神の子らよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ-11月4日英語説教(その3)

Sunday Service   November 4  2018   Rev  Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

2018年11月4日 英語説教

翻訳:BAMBOOS

詩篇29篇に行きましょう。

2:神の子らよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。

主に弱さや患難、恐れを帰せとありますか。神様は恐れの霊ではなく、力と愛と健やかな心を与えると言われました。

3:み名の栄光を主に帰せよ、聖なる装いをもって主を拝め。4:主のみ声は水の上にあり、栄光の神は雷をとどろかせ、主は大水の上におられる。

これは創世記にまで遡ります。そこでは神の霊が水の上にあったと言われました。これは全て創世記にまで遡るのです。黙示録22章にまでつながります。黙示録の最終章、1節から見てください。

1:御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、2:都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。3:のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、4:御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。5:夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

ですから彼らはクリスチャンに聖書を読ませたくないのです。また終わりの時に政治的になって欲しくありません。これに触れさせたくありません。キリストの身体(キリスト教教会)が世を継ぐものだということに。自分たちが相続者になりたいのです。彼らはキリストの肢体が世界の相続者だということを知らせたくありません。それは彼らの体制を破滅させます。巨大な競争相手が混合されてしまいます。

「彼らは世々限りなく支配する」。支配、つまりポイマイノ。(羊の)世話をすること。羊飼いのように永遠に支配して守るということです。そうして鉄のつえが必要だということが理解できるのです。キリスト教の主権が始まる時、男性たちと女性たちの心情と精神が燃え立ち、神様のみ言から自分たちが誰であるかを理解します。

諸国は揺さぶられます。なぜなら誰もが自由を許されるからです。しかし、悪を罰することも許します。イエス様は大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込むと言われました。彼らはそれを嫌います。子供と結婚するだって?だめです。イスラムでは子供と結婚できます。それが合法的です。ムハンマドが行ったことです。6歳の少女アイーシャと(結婚しました)。学校では決して教えません。なぜなら資源を管理するのに役立たないからです。

同盟国の1つについて警告されます。著しく異なる文明だと言えば、いやそれは問題だ、ヘイトスピーチだ、と。保守派のラジオでのFCC(米国連邦通信委員会)ルールに基づく検閲。ヒラリー・クリントンとオバマであれば通していたでしょう。彼らが入っていればラジオと電波を規制していたでしょう。今インターネットで驚くほど規制しているように。インフォウォーズのように保守派のラジオや放送を遮断するのです。私たちも検閲されました。

この人たちは全体主義者です。良い人たちではありません。悪い、貪欲な、強欲な、情欲に満ちた悪い人たち。サタンの力を持っています。神様の力ではなく。ですから彼らは王国を恐れます。なぜなら王国は正義を約束するからです。王国は神様の人たちが地上を支配することを約束しています。文化マルクス主義の悪を許しません。みだらな悪を許しません。票のためにみだらさを取引しています。その体制は破綻しています。

神様の王国では2100人ごとに国会議員がいます。2100人に責任が果たせなければ追い出されます。あなたが社会主義者、共産主義者で、シャリア法の国を作りたければ王国から追い出されるでしょう。王にはあなたを追い出す権限があります。

キリスト教が支配的な文化となるでしょう。強制的にではありません。なぜなら自由市場が与えられ、自由が与えられれば道徳的に高められます。イエス様がお手本です。説明が付きます。最終的には勝利されました。途方もない善を作り出しました。しかしそれが理由ではありません。それはキリストの栄光のためです。どれだけたくさん善行を行えるかという競争を、誰かとしているのではありません。神様に喜びを捧げるために善行を行うのです。そのために多くの善行がキリストの身体の中で積み上げられます。人がそれを行うのは価値を見せびらかすためではなく、神様に喜びを捧げるという目的のためです。自然に広がります。

詩篇29に戻りましょう。

5:主のみ声は力があり、主のみ声は威厳がある。

鬨(とき)の声を発する時、それは荒野の中では小さな声のようですが、大きな音になります。なぜなら、ただ叫ぶことよりも大きなものを表しているからです。それが表すのは正しい文明です。来るべき王国を表しています。それが大気の中で反響が一致する理由です。霊的な悪の勢力は感じることができるのです。

誰に分かるでしょうか。国々と、その国々のキリストの身体が鬨の声を上げる時。またどうやって広がるか。もう奴隷とはならず、不義と悪とに立ち向かおうという人々の意志と意図を示しています。そして王国が到来し、天で行われる通り地でも行われるでしょう。悪魔が好き勝手行うのに何もせずにいることはもうなくなります。それは深い愛から来ます。

