2016年9月11日 説教「近接する王国」【英語説教日本語訳】(全文)

Kingdom Proximity   September 11  2016   Rev. Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

 

「近接する王国」 Kingdom proximity 全文

 

世界のサンクチュアリ教会に伝えておきたいことがあります。私たちが若者たちを鍛え「平和警察」「平和軍」の訓練をしていることはご存知でしょう。強くあってこそ平和は保たれます。弱ければ平和を保つことはできません。痛めつけられるだけです。力をもって向かってくる相手に対して弱ければ平和をもたらすことはできません。さもないと痛めつけられ支配されるだけです。

若者たちとトレーニングするとき、かなり危険なこともしています。ブラジル柔術、これは真剣勝負です。それにレスリングと総合格闘技。ムエタイ、キックボクシング。初めてキックボクシングをしたという人もいるでしょう。エピジェネティックを解除しましたね!これまで体験したスポーツとは全く異なるものでしょう。スポーツではなく格闘ですから。闘うときは恐怖を感じます。相手と戦うとき怖れを感じるということです。相当な恐怖です。余計なことを考える暇がない分にはいいのですが、試合まで待たされる時間が長いと余計に恐怖がつのります。社会的な諸般の事情でスポーツとされていますが格闘技はスポーツではありません。真剣な闘いです。

そのような闘いにおいては偽ることができません。私が若い時から格闘技を愛した理由の一つはこれです。最初、統一武道という跆拳道(テコンドー)と柔道を総合したものを習ったのですが、青帯をとったのちに何か物足りなさを感じました。なぜなら組手をするとき相手の頭をパンチやひじうち、蹴りなどの攻撃をしてはならず、頭をつかんで膝蹴りすることも禁じられていました。攻撃が許されているのは胸から腹にかけての部分で、そこから下も蹴ってはいけなかったのです。まやかしです。

生死をかけた闘いにおいて「ちょっとまって、腰から下は攻撃してはいけない」などといいますか。誰がそれを聞くかというのです。今になって分かるのですが、神様は格闘技を愛するように導かれました。ブルースリーに夢中になり、髪型も真似してカンフーの衣装を身に着けていました。(笑)学校では皆から「ブルース」と呼ばれていました。当時、黒人やラテン系の友達が多かったのですが彼らもカンフー映画を見て夢中になっていました。

だからそれがまやかしだと悟ってから本格的な格闘技を学びました。ブルースリーの哲学も学んだのです。それは本当に効果的な攻撃を追求するというものでした。効果のないものは捨てて真に効果的なもののみを身に付ける。彼は截拳道(ジークンドー)を考案しました。私はそこからブラジル柔術につながったのでした。なぜなら截拳道だけがブラジル柔術を取り入れていたからです。他の武道は宗教のように型にはまり解放的ではなかったのです。現実の格闘、リアルな格闘を追求していなかったのです。空手、カンフー、テコンドーなど、ただ自分たちが一番だといっているだけです。90年代にUFC(訳注:Ultimate Fighting Championship・アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ、略称UFCは、アメリカ合衆国の総合格闘技団体)が始まりましたがその前にグレイシー一族(ブラジルの柔術家一族)が自分達と闘いたいものは誰とでも対戦するという宣言をしました。カンフーの達人であれテコンドーの名手であれ自分たちは闘うというのです。ルールはだだ、噛みつくこと、眼を突くことを禁じるだけです。他は何をしてもいいということです。この十年、グレイシー一族は世界のトップの格闘家、そのほとんどと対戦しました。

初期の試合を思い起こせば、対戦相手は柔道、レスリング、オリンピック・レスリング、空手、極真会館、ムエタイ(タイ式キックボクシング)の世界チャンピオンなど多岐にわたっていました。それぞれが自分が一番強いといっていたのです。そのすべてを一人の男が倒しました。彼は決して見栄えのする筋肉の持ち主ではなく、やせた小柄なブラジル人でした。その男が他のすべての大男を倒したのでした。今それは映画にもなっています。彼の名はホイス・グレイシーといって、今も柔術を教えています。私も彼の兄弟と練習したことがあります。

