軽々しく人に手をおいてはならない-2019年2月10日英語説教(その2)

Sunday Service   February 10  2019   Rev  Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

2019年2月10日 英語説教 文亨進二代王

翻訳:Harry

新約聖書では、手を置くと病が癒されたとなっています、しかし旧約聖書では、キリストや使徒の前に癒しを求めてやってくる人々に対してこれらの内的な意味が示されているのです。これは最初の聖句をみれば明らかです。

「軽々しく人に手をおいてはならない(Iテモテ22)」

だからやたらと手をおいてはいけないのです。「手を置く」ということは特別な行為なのです。だから聖書は、「軽々しく手を置くな」「誰にでも構わす手を置くな」と警告しているのです。「それによって人の罪の責任を背負い込むな(Iテモテ22)」。だから誰彼構わず、ただすればよいというものではないのです。「手を置く」行為は特別なことなのです。

「たまたま、ポプリオの父が赤痢をわずらい、高熱で床についていた。そこでパウロは、その人のところにはいって行って祈り、手を彼の上においていやしてやった(使徒28:8)」

この新約聖書の短い聖句から手を置いて癒されたということがわかります、またそれが聖霊の業であるということも理解します。しかしその内的な意味は癒される人が神の祭壇に自分を献げたということ、そこに祭司が手を置くことで聖霊が働く、祭司の手が道具として使われたということです。ちょうど献げ物となる動物の上に手を置いたのとおなじです。次にその人は霊によって倒されます。自ら一度死んで、それからキリストにおいて新生するということです。

そして祭壇が火に包まれる。焼き尽くされるというのです。それは聖霊の炎です。不純なものを燃やし、神の火で人を満たす。失われた子供-堕落した人間を救おうとする愛の炎です。最後の時、収穫を得ようとする燃えるような願望です。だからその行為にとても深い意味がるのです。聖書をそういうふうに読まないので、起こっていることの背景と意味を悟ることができませんでした。これを理解するとき、イスラエル神殿から聖霊による生きた神、天の父の証にいたるまで「手を置く」ことによって起きることの意味が分かるのです。

「手を置く」のはわれわれだけでなく若者も関与します。聖句を読めば、アロンの息子たちが献げ物の動物を用意したことが分かります。それを切り分けたちがことも記されています。彼らは、動物の内臓を洗ったり、火が献げ物を焼き尽くすまで火が消えないように見張っていました。これは世代を超える作業だったのです。祭司だけの仕事ではなくすべての世代が協力しておこなわれたのです。若者たちは自分たちのしていることの意味が分からないかもしれません。ただ祈るだけかもしれません。しかしその間、聖書にしるされる一連の作業のように献げ物が切り分けられ、頭部が取り除かれ、胴が切り取られる。そして一部の臓器が洗われる、そうして捧げものになるのです。こうした一連の流れを理解するとき、イスラエル神殿で神のみ前で行われたこと、その聖なる意味が分かるのです。それで、手を置くときに自分や他の若者がしていることの内側の意味をうかがい知ることができるのです。

手を置かれるとき(聖霊役事を受けるとき)、いま読んだレビ記の聖句を思い出してください。神様を試すためではなく、(献げ物として)死ぬために来るのです。神様を試すのではありません。そういう人は待たなければなりません、まだ聖霊を受ける準備ができていないのです。

手を置いてほしいと願うなら、アロンの息子たちにいろいろ準備してもらいたいのなら、いま言った心構えで来なければなりません。祭壇の上で喜んで献げものになる心情でこなければなりません。アロンの息子たちが完全で、罪を犯したことがないなどと言いません。神様が王となり祭司となるように願われた者たちです。

黙示録第1章5節から見てみましょう。

「更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」

私たちを王とし、祭司としてくださる・・とあります。王や祭司にしてくれるだろう、と未来形で述べていません。「わたしたちを王とし、・・・祭司としてくださった方」とすでにあったこととして述べているのです。だからここの若者が完全だから皆さんのために祈ってくれるということではないのです。完全な器が必要というわけではないのです。神様はいつでも完璧な器を用いられるとは限りません。ここまで大丈夫ですか。それでも神様はその器を用いられるのです。ここの若者たちは深い意味は分かりません。ただ忠実に、ただ信仰をもって人を助けたいと思っているだけです。どうにか自分の祈りが天に通じるものにしたいと彼らは思っているのです。それで(倒れた人に)手を置いて、祈っているのです。

祈りが通じたから癒されるのではありませんし、超能力を持っているからでもありません。神様の道具に徹するから、聖霊の道具になるから治癒するのです。

だから癒しを得ることができるのです。だから奇跡が起こり、答えが与えられるのです。自ら命を投げ出して(献げ物になる)、新たに生まれようとする人、新たな神の願いを持とうとする人のゆえに得られるのです。神様は私たちの心を見ておられます。何を待ち望んでいるのか。この世のものではなく、神を待ち望むのです。だから若者に頼むときこれをおかしなことだと思ってはいけません。きょう見た聖句をご覧なさい、生ける神の証があります。レビ人達は若者をよんで献げものの準備をさせたのです。分かりますか。将来の祭司です。これらの若者はキリストと共に立つ、家庭では王になるべき者たちです。古い自分は死んで新たにキリストを心に迎えるのです。だから若者を前に来させて祈らせることは重要なことなのです。

つづく