王妃は自分が聞いたというすばらしい話をしてくれました。ある若い男性の話です。良き兄と弟がいました。両親が早くに亡くなり、兄が弟の面倒を見ました。韓国のとても親しい家族です。韓国で兄が弟を養育したのでとても親しくなるのです。とても緊密でした。

しかしある日、兄はクリスチャンになりました。神様を信じるようになったのです。キリストを自分の人生の中に受け入れました。すると弟は「これはどういうことだ」と言いました。「なぜ私だけを気遣ってくれないのか」と。弟は反抗し始めました。兄は弟のために祈り、教会に連れて行こうとしますが、弟は拒否します。そして酒を飲み始めました。麻薬を始め、女好きたちとつるむようになります。また弟は何カ月も家に帰らなくなりました。

ある日弟が「ドアを開けてくれ」と言ってきます。兄がドアを開けてやると弟は血まみれでした。そして「お兄さん、私はある人を殺しました。捕まえられそうです」と言います。兄は弟の体を洗い、血を落としました。ドアをノックする音がします。警察です。兄が弟の血まみれの服を着て応じると、警察は兄を逮捕して連行しました。

被害者の首や体が切断された、とてもひどい犯罪でした。その人はすぐに死刑判決を受けました。とても恐ろしく、けだもののような犯行だったからです。その兄は死ぬ前に手紙を1通書かせて欲しいと言いました。弟への手紙です。弟はどうにか手紙を受け取りました。手紙の最初の行にはこうありました。「私は君の服を着ていたので死ぬことになります」。

弟は刑務所に行き看守に兄はどこだと尋ねましたが、その日の朝死んだと告げられました。弟は「自分が殺した。自分がやった」と言いますが、看守は、黙れ、もう二度と来るなと言いました。弟はもう一度手紙を開いてみました。1行目には君の服を着ていたので死ぬことになるとありましたが、2行目には「私の服を着て私のように生活しなさい」とあったのです。

そして弟はその瞬間から生活を変えました。自分のために死んだ兄の服を毎日来ました。彼は兄の服を着て、兄のように生活しようと努めました。責任感を持ち、神様を愛し、神様に尽くして。なぜなら、自分の犯した罪が余りにも大きなものだと分かっていましたが、それが償われたからです。自分にそれだけの価値がないのに償われたからです。

それがキリストの愛であり、それが、キリストが私たちにしてくれたことなのです。我々はそのまな板の上にいました。我々はその弟でした。我々がまな板の上にいたのに、彼が血の付いた服を着ました。そして、あなたの服を着たので私は死にます、あなたは私の服を着て私のように生きてください、と手紙を書いたのです。

これがキリストの愛です。そのような愛が、世界が悪者によって取り上げられて欲しくない愛です。諦めません。悪者に奪われるままにはしません。弟を悪に戻らせたくないのです。自分の人生を変えるよう願いました。私の服を着て、私のように生きなさい、と。

弟は毎朝起きると兄の服を着て、昔の友達や売春婦が遊ぼうと言ってきても、君たちのことは知らないと言いました。なぜなら自分は一度死ぬはずだったのに今生きているのだから。かつては盲目だったが今は目が見えるのだから。

それは神様がされることです。神様の愛を理解する時、このようなことが起きます。どんな対価が払われたか知る時、あなたは完全に変わります。罪の中であなたに喜びを与えた友達は、もう喜びを与えることはありません。嫌悪感を起こさせます。しかし彼らが地獄に行けば良いというのではなく、今度は彼らを救いたいと思います。彼らに(悪いことを)やめて、最悪の生活から解放されて欲しいと思います。しかし彼らの選択は尊重します。強制することはできません。人々のために祈ることで忍耐を学びます。人を愛したいと思い、王国に連れて行きたいと思い、王と王妃にしたいと思います。なぜなら彼らに権限を与えたいと願い、彼らが王国を相続するのを助けたいと願うからです。悪を食い止めたいと願います。

我々の中には、自分たちが受けている自由にふさわしい人は誰もいません。全員が血の付いた服を着ていました。そして我々の服を着てくれたのは、神様の偉大な愛であり、キリストの人格です。ですから聖書では、我々はキリストを着なければならない、としています。キリストという服を。我々は彼(キリスト)にはなれないかもしれません。完璧ではありません。しかしその服を着ようと努め、全力を尽くして彼のように生きようと努めます。完璧ではないかもしれません。完璧ではなくても努力します。

おわり

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