彼によって格闘技の世界は大きく変わりました。格闘技は現実を突き付けられました。寝技(グランド・ファイティング)の効果を知らなかったのです。93%が寝技で勝負がつきます。だから一緒にトレーニングしている若者にも聞いてほしいのですが、好むと好まざるとにかかわらず「寝技こそが鍵」だというのです。立ち技の世界チャンピオンになったところで寝技に持ち込まれたら殺されるのです。

若いころから真実を追求してきました。格闘家の規律とともにその真実を追求するのです。そこから真の格闘につながります。しかし問題になるでしょう。なぜならこうした格闘技は表に出ないアンダーグラウンドな世界ですから。ブラジル柔術の道場はファイトクラブです。闘う場所で、型を学ぶところではありません。

国進兄さんも榮進兄さんも習ったのですが、レバレント・ムーンの息子たちがファイトクラブに通っているというのは問題になるのです。私たちは隠れて習っていました。当時はいまほど有名ではなかったのです。テレビ放映もない時です。

私がそのような訓練をしていることを知らずに私に会えば、普通の優しそうな人間に見えるかも知れません。私は他人を脅すようなこともしません。だから周りの人は気づきません。ところがお父様の命令で直接、身近に接するようになって、お父様にはそれを隠せなかったのです。あまりにもお父様、王の王の近くで生活しているのですべてはあからさまになるのです。もう隠せません。何に強い関心を抱いているか、神様はこれまでどういう導きをされてきたのか、そういうものが明らかになるのです。お父様の近くで侍っている時に現れたのです。

このように導かれたのはいつの頃からだったでしょう。神様が導かれました。15歳から宗教や至高の真理を求めてきました。最終的にそのすべては相対主義的なもので装いだけが異なっていることを悟りました。そしてキリストの理解に戻り、生きたキリストとの関係に戻りました。その結果、神様が私に与えられた賜物を公に認めることになったのです。

私の子供たちも普段は優しい父親が、こと格闘技の場になると仮に手加減したとしても私の意のままになるのです。これは本当のことです。おごり高ぶっているわけではありません。

この格闘の科学を追求する小さな群れは世界的に拡大しているとはいえまだまだ小さなものです。

お父様のおそばにいることで自分の中の格闘技の世界を受容し解放することができました。お父様はその世界を愛されただけにとどまらず世界に拡散せよ、教えよと私に命じられたのです。そこで(ブラジルから)フランシスコを呼びトレーニングパートナーとしました。またUFCの選手であるヤン・ドンギとも練習をしました。ところでヤン・ドンギが近いうちにトレーニングパートナーを連れてここにやってます。10月下旬です。心の準備をしておいてください。

先週、私の先生のジョジョが茶帯昇級を認定してくれたとき、私が家に帰ってカバンの中から(これまで使っていた)紫帯を取り出し、「もうこれは卒業だ」というと、一番下の息子が「じゃあ僕がそれを使ってもいい?」と言い出しました。私は「そんなことを言っては駄目だよ。この世界でそんなことをすると、勝負したいという人間がやってくることになる」冗談を言っているのではありません。なぜならこの世界の人々は紫帯や茶帯をとるためにはどれほどトレーニングをしなければならないかを知っているからです。誰かがとったと聞けば本当にその帯に値するのか闘って確かめようとするからです。追いかけてきますよ。

あなたも茶帯ですか、私も同じです、ではよろしく。そのような世界ではありません。実際、勝負を迫ってくるというのです。本当に強いのか確かめるために。

だから私は皆にこういうのです。「自分の実力以上に見せかけることは決してしてはならない、そんなことをすればこの(格闘技の)世界で傲慢ととられ憎まれるのだ。彼らは本当に熱心に鍛錬しているからだ。何度も負けを経験して訓練を続け、自分の実力の階級を熟知しているのだ。そのような人を侮辱するようなことがあれば、追いかけまわされる。」

