神様に歩調を合わせる―キングズレポート・ダイジェスト

Keeping Pace With God

2018年10月30日のキングズレポートより

翻訳:ANNE

皆さんは神を喜ばせるためにどう生きるかを教えられてきましたね。そこでは敵の中に暮らすとあります。
欽定訳聖書テサロニケ人への第一の手紙第4章に素敵な表現でこうあります。「あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。」

生き方についてというと、一定の教えがあるのを知ることができます。ちょうどお母さんから買い物リストをもらい、ただそれに頼ってお使いに行くような感じです。分かりますね。
どうやって生きるのか教えてもらっていたようです。八段階を一段ずつ昇りながら成長するように、もしくは七つの完成数に到達するように、など教えられてきました。

いやいや、どのように神様と共に歩むかについて、果たして教わってきたのでしょうか?それらはとても異なるのです。
ただ生き方を知る、というだけでなく、そんな事は書かれてもいませんが……神に喜びを帰しながら生きる、そう書かれています。それ(知る事)が何か悪いということではありませんが、異なるのです。

新国際版聖書(NIV:New International Version)のあちこちの殆どの箇所で、教義を変えてはいませんが、いくつかの箇所で聖句を完全に省略したり削除して、異端となってしまっています。削除されてしまっていますが、これは非常に悪いことです。何か翻訳するときに文章を取り除くなんてできないことです。わかりますか。全文を訳すべきです。

3,000の受け継がれてきた文書から、たった一行でも削除されたら…どのようにその一行を消せますか?その存在してきた一行一行の文書をいかにして削除できるでしょうか?なんということでしょう!
ずっと綴られてきた、3,000以上の新約聖書の歴史的記録。どうして、翻訳という名の下で取り除かれなければならないのでしょうか?そんなことはできません。あってはならないことです。
それで現在、あの王国(イングランド)では新国際版聖書は冒とく的とされています。

新ジェイムズ王訳(New King James Version)版のような他の翻訳で使われているいくつかの文は、死海文書(しかいもんじょ)のクムラン文書(Qumran)が見つかった後、その中からいくらか引用されていると、私は思います。
*クムラン‐ぶんしょ【クムラン文書】《クムランはqumrān。「クムランもんじょ」とも》「死海文書(しかいもんじょ)」に同じ。死海西岸の遺跡クムランとその付近から発見された。

これらのことが発見されたのはジェイムズ王、1611年以降です。ちょうどその頃、キング・ジェイムス(欽定訳)版が出版されたのは確かです。ですから文書が知られるようになったのはそれ以降になります。それで私は、新ジェームズ王訳版には書かれていると思います。
私は全ての翻訳の中でキング・ジェイムズ版のみが、神様のみ言だという信奉者ではありません。しかし、最も良い翻訳の一つです。
新キング・ジェイムズ訳版はキング・ジェイムズ訳から離れていっていると思います。クムラン文書が発見されたことと、微妙なニュアンスを付け加えられたり等々。

しかし、神様を喜ばせるためにどう生きるか、神様の喜びのためいかに歩むのか、違いがあるのがわかると思います。
あなたがあるべき姿、生き様があらわになります。

神様を喜ばせながら生きると言うとき、聞こえはいいが掴みどころがないようで、ああ、ただじっとしていてもいいような…
しかし、神様を喜ばせるために歩むという発想は、いつでも動ける状態です。ただ快適な暮らしをするだけではなく、出動する準備が整っていなければなりません。理解できていますか?

微妙な違いがありますね。その違いを感じることができますか?
もし、神様と共に歩む方法を知っているなら、常に行動します。動くために準備万端でなければなりません。いつでも方向転換できなければなりません。そうでしょう。
神様を喜ばせる生き方を知りながら、ただ家にとどまり、引っ越しもするが…。言ってる意味が分かりますか?

しかし、もし誰かについて歩くいていくなら、あれちょっと左に片寄りすぎてしまった、ただちに右に戻らなければ。東の果てから西に戻るようにというように、時々神が修正してくださるのが道理にかなっています。左に行き過ぎれば右に行け、右に行き過ぎれば左に行けと。

神はあなたのいく道を導いてくださいます。
過去に起こったしるしをたびたび見逃して、左に逸れていったりしますので。
なぜ神様は時によって全く違うしるしをくださるのか。なぜお父様はあの時とこの時とかけ離れた指示をくださるのだろうかと。
なぜなら、その時点であなたが左に片寄りすぎてしまったので、右に来いと言われるのです。右に行き過ぎた時点で左に来いと。
政治的な話じゃありませんよ。お父様は一度も左翼になったことはありません。歩く方向のことについて話しているのです。わかりますか。

歩くということは精力的なことです。静的なものではありません。
誰かの後に着いていかないとならないということは、疲れるものです。

神様を喜ばせるために、ただよく暮らせと教えられたなら、来る日も来る日も活動して誰かに従う必要もないでしょう。考えてみてください。

皆さんは確かにどなたかのもとについて行っているというとき、踏みしめる道のりで導いてくださる方の指導を心がけて案内に従っていきます。

もしも心に留めることが出来ずよそ見をするならば、行く道からすっかり切り離れるのです。

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