小さなことであっても十戒を破っていないか-11月18日英語説教(その2)

Sunday Service November 18 2018 Rev Hyung Jin Moon Unification Sanctuary Newfoundland PA on Vimeo

2018年11月18日日曜礼拝 英語説教

翻訳:BAMBOOS

ヨハネの福音書3章16節から行きましょう

16:神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

本物のクリスチャンは燃えています。神様のために燃えているのです。神様の願望のために燃えています。本物のキリスト信奉者は神様の願望のために燃えています。神様は人々が救われて欲しいと願っています。人々が自由に・・・「自由に」という言葉に注意してください・・・キリストを信じることを、人生をキリストに捧げることを選択して欲しいと願っています。

これが本物のキリスト信奉者であり、彼らが望むことです。なぜなら、それは彼ら自身の願望ではないからです。神様の願望なのです。この点においてそれは心情世界と呼ばれます。お父様が語られていた心情世界のことです。言葉の翻訳にとても戸惑いを感じますが。

人々が救われて欲しいと願う動機です。人々の人生が変わるのを見たい、という興奮。自分のためだけでなく、他の人が変わるのを見たい。神様が他の人に働かれるのを見たい。人々がドラッグ、アルコール、タバコ、フリーセックス文化、また民主党やネオコンなどによって置かれているプランテーションから解放されて欲しい。何であっても、人々が解放されて欲しいと願う内面の要求があります。また人々は自由意志を行使するのであって、強制してキリストに人生を捧げるように、自由意志を行使させることはできません。

それは内面で燃える火のようなものです。自分から出たものではありません。聖霊を受けた時に我々の内に置かれたものです。また自分自身の欲望が焼き尽くされて、神様のことが意味を持つようになるのです。

我々は超自然的で壮大な人生を送ります。自分はどんなふうに見えるだろうか、といったようなつまらない惨めな人生を送っているのではありません。我々は、戦いに満ちた、また悪魔が反対して来るという意味で迫害に満ちた、超自然的な壮大な人生を送っています。

困難はありますがそれほど壮大なものはありません。みんな困難はあります。荒野のどこかで10キロ、100キロと歩いて旅行することもあるでしょう。困難はつきものです。足の指の爪の痛みで、這って行くこともあるでしょう。小さな足の爪のことでも動揺する場合があります。

途方もないことですが、自然の中にいる時だけでなく、神様の動機、神様の心情、その内なる願望、願い、人間に対する希望とつながって・・・。神様は、希望と未来を与えよう、と言われますが、神様が希望を持っていると思いますか。神様も希望を持っています。

我々は神様の希望と一致する時、力が、アノインティングが得られます。自分が触った人が癒されます。人々が解放されます。なぜなら我々にはアノインティングがあるからです。力があります。

今日の聖句に行きましょう。

ローマ2章。重要です。私が祈っている最中、神様に今日のみ言を与えてください、と言うと、神様がローマ2章を与えてくれました。とても大切なみ言です。見てみましょう。

思い出してください。以前取り上げたことのある内容ですが、興味深いことです。神様は、やったことのあるみ言を与えて、我々がもう一度聞くようにさせることがあるということに注意してください。

私がある時に言ったことを覚えている人はどれだけいるでしょうか。覚えていませんね。もちろんです。柔術やMMAを教える時、私が一度見せてからやってみなさいと言うと、みんな「もう一度見せてもらえますか」と言います。ですから神様は再度聞く必要のあるみ言を与えることがあります。今回は違ったように感じるかもしれないのです。もしかしたら今回はもっと深く感動するかもしれません。

いいですか。教会が発展して人々が救いを受けると何が起こるでしょうか。ユダヤ人たちは、新しく来た非ユダヤ人はユダヤの律法に従っていないと言って不満を表しました。新しい人に対して文句を言ったのです。いわば新しい人たちを裁いたということです。彼らは信仰的でない、この儀式をしていない、などと言って。比較的に覚えのあることですね。ここではありませんが過去にありました。そういう背景があります。

2章を一緒に読みましょう。

1:だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。2:わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。3:ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。4:それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。5:あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。6:神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。7:すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、8:他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。9:悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、10:善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。11:なぜなら、神には、かたより見ることがないからである

彼がコミュニティの中のユダヤ人を叱っているのに気付いたでしょうか。あなたたちは選ばれた血統の者ではないと言っていました。つまり、ユダヤ人でなく非ユダヤ人、ローマ人だ、と。韓国人指導者からそういう経験を受けたことのある人はどれくらいいますか。ある種の人種差別ではないでしょうか。ほとんど人種差別です。韓国人が人種差別主義者になり得ると知っている人がどれくらいいますか。ここでは違いますが。アジア人が人種差別主義者になる場合もあります。

神様が何と言っているか見てください。彼はただ、悪を裁くなと言っているのではありません。その背景は何でしょうか。聖句を知らない無知な人たちはこうです。「ああ、悪を裁いてはいけないということか」と。そんなことを言っているのではありません。ばか者。

彼が話しているのは新しい改宗者たちのことです。キリストに人生を捧げた人たちのことを話しています。サタン崇拝者のことを話しているのではありません。そういう人たちは正しく裁かなければなりません。