そして偽っている相手を打ち負かしてその様子をインターネットで公開する(笑)
冗談ではありません。実際、にせの黒帯相手に勝負を迫り打ちのめす様子をインターネット上にアップして「こいつは偽物だ」と証明しているのです。だからこの世界で実力を偽るのは禁物です。

私たちが若者とこの訓練をしていることを皆さん知っています。その中で彼らは様々な問題と向き合うことになるのですが、色々な錯覚や幻想を最初はもっています。しかし実際、トレーニングに参加して現実を知るとき、自分の真の力を知るとき、自分より強い者の前にどうしようもない無力さを実感するとき、すべての自分に抱く幻想は崩壊するのです。間違いなくそういう場面に直面するのです。ドラゴンボールのスーパーサイヤ人を見て錯覚を抱いていても無駄です。ゲームのストリートファイトでどれほど上達しても関係ないのです。自分の実力がそのまま明らかになるということです。青年達、私は嘘を言っていますか?嘘ではありません。

世界からますます多くの若者がトレーニングをしにここにやって来ます。また冬にも修錬会を開きますね。どんどん世界中からやって来ます。ここでこれから来るトレーニング生のためにも率直な証をしてもらいましょう。いかに神様がその試練を通して強めて下さったのか。

リョー・タシロ の証
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(亨進ニム)彼は素晴らしいポイントを指摘しました。「動物的本能をコントロールする」ということについて指摘していました。誘惑と戦うときいかにそれが重要でしょうか。サタンはその肉的本能を刺激してきます。それを霊的力を持って戦わなければなりません。肉体的訓練は同時に、強く純粋で、戦士の精神を涵養(かんよう)するための霊的筋肉も動かしているということです。ではもう一人、証をお願いしましょう。

クリスティーナ証
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さて、(天一国の)王妃も黙って傍(かたわ)らで座って「子供たち、しっかり鍛錬しなさい」と檄(げき)をとばしているだけではありません。彼女も練習に参加し汗をかいているのです。本当に全身あざだらけです。相手を絞めたり絞められたりしているというのです。キックボクシングをしているところを見た人もいるでしょう。他の女の子から顔にパンチを受けたり、頭にキックを受けたりしています。もちろん反撃もします(笑)。
恐れに挑んでいるのです。ここで王妃にも神様の導きについて証をしてもらいましょう。

ヨナニムの証

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今朝、柔術の練習について証をするよう願われました。「じゃあ準備させて」と言ったのですが、「自然でいいよ」といわれました。でも何か準備しなければなりません。私は御存じのように美術工芸を学びました。私はおとなしくて引っ込み思案なほうで、読書などを楽しむ人間です。どちらかといえば静寂を好みます。キャンバスは打ち返したり首を絞めたりしません。だから私にとって大きな挑戦でした。人は冗談だと思うかもしれませんが文字通り体がすくんでしまいました。

亨進ニムも言いました。「女性は普通このような訓練を好まない。それより映画でチャーリーズエンジェルを見て、強くなった気がする方を好む」。まさに私がそうでした。本当に震えが止まらなかったのです。「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」というテモテ第二の手紙1章7節をくりかえしていました。朝起きてから不安になればそれを唱え、柔術が始まる7時が迫ってくる時には50回はそれを唱えたと思います。

柔術の練習は火曜日にあるのですが、日曜になるともう不安が始まります。トレーニングのことを思うと眠れなくなるほどです。私が青あざだらけだと亨進ニムはおっしゃいましたが、人より一生懸命トレーニングしているというよりもあざができやすい体質だと思います。

驚くべき体験でした。私自身を振り返った時、自分を謙遜にしてくれたと思います。実際、型を習うのではなしに、じかに戦うので自分のレベルが分かります。ある日は自分が相手を降参させてもまた別の日には自分が降参してしまいます。私の相手は12歳から14歳という若い人で動きがとても早く、いつも降参させられます。今そこでビデオをとっている息子が有り難いことにいろいろアドバイスしてくれるのです。そして一緒に練習してくれます。母と子のきずなが深まります。私が質問すると息子がその技を教えてくれます。
お父様が本当にブラジル柔術を愛しておられたことを知っているのでいつか必ず黒帯を取りたいと思います。以前絞め技を一つだけ亨進ニムから習っていたのですが、それを見たお父様の喜ぶお顔を皆さんにお見せしたかったです。

