「つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい」(ルカ22:36)-12月24日英語礼拝ポイント④

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 2017/12/24 

「王国の防衛権」 Kingdom Right of Defense

翻訳:BAMBOOS

Vimeo 1:45:21
今度は非常に重要なルカによる福音書22章の逸話です。

35:そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。36:そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。37:あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。38:弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。39:イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。

非常に興味深い逸話です。剣は現代で言えば銃です。世界中のすべてのクリスチャンが完璧な人だと信じている宗教指導者が、弟子たちに銃を持っていなければ上着を売って買いなさいと言っているわけです。その時代を考えると本当に衝撃的な教えです。しかし人間の命という観点から考えると、全く衝撃的ではありません。というのも危険な道に行こうとする人は、自分を守ることができる必要があるからです。これは教会でほとんど教えられることのないキリストの逸話です。

もちろん、ローマの兵隊に襲われたときイエス様は剣をおさめるように言いました。そして、剣をとる者はみな、剣で滅びると言われたではないかと言う人がいるでしょう。しかしその同じキリストが、自分たちには暴力に訴える力があり暴力的な革命ができるが、目的があるので進んで自分を捕えさせるのだと言ったというのは興味深いことです。同じキリストが同時に弟子たちに、自分を守ることができるようにしておくように言ったのです。

するとお父様は剣を壊して鋤と鍬にすると言われたではないかと言う人がいます。それは非武装化の主張だ、民衆の武装を解除しないといけないのだと。聖書にそう書いてあるし真のお父様もそれを引用して、剣を壊して鋤に変えるのだと言われていると。

先日も國進様に質問した人がいました。見事な回答をされていました。つまりそれは経済発展のことを言っているのだということです。神様は少しの武器を与えましたが、それらを経済発展に役立つ農業の道具に変えるようにしたのです。しかし言うまでもなく、最終的に神様はそれらを、国でさえ壊してしまわなければなりません。

興味深いとは思いませんか。最後の部分を言い忘れているというのです。しかし、聖書で全の側と悪の側について言っているのはどうでしょうか。

重要なことは、王国においてすべての男女が平和警察平和軍のメンバーであるという理由です。それを通してより良い人になるのでそれを使うこともなくなります。実際それによってもっと愛のある人間になります。そのような訓練によってもっと保護的な人になります。人を守りたい、守る必要があるということに価値を置くようになり、それを考慮するようになります。

レストランで、入口を気にかけて不審者が入ってきたらどうするかを予め考え、自分が守りの一線にならなければならないと考えているのはあなた一人かもしれません。自分を守ろうという意識を全くもたない人ばかりで、ドアに向けて位置を合わせ何か起きたら行動できるような場所にいるようにしよう、という考えを持つ人間は自分だけかもしれません。

それは悪い心構えでしょうか。君は大きな不安の世界で生きている偏執病だ、と言うでしょうか。人を愛したい、守りたいと思うのは偏執病でしょうか。洪水の起きる場所で生活しているのに非常用の物資を準備しておくのは偏執病でしょうか。車を運転するのにシートベルトをするのは偏執病でしょうか。

問題があります。善良な人々は、悪人や自己中心的な人々に罪悪感を持たせる可能性があります。その人たちの心は、意志が弱く、群衆的な心理を持ち、権力のために何にでも従うものです。善良な人々はそのような形で罪悪感を持つことはありません。

私たちは自分たちの考えが奇妙だとは考えられません。実際私たちは人を助けたいと思っており、先行して考えています。頭の中で誰かと格闘することを思い描いて、2つも3つも先の手を考えているのです。それが身についています。

ですから罪悪感を持つべきではありません。特別な考え方を持っているのです。強力な考え方です。それは現実に基づくものであり、魅惑的でロマンティックな政治家の嘘ではありません。

