒される人もいます。神様に栄光を捧げなさい。しかし、その人のために祈る器とならなければなりません。どういうわけか神様は、その人を癒すために奇妙な方法であなたを用いることがあります。

我々は信じられないような癒しを見ました。科学と医者に反するものでした。しかし、やはりそれは我々ではなく、背負い込む必要はありません。自分の霊的エネルギーが治癒すると考えるのは妄想です。自分の霊的な力などではありません。ただ神様にからっぽの器にしてくださいと頼みなさい。

つづく