亨進ニムはお父様に、「妻にさせないで下さい」というのですが、訓読会中でも突然「おまえ!次はおまえ!」と参加者を指名されて、「ヨナ!この者を絞めてみなさい」とおっしゃるのです。私は「ああ、この脂ぎった韓国人幹部に絞め技をかけるなんていやだ」と思ったのですが…(笑)。

ところがお父様はとても楽しそうで、その表情をお見せしたいくらいです。お父様も一番の楽しみであるかのようでした。だから私が黒帯をとるなら、きっと誇りに思ってくださるでしょう。

最後に一つ言っておきたいことがあります。女の子にこういうものを習わせると男まさりになってしまうのではと心配する両親がいますが決してそうではありません。練習では偽りではない本当の自分のレベルがわかるので夫に対する敬意も生まれます。頭の中で想像していた幻想は消える結果、夫や息子たちに対して敬う思いが生じます。ありがとうございます。

【ヨナニムの証終わり】

真実を追い求めるのは素晴らしいことです。私が柔術を好む理由もそこにあります。幻想の入りこむ隙がありません。自分の現実を知らなければなりません。対戦相手を偽ることはできません。また「負けたらどうしよう」「恥をかきたくない」などという思いを克服しなければならないのです。なぜならそれはあからさまになるからです。

私が先生のジョジョと対戦するとき、私が降参したり、先生が降参するときもありましたね。隠し立てできないのです。誰かがビデオ撮りしているでしょう。またそれをインターネットにアップされることもあります。それを超えていかなければなりません。本当に恵みです。

こうしてここでまた若者たちと宣教活動できることは本当に恵まれていると、個人的にも大きな霊的喜びを感じています。王宮にいたときと大きな違いです。あの頃は責任も多く、世界中飛び回っていました。お父様に代わって成すべきことが多くあったので、いつもは私とトレーニングしているフランシスコに子供たちを鍛えてくれるように頼んでいました。

神様の業は信じる者にとってすべてよい方向に働きます。私たちは(お父様聖和という)艱難のときに際しても固く神様に立っていたので、今おもえば、神様はその機会を神の国創建の開始としておられたのだとわかります。近接する王国、すぐそばにある王国です。

若者たちが私と練習するときそれはただ練習しているのではなく王の王からの王統、王権と一緒にトレーニングしているのです。それは単にブラジル柔術、総合格闘技を学んでいるのではなく、王の王についての学びであるということです。

お父様の近くにいた期間、お父様にはその種をもつ子供が多くいますが、お父様を代表するその王統を選んだということが分かります。ルカ10章でイエス様はこういいます。

あなたがたに聞き従う者は、わたしに聞き従うのであり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。そしてわたしを拒む者は、わたしをおつかわしになったかたを拒むのである。
ルカ10:16

すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません
ルカ10:22

若者たちに理解してほしいことは、皆さんは他の指導者について別の格闘技を習うこともできます。しかしそこを通しては真のお父様を知ることはできないということです。王の王と絆を結ぶことができません。キリストに結びつくことができないというのです。

ここは重要です。これからいうことは私を誇るためではありません。皆さんも知っているようにこの位置は私が望んだものではありません。私が願ったわけでも試みたわけでもないのです。お父様御自身が私を選ばれたのです。私が任命したのではありません。お父様が私を任命されたのです。すなわちお父様がこうすることを命じられたのです。

私と訓練することはお父様と訓練することなのです。高ぶってこう言うのではありません。お父様の代身者として、お父様の選びとしてこう言うのです。私が選んだのではありません。国進兄さんは私(亨進ニム)は「黄金製の檻(おり)」の中に住んでいると表現します。王の役割は偉大なものだが実際は檻の中で暮らしているも同然という意味です。だから私はMMAが好きなのでしょうか(笑)。
MMAの試合を黄金の檻の中ですることを想像してみて下さい(笑)。