聖書ははっきりと、正しい裁きをしなさいとしています。悪いことをしているなら、裁かなければならないのです。しかし。ここではその話をしているのではありません。新しい改宗者のことを話しています。新しい人たちをそのように厳しく裁くのは止めなさいと言っているのです。なぜなら、彼が言っているようにあなたも完ぺきではないからです。

それで彼は、ユダヤ人をはじめ・・・と繰り返し言っています。彼らがユダヤ人でないことを自分は理解しているが、神様はそうした非ユダヤ人にも神の摂理を開かれたのだ、ということを思い出させているのです。確かにその人たちは全ての規定を守っていないかもしれませんが、全ての規定を守っている人も神様から遠い場合があるのです。

儀式をよくやって本当に宗教的な行動をしているかもしれませんが、神様にはあまり忠実ではないかもしれません。同じようにパウロはこのローマの教会を批判しているのです。ローマの教会が大きくなっている中、パウロは「何をやっているのだ」と言います。「この人たちは新しく来た人たちなのだから、彼らに対して神様の愛を持とう」と。

12:そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。13:なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。

ですから彼は、神様の律法が不必要だとは言っていません。イエス様は、自分は律法をなくすためでなく成就するために来たのだと言われました。キリストの体には、イエス様は立法を超越するために来たのだ、という人がたくさんいます。多くの繁栄の教師がそう教えています。

律法が全てです。同じ神様だということに気づいてください。律法によって救われるという意味ではありません。神様の律法に注意を払う時・・・。例えば偶像崇拝をしてはいけないとか、他の神々に浮気してはいけないとかいうことです。それは往々にして小児性愛やサタン崇拝につながることです。それは重要です。そういったことは神様にとって重要です。神様との関係性にとって重要です。

そういったものは救いを与えません。全ての宗教が、これをすれば救いを受ける、解脱する、悟りを得る、仏陀になる、というようなことを言います。何かをすればこのことから解放される、と。しかしそれは福音ではありません。そういうものではないのです。自分の救いになることは何もできません。なぜなら私たち全員が、嘘をつき、盗み、姦淫し、神を冒涜しているからです。全ての人が、です。

小さなことであっても十戒を破っています。全ての戒律を破っているのです。神様の前に立って、私は完璧だ、私は善良だとは言えません。善良ではありません。それは福音の力のようなものです。犯罪者と比べたら良い人かもしれません。しかしそれは神様がされていることではありません。

今度は自分を神様と比較してみます。律法はあなたを他の人ではなく神様と比較します。正義の聖なる完璧な神様の前では、あなたはひどい罪人で全く汚れています。全く汚いのです。これを理解するのは重要です。というのも、一度理解すれば、これをきれいにしようとしても何もできないと気づくからです。

あなたには力がありません。それは人から出て来るものではありません。あなたは神様の介入を受ける場合にのみ、神様のように清くなります。いわば、自分の努力に基づくものではないということです。ローマ2章の背景を理解することが重要です。彼はそのような態度に対して警告しています。

14:すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、・・・

それは良心のことですね。聖書には、全ての人の心に神様の律法が書かれている、とあります。また我々の心が固くなっているともあります。心が固くなっているので良心がはっきりと表れません。それを聞くことも見ることもできません。味わうこともできません。心が固くなっているためです。

そのため神様は石のような心を取り上げて、肉の心と入れ替えます。肉の心は神様の促しに敏感な心です。神様の心情的な性質を感じることができると言うことができるでしょう。神様の霊的な願望です。神様の最も奥底にある願望です。こういったことが今話している内容です。

14:すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。

それは彼らが律法を作っているという意味ではありません。心の中に書かれているのです。良心を持っています。なぜなら神様のかたちに造られているからです。神様だという意味ではなく、神様のかたちに造られているということです。

15:彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。16:そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。17:もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、

そうしてまた全体の議論の中へと進んでいきます。とても長い章です。割礼の話にまで及びます。割礼を受けているかもしれないが、罪を犯していれば実際は割礼していないことになるという話です。パウロは人々を批判し始めます。

今週食中毒になってそのために訓練をしませんでした。神様が癒してくださって回復し、昨日は練習ができました。しかし我々は神様が新しい入口に導く場所にいます。私たちはローマ2章と全く同じように、この場所にいます。収穫が準備されているその入口にいるのです。お父様の権威の下にある私たちの仲間の内側の神様の霊、神様の火は、あふれる場所に向かっています。個人的な患難があり、そういった全てを克服しなければなりません。悪魔によって私たちに抵抗する物があります。しかし火が起こっているのです。また火があふれようとしています。

韓国メンバーの400、500名の鬨の声(バトルクライ)のビデオを、技術チームはすぐに出してください。クムサンで集まってインターネット経由で約1時間半私も一緒に過ごし、礼拝をしました。火がその場に届きました。鬨の声を見てみましょう。

悪魔を追い出す鬨の声です。同時にそれは自由を宣言します。鬨の声には複数のレベルの意味があります。サタンからの解放を示す強力な例です。その自由とは神様が我々にその主権を有するように与えたものです。私たちが悪の独裁者になれるようにするためではありません。私たちは神様の王国の憲法を広める人になることができます。自由の保護者、守護者です。

(訳注:この後韓国の録画がすぐに準備できないということで、イギリスの教会の鬨の声を視聴しました。)

つづく

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