誰かがあなたに罪悪感を持たせようとするなら、そのたびにシートベルトはしますか、それなら偏執病ですねと言えば良いです。交通事故の死亡率を知っていますかと。あなたは運転するときは特に、不安と恐怖と妄想の中で生きているに違いないですねと。シートベルトをするなんて弱い人ですねと。ばかげています。

私が家にいるときも、また銃の愛好家たちも自宅にいるときに武装し、外出する時にいくつもの武器を重ねて身に着けているのは、何か証明したいとか満足したいとか、最高の父親のような存在から承認を得たいという幼稚な願望を満たそうとしているからではありません。性的な抑圧に対するこの内なる怒りを宇宙に向けて放つ? 黙りなさいというのです。どこかの間抜けが家に押し入るときそんなことは関係ありません。

スクラントンの友達のところであった話です。息子さんが一人で家にいるときに男が裏口から侵入しました。息子さんは銃を持っていませんでしたが訓練を受けていて、クロスボウは持っていました。それを持ってお父さんと狩猟に行っていたのです。男が裏口をドライバーでこじ開けて入ってこようとしていたので、息子さんはクロスボウを持って、奇襲しようとテーブルの後ろに隠れていました。男が入ってくると撃って胸に命中させました。良い息子です。男は逃げてしまいました。12歳ぐらいの子供です。

おばあさんが家で寝ていたら彼が防衛の第一線だったでしょうか。そうです。それは警察や軍の人でしたか。いいえ、12歳の少年だったのです。お父さんから狩猟のレッスンを受けてクロスボウの撃ち方を学んでいました。その少年は今、統合格闘技とブラジリアン柔術を習っています。そういう経験をしたからです。将来は銃を見えないように携帯する許可なども持つようになるでしょう。あなたと私が防衛の第一線です。

プレガーユニバーシティの合衆国憲法修正第二条(市民の武装の権利)に関する動画を見てください。10分ぐらいのものですので、ここでは上映しませんがあとから自分で見てください。主旨が分かります。

王国において自己防衛の権利は、単なる権利ではありません。それは責任であり生活様式であり、崇拝のあり方です。神様を愛し隣人を愛するのです。自己防衛の権利、その権利を練習し訓練することは、実際の宗教的な崇拝の行為ではありません。神様がそのような立場に立つことを願われたときに備えて強くなるために訓練することです。そのような生活様式は宗教的な権利です。お父様に喜びを捧げることです。子供が強くなってオオカミに食べられないようになるのを見て喜ばれるのです。喜びをもたらします。対象的な相対を創造された目的は何ですか。

このクリスマスの日に、クリスマスイブに。みなさん忘れないでください。王国を引き継ぐ者たち。私たちには権利があり、義務があり、責任があります。そのすべてがあります。しかしまた、神様を愛し隣人を愛する愛を心に持つべきです。言葉だけではなく実行し、実証となる生活をするのです。その生活が現実の生活で行う準備となります。他の人がそういう生活をすることを願うのではなく、自分がやるのです。それはすばらしい世界です。

天聖経120
神様は、生命の母体です。父母は、その子供の生命を育ててくれるという のです。生命の母体であり、愛の母体であり、保護の母体です。生命を保護してくれ、育ててくれ、愛してくれるというのです。
それゆえ、幸福はどこから出てくるのでしょうか。保護圏が成立しなければ、命が危機にさらされるのです。命が危機にさらされると、愛も成立しないのです。

私たちにはとてもすばらしい責任があります。みなさんと訓練を受けるのが大好きです。みなさんとこのような文化と生活に加わることが大好きです。それを実行しているからです。これが王国の生活です。それが搾取者に恐怖を与えます。若者には力を与えます。強く、誇りある、忍耐強い、愛のある人々になるように。

ローマ人への手紙5章には「患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」とあります。それゆえ私たちは平和警察平和軍の訓練を行います。それゆえそのような生活をします。自慢できるなどということのためではなく、神様を愛し隣人を愛することができるようになるためです。私たちにとって神様を愛し隣人を愛するキリストの肢体における力がすべてです。
おわり

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