私が若者たちをトレーニングします。新しい人、あるいは自分の子供をトレーニングしてほしいと世界中から親がやって来ます。それは私が偉大であるからではなくお父様がすでに選ばれた後継者であるからです。私を地上のお父様の代身として選ばれました。その事実から私は逃げることができません。そのようなことをすれば呪いを受けるでしょう。そこら辺にある石も私と家族を呪うことでしょう。これは今まで共に歩んできた皆さんも同意して下さるでしょう。

ルカ10章を見てください。王国がテーマです。

ルカ10章1~12節
10:1その後、主は別に七十二人を選び、行こうとしておられたすべての町や村へ、ふたりずつ先におつかわしになった。 10:2そのとき、彼らに言われた「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。 10:3さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである。 10:4財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな。 10:5どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。 10:6もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来るであろう。 10:7それで、その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。働き人がその報いを得るのは当然である。家から家へと渡り歩くな。 10:8どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えてくれるなら、前に出されるものを食べなさい。 10:9そして、その町にいる病人をいやしてやり、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。 10:10しかし、どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えない場合には、大通りに出て行って言いなさい、 10:11『わたしたちの足についているこの町のちりも、ぬぐい捨てて行く。しかし、神の国が近づいたことは、承知しているがよい』。 10:12あなたがたに言っておく。その日には、この町よりもソドムの方が耐えやすいであろう。

「子羊をおおかみの中に送るようなものである」この世界に平和をもたらすためには弱ければ不可能です。神様の保護のもとにある子羊は強い羊です。その羊をまもる羊飼いは普通の羊飼いではありません。王が羊飼いだというのです。

黙示録にはその同じ羊の群れがサタンの王国を滅ぼす様子が描かれています。徹底的に滅
ぼすのです。闘志の精神をもった羊です。力強い羊。

「どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えてくれるなら、前に出されるものを食べなさい。そして、その町にいる病人をいやしてやり、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えない場合には、大通りに出て行って言いなさい、『わたしたちの足についているこの町のちりも、ぬぐい捨てて行く。しかし、神の国が近づいたことは、承知しているがよい』」。

ここで神様と王の王を否定するものに対する警告とそれを受け入れる弟子に対する言葉を見て下さい。どちらに対してもイエス様は「神の国は近づいた」といっています。

否定する者達にも、足のチリをぬぐい捨てながらも「神の国は近づいたことを承知しているがよい」とおっしゃっているのです。

ここは興味深いところです。
否定するものにも受け入れる者にたいしても同じことをおっしゃっています。

若者が受ける訓練が大きな意味があることと関連しています。証をしたひとすべてに共通する言葉がありました。それは「謙遜になる」ということです。現実を離れたところに住むことはできないということです。神様が与えられた十戒も柔術と共通するところがあります。十戒は柔術の達人のようです。

どんなに善人になったと思ったとしても十戒という神様の戒めに照らし合わせる時地獄に行くしかありません。私たちは嘘をつき、盗みを犯し、神様を冒涜しますし淫らな思いで人を見ます。十戒を見るとき神様から遠く離れた自分を見るのです。そこで現実が突きつけられます。

ここで闘士の世界と霊的闘いの世界との共通点が現れます。霊的世界では(サタンという)幻の父が存在します。それは嘘つきで、皆を迷いの中に閉じ込めます。否定的な言葉だけではなくときには肯定的な言葉をもちいて迷わせるというのです。こう考えたことのある人はいますか?

耳に巧みにささやき、嘘で満たし自己崇拝に巧みに導きます。真剣勝負の格闘は霊的真剣勝負に役立つことが多いのです。

スーパーサイヤ人の達人のように強力な十戒のまえでは、いかにもがいても「降参」するほかありません。「降参」です「降参」。十戒の前では私たちの罪が明らかにされ神様からどれほど離れているかが示されるからです。横の人間とくらべて善人だと思っても神様のレベルから程遠いというのです。

例えば誰かと練習していて自分の方が比較的強いと思ったとして格闘技の世界に入って行けますか。基準が分からないのです。比較の相手が間違っているというのです。超エリート格闘家、UFCのヘビー級チャンピオンと比べてみなさい。私は生涯、格闘技を続けるつもりですが彼らと戦いたくはないですね。殺されてしまいます。私は愚か者ではありません。
彼らはそれほど強いのです。誰も闘いたくないでしょう。

真理を追究するとき、心身統一のための訓練など様々な肉体的訓練を試みます。同時に霊的闘いの原則を学ばなければなりません。キリストと共に行く者にキリストは幸せな生活を保障しません。むしろ、嘲りと軽蔑、そして憎しみと十字架、迫害が避けられないというのです。

神様の愛なしにそれらにどう耐えるというのでしょうか。谷底において徹底的に打ちのめされ、子供にでも倒されそうな気がするとき、自分の力で立ち直ろうとしても限界があります。神様の言葉に立ち戻らなければなりません。神様はこうおっしゃっています。

「たとえ、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はあなたともにいる」

「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています」               (詩編23編)

若者たち、いいですか。レベルの高い者たちはジョジョ先生とともに闘いに行くからです。闘いに出るときこういう姿勢を保たなければなりません。神様は敵の前で食事を整えて下さいます。

ひとたび相手を倒したときは抱き合って、健闘を称えるのです。もし負ければ歯がみをし悔し涙を流して直ちにトレーニングを再開するのです。

サタンはどっちでも同じだなどと幻想を抱かせようとします。近頃、バイス・チャンネルが制作したあるドキュメンタリーを見ました。タイトルは「神の売春婦(Prostitutes of God)」です。そこでインドのヒンドゥー教の伝統を取り上げていました。もちろん異端です。宗教学の世界では相対主義的にすべて対等に取り上げ、それぞれに敬意を払うようにといいます。しかしそんなことはできないのです。どれかは正しく、他のものは悪なのです。

これは明らかに「悪」です。デバダシ(ヒンドゥー教の神に使える巫女)はカルト宗教です。この写真の緑のブレスレットをつけた幼い少女は子供の売春婦です。女神のイェレマが好むという理由でそうなったのです。両親は自分たちの信心深さゆえに自分の娘を神にささげたと思っています。イェレマは悪魔、サタンの女神です。悪魔崇拝の一つです。子供を売るために宗教上の理由を与えるのです。そして(少女は)神殿娼婦になります。何やら儀式を行って少女に暴行を加えます。こんなに幼い少女です。

このドキュメンタリ-を見て下さい。いわゆる西洋白人文化のリベラルな教養を備えているであろう女性ナレーターですが、児童売買に反対しているのですが相対主義であるがゆえにどうしようもありません。「これが悪だ」と言い切るための思想的背景を何も持っていないのです。すべての道は神に通ずるという考えなのです。そのような考えであなたは悪いだとかその道徳はあの道徳よりにまさっているなどとどうしていえるでしょうか

矛盾しているのです。一方で(宗教儀式に)客観的立場に立ち相対主義的理解を示しながら、他方で児童売買を攻撃する。では児童売買が合法化されたらどうするのでしょうか。これが悪であると主張する道徳的背景を失います。むしろこのような行いを禁止するキリスト教のほうが「悪の勢力」とされかねません。児童売買ですよ。児童を売春宿に売り飛ばすのです。男はこれら少女を買い暴行するのです。それがお金が絡む現実です!そしてこの西洋のナレーター、番組制作者はそれを(結果的に)促進しているのです。

すべて宗教の名のもとに行っています。どの宗教でも最終的には神に至るといいながら。

そんなことは決してありません!

