祭壇に載せて下さいといえますか-2019年2月10日英語説教(その3)

Sunday Service   February 10  2019   Rev  Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

2019年2月10日 英語説教 文亨進二代王

翻訳:Harry

しかし注意しなければなりません。誰彼なしに手を置いて祈ることはしてはいけないのです。聖書がそれを記しています。

「ああ、あの人が癒され病気が治った!」「ああ、この人はすごい体験をした!」

そんなことは知らないというのです。私は神さまを試すつもりはありません。
あなたの神、主なる神を試みてはならないのです。

おそらくそういうことを思ったことがないでしょう。神様はあなたが偽り者であることを見抜かれます。手を置いて祈ることはとても深刻な種類の祈りだということです。それが献げものになるからです。それは献げられなければなりません。ただ祈りをうけるために来てはいけません。死ぬ覚悟ができていなければならないのです。(献祭のため)山に登る心構えが必要です。自分の父が自分を祭壇の上で献げものにするつもりでもよろこんで祭壇に載る心構えです。私ならそうします、イサクのように。
そういう心情を持っています。喜んで死ぬという心情を。
私を祭壇に載せてください死ぬ用意はできています。

皆さんなら踵(きびす)を返して山を降りようとするでしょう。それはだめです、登りなさい。ここまで分かりましたか。人に手を置いて祈るのには、こういうことを知っておかなければなりません。

若者はいま流行りの服を着て、迷彩柄、オレンジに緑色の服、Tシャツを着ている人もいるでしょう。われわれはバカではありません。服装に騙されません。わざわざ祭司のローブを着る必要はありません。パーカーでもレインコートでもいいのです。(笑)

心がそこに在るなら神様が用いるのです。他人の誉れのために祈ることがなければ、・・ああ、私が治してやる、これはだめです。通過体でなければならないのです。役に立つ電気の導線のようになって、さっと電気が流れるようにするのです。若者の心は純粋で、その動機は真実です。自分が手お置いて祈ることになるということを知らなくてもいいのです。普段の生活ではいないことをするのです。たいてい若者は自己中心であり、自分のことしか考えません。それが彼らにとっても喜ばしく心楽しいことだからです。

しかし生まれて初めて、そこから踏み出して、実際に人のために祈ったのです。この若者たちにとって誰かのために、ここで、祈るということは初めての体験なのです。なぜなら世の中の世俗的文化に染められ、教え込まれて、快楽主義者になり、喜びを探し求める者、ドーパミン・ハイにさせられて、ナルシスト、利己的になっているからです。

気にかかるのは、もう自分、自分と自分のことばかり。自分が楽しければ自分が嬉しければと。だから彼らの多くにとっては、今回、人のために手を置き祈るということは人生で初めてのことだったのです。しかしそれは関係ありません。何回人のために祈ったかなど関係ないのです。10年間祈り続けて1度の癒しも与えられなくてもいいのです。祈りの目的はそこにはないからです。

彼らの多くは初めて皆さんのために祈りました。自分でも何をしているか分かっていないのです。彼らはただ一生懸命に皆さんのためにと、意識をそこに集中させていました。

神様は、からし種ほどの信仰さえあれば山をも動かすことができると言われるのです。だから皆さんは信じられないかもしれませんが。「彼らにほんの小さな信仰さえあるなら神様が用いることができる」といっても、神様が必ず用いられるとは限りません。

用いることがあるかも知れないということです。なぜなら神様はすべての背景をご存知だからです。あらゆる角度から状況を把握しておられる。ここの若い男女の青年全員が前に出て祈ったとして、自分達も知らないうちに、神様が用いられます。

だから祈祷を受ける人は御言葉が言うことを信じなければなりません。彼らは献げ物に参加する一部です。ちょうど祭司長がアロンの息子たちを呼んだように。子供を。
進み出て参加しなさいと。

こうすることはサタン世界が行なう罪なき子供殺しに関係あるのです。
神様は子供を育て上げてほしいと願っておられます。子供を殺すのではなく、育て上げる。これらの少年少女たちの心の中で何かが起こります。彼らには見ることもできなければ感じることもできません。彼らが人のために祈るとき、もちろん完全ではありませんが、「よし、ここは一度、自分のことを気にするのではなく、人のために祈ろう」と。

不幸にも彼らは世の中で、ナルシスト、利己主義者、快楽主義者になる訓練を受けてきました。大きな影響を受けているのです。ブラックボックスが彼らの中にあり・・・ところで「猿の惑星」の映画ではブラックボックスが猿をコントロールしていました。

ブラックボックスが!

しかし神様はそれを大きなブレイクスルー(現状打破)に変えられます。

「ああ、二代王は私ではなくあの人を祈られた」こんなばかげたことを言ってはいけません。なぜなら私が、一緒に祈りなさいと言った時、一緒に祈る人も献げ物を捧げる祭壇の一部になっているからです。

私が、あの人の所に1秒いて、この人の所に3時間いたとしてもそんなことは関係ありません。ここはそのような利己的な思いを充満させる場ではないのです。

手を置いて祈るということは、聖霊にその人を委ねるということです。お父様がいてくださり導いて下さる、完全に主管していただく場だというのです。「ああ、この人よりも私を祈ってください」などと言っていてはダメです。関係ありません。

献げ物の場に同参している若者たち、彼らが手を置いて祈るときそれは私が祈ることと全く同じだということです。全体の一部だからです。献げ物の祭壇の場の一部です。皆さんは私の祈りを彼らを通して受けるのです。お父様があなたの所に来られるということです。手を置いて祈るその場の全体の一部なのです。だから自己中心の思いを持ってはいけません。

皆さんが海を渡ってここに来られたことは私たちにとって嬉しいことです。しかしそれが神様が恵みを与えてくださる条件になるとは限りません。航空チケットを買ってやってきた、だから恵みを受ける、神様が困難を打開して下さる、その資格がある、ということにはならないのです。

もし皆さんが、快楽主義的でナルシストのような利己心を持って来たとするなら、自分を高めようという動機できたとするなら、神様の恵みを受けることはできないでしょう。逆に呪いを受けるでしょう。按手を通して呪いを受けるでしょう。これを理解することが大切です。

(聖霊役事に)こうした様々な働きと意味があるということを聖書を通して知ることができます。私たちは熱烈に祈り、すべての者が皆さんのために祈ります。自らの命とエネルギーを皆さんのために祈りに注ぎ込みます。彼らは献げ物の祭壇の場の一部なのです。青年たちが皆さんのために祈る必要はありません。彼らのエネルギーを皆さんの健康のために投入する必要は必ずしもないのです。しかし彼らは祈ります。神の平安のための道具になるために、神様が用いることができるように。

だから手を置いて祈る、その祈り(聖霊役事)を受けるときには、いま述べた背景全体を理解しておかなければなりません。ただやってきて「恵みを受けたい」というのではいけません。どれほどの人数を神様が同時に用いるか知ってください、あなたが一度死んでキリストと共に新生するために。多くの人が今回は関わります。

つづく

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