2019年5月12日英語説教(1)

「イエスとヤコブの教会」

翻訳:BANBOOS

(前略)

マタイ7章を少しだけ見てみましょう。例となる聖句があります。マタイ7章15節に行きましょう。ここではイエス様が語っておられますが、ヤコブのような話をしておられ、極端なカルバン主義者のようなことは言っておられません。

15:にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。16:あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。17:そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。

我々が真にキリストにあるなら良い実を結ぶはずです。悪い実を結ぶはずがありません。イエス様が実を何にたとえようとされているのかといえば、行動、行いです。

言い換えれば、イエス様に従っているのであれば良い行動も生み出さなければならないということです。それらがあなたを救うのではありません。しかし、それらはあなたという木の成長した自然の産物です。興味深いと思いませんか。

これは信仰義認の教義とは全く異なります。一度救われたらずっと救われるという極端なカルバン主義とは。ひどい実ができたらどうするのでしょうか。主はどうされるのか見てみましょう。

18:良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。19:良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。20:このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。21:わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

「行う」という言葉を聞きましたか。イエス様が言っておられるのは、行動もしなければならないということです。父のみ旨も行わなければならないということです。一度救われたらずっと救われるということではないのです。

信仰だけではありません。信仰は開始点です。それは救われるところであり、サタンの王国から離れるところです。大きなことです。信仰は著しく重要です。しかし、ヤコブの手紙にあるようにそれが全てではありません。行いのない信仰は死んでいます。ヤコブは自分の兄弟であるイェシュア・ハマシア、つまりイエス様の言葉を繰り返しているのです。興味深くないですか。続けましょう。

22:その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。23:そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

つまり良い実を結ぶということはクリスチャンの生活の一部なのです。というのも我々は新しい木となるべきだからです。我々は新しいオリーブの木、新しい命の木に接ぎ木されています。我々は新しい木となって新しい実、良い実を結ぶべきなのです。

私は主に救われたと言って姦淫を犯し、子供を殺し、レイプすることはできません。こうした人たちは左翼であり、救われたクリスチャンだと言おうとしながら、赤ちゃんを殺すことを支持し、小児性愛を合法化してマイナー・アトラクション・シンドロームと呼び、カリフォルニアの小学校ではそれが人の気質だと教えるのです。それは神様の働きではありません。良い木が結んだ実ではありません。なぜそれが共産主義を生み出すでしょうか。なぜ社会主義を生み出すでしょうか。

ですからこうした新しいカルトと新しい運動はみな・・・。そうしたカルトが何を生んでいるかといえば、いつも社会主義を生み出しています。彼らの政治制度を見てください。いつも社会主義を生み出しています。

それが人間の自由の破壊であり、少なくとも人々に対する圧制であるということが分かっています。共産主義の下で最大の大量虐殺がありました。前世紀だけで2億2千万の人々が。世俗的な共産主義。それは狂っています。

しかしお父様の遺産、伝統を見るなら、それは何を生み出しているでしょうか。共産主義や社会主義ではありません。天一国憲法を生み出しているのです。責任感のある市民。武装した市民です。やり方を心得た自立した市民です。実が異なるという話しです。

ところでこれはマタイ5章のすぐ後の話ですが、マタイ5章を手短に見てみましょう。もちろん山上の垂訓です。17節から行きましょう。

17:わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

こうしたこと全て・・・現在の多くの繁栄を目指す教会やメガ・チャーチでは、律法は去ったと言っています。第1コリントの言葉をあれこれ引用するからです。パウロはそう言っていますが、それほど極端ではないのです。

パウロにによる影響もある程度はありますが、現在の大きな教会にいるカルバン主義者や繁栄を教える人たちの一部ほど極端ではありません。

パウロは確かにそれほど極端ではありません。というのもパウロは聖句の中で、改心しなければならないといったように心の割礼について語っているからです。

聖書は触発された神様の言葉です。パウロも神様の教えに触発されていますが、カルバン主義のような信仰義認の極端な教義を教えてはいません。彼は人々を悔い改めさせようとしています。まだ異邦人を改心させようとしています。

体は割礼を受けていないかもしれないが、心は割礼を受けて改心するべきであり、良い働きを生み出すべきだと言っています。

しかしそれは、マルキオンの異端もあって時が経つにつれて堕落していきます。信仰だけ、というのが簡単なのです。「私はイエス様に一度告白しましたのでもうおしまいです」と。

「3歳の時に洗礼を受けて、イエス様の名前で罪を告白しました。それで終わりです。罪深いことを何でもできます。姦淫も人殺しも」。それはおかしなことです。

イエス様は救いを失うこともあるのだとおっしゃられています。ちょうどマタイ7章で読んだことです。火に投げ込まれるのです。興味深くはないでしょうか。

(つづく)

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