一方は地獄、一方は天国なのです。いえ、神様は私が生命の道だといわれたので他はすべて地獄行きです。道はただ一つです。キリストこそ永遠の生命に至る道です。

そしてこの瞬間も女神イェレマはインドで幼い少女を性売買に引き込んでいるのです。そして娘を捧げた両親は讃美され僧侶の位置を与えられます。

神殿娼婦の制度はインドだけで行われているのではありません。ギリシャ・ローマ時代からあるのです。白人も行ってきたのです。ひとたび唯一神から逸脱すると、母は母神となりその子供は子供の神にならざるを得ないのです。すべてが神からでたものになり、神殿娼婦が登場するということです。避けようがありません。
政治権力、経済的権力を得るためにセックス、性の売買を利用するのです。

唯一神信仰から離れ二神教に入った時点でそれは「死」です。そして多神教に陥るのです。韓オモニはそれによってバビロンの門を開きました。バビロンの淫婦になったというのです。これは真実です。だから私が話さなければならないのです。韓オモニは自己崇拝と偶像崇拝に至る門を開いたのです。

格闘技を通して皆、謙遜になります。一日たりとて謙遜にならない日はないのです。確かに私がトレーニングするとき軽く相手をしても若者たちを全員負かすことができます。しかしそれによって私が驕慢になることはありません。ジョジョ先生や強い人が来るやいなや私は「参った」と言わざるを得ないからです。負けを認めなければ死んでしまうでしょう。
どのレベルであっても謙遜にならざるを得ないということです。

霊的闘争においても同じことが言えるのではありませんか。

「お父様、私は50年以上お父様にお仕えしてきましたので謙遜にはなれません」

そのようなことが言えるのかというのです。
これが36家庭の問題です。
彼らはお父様に50年以上侍ってきたといいます。

「私たちは罪を犯さない」?
お父様の冒涜の片棒を担いだではないか。
とてつもない罪だというのです。
彼らは現実を見て謙遜になることができません。

「元老」であること、「先輩家庭」であることに慣れきってしまったのです。
自分たちは不可侵、不可謬(正しく決して誤ることがない)という感覚にとらわれています。

幹部たちは最初、韓オモニも「不可謬」だと言っていました、しかしオモニに矛盾するおこないが噴出して今はもうそういうことは言いません。

何より、お父様が相続者に与えたこの(統一)運動をすべて盗み去ったのです。今、崩壊しつつあります。それを今再建しているのです。

人はお父様は12人(以上)の子女をもうけられたがそれぞれがお父様の道を行っている。それは違います。お父様が信頼して任命した子女とそうではない子女に分かれるのです。お父様が「この者がわたしの後継者であり私の遺(のこ)す模範だ」といわれた子女と「私の遺す模範ではない」とされた子女に分かれるのです。

お父様の血統を継ぐものではあっても王統を継ぐものではないということです。これが現実です。イエス様は「私を拒む者は父を拒むのである」といわれました。これが今起きているというのです。
家庭連合がお父様が選んだ私を拒んだことで、彼らはお父様を拒んだのです。お父様を拒んだ結果サタンに侵入され破壊されるのです。私が立派で偉大だからではありません。お父様の祝福が私に注がれたからです。お父様が私の中に住まわれるからです。私はお父様の代身者です。こういって私がどうこうするのではなく、お父様の任命にふさわしい者になりたいと努力しているのです。私が望んだ立場ではありません、お父様の望まれたものだからです。

敵と戦うとき自分を知らなければなりません。自分を探って知るのではなくより深く神様をたずねることで自分を知るのです。神様をより深く知るとき自分をより知るのです。柔術を深く修行することで自分をより知るようになるのと同じです。柔術は神ではありません。たとえとして用いています。真実を知るほど自分を知るのです。

より練習を重ねることでより謙遜になるということです。霊的にも同じことがいえます。密接に関係しているのです。真理をより深く追い求めるとき、キリスト、イエス様、真のお父様との結びつきが深まるというのです。そして関係性が深まることで自分のことも深く知ることができるのです。これは重要なことです。

(格闘技の)アリーナにいくと圧倒的な恐怖に襲われます。互いに闘う闘士が一堂に集まっているのです。ものすごい恐怖の力に圧倒されるのです。自分の力だけで超えるのは無理です。自分を知らなければなりません。神にある自分に立たなければなりません。神様に栄光をお返しすることが目的です。試合に勝ってあのベルトをとる、あのトロフィーをとる、それは自意識を拡大させるだけです。神様に喜びをお返しする、それを目的とするのです。

ある人はプレッシャーでつぶれそうになります。このトロフィーをとろう、この位置を防衛しようなどと。このような考えではプレッシャーの重さで麻痺してつぶされてしまいます。精神的な葛藤が起こります。巨大なプレッシャーを押し返して世界に自分が何者であるか見せなければなりません。罠にはまってはいけません。

いいですか。何があろうと神の栄光のためです。このプレッシャーを通して神の栄光のために強くなるというのです。これで真の力を得ることができるのです。世間のごたごたはあなたを悩ますことはもはやありません。サタンからのストレスに悩まされることはないというのです。そしてやるべきことに集中するのです。

そして結果が良くても悪くても、神に栄光を返すことに変わりがないのです。勝利を得るのです。このことがどれほど重要かわかりますか。
若者たち、試合に行く前によくこのことを頭に入れておかなければなりません。夜と昼ほどの違いがあります。「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう」(マタイ11章28節)

この世の重荷が襲ってくる。このトーナメントで勝たなければ。勝ったら勝ったで今度は防衛しなければならない。獲物を狙う者たちが後を狙っています。鏡を見て「私はできる」「私はできる」と自分を励ましますか。そんな自己崇拝をしたところで負けるのがおちです。

すべて解き放ちなさい!神をたずねなさい。闘いの目的を自分の栄光に置かず、天で見ておられるお父様に喜びを捧げることを目的としなさい。

韓国にいたときのことです。大きな総合格闘技の大会に出場するためにチームを編成したことがあります。その試合でフランシスコが韓国の選手と戦いました。激しい試合でした。2ラウンド戦った時、フランシスコも相手から一度ダウンを奪ったのですが、復活した相手に壁に追い詰められて、頭を抱えられて激しい膝蹴りを受けました。顔を切り、膝をついてこらえましたがついにダウンしました。すぐに病院に運びました。

息子たちも幼かったですが、信萬と信八は覚えているでしょう。顔を幾針も縫ったのちに天正宮に戻りました。そしてお父様にお会いしたのです。お父様は試合こそ見ておられませんでしたが試合の様子はお聞きになっておられました。訓読室につづく大理石の廊下でお父様とお会いしたのですが、お父様に試合の様子を説明しました。それを聞いたお父様は一言おっしゃいました。

「大丈夫だ。おまえは負けていない」

フランシスコは顔をあげることができず「お父様、申し訳ありません」をくりかえしていました。「お父様をがっかりさせてしまいました」。それを聞いたお父様は

「いや、おまえは負けていない」

とおっしゃったのです。お父様は試合に出たフランシスコの勇気を認めておられたのです。フランシスコは試合に勝ってどうこうしたいという思いでなく、ただお父様の誇りとなりたいと思っていたからです。これは生きた模範です。

私達が訓練して試合会場に行くとき私たちは訓練された殺人者です(笑)。
(フランシスコと)同じ気持ちで向かわなければなりません。闘志の精神で出ていって、お父様を喜ばせるために闘うという心構えです。真のお父様もイエス様も見ておられることでしょう。これは霊的闘いでもあるのです。人間同士の闘いであるばかりでなく、地上の闇を支配する勢力との闘いです。そういう心構えで臨まなければなりません。そうすることで力を得るのです。

もちろんこれで恐怖が簡単に無くなるわけではありません。恐怖と戦い、怪我をして傷つきながら前進しなければなりません。目的が正しいものであれば力を得ることができます。

何ものも自分を引きずり下ろすことはできません。重荷から解放されるでしょう。私の話した内容は試合にエントリーすれば皆さんに現実味をもって迫ってくることでしょう。NINJA(チーム名)の名にふさわしい者になってください。

唯一神から二神教に移行するとすべてが破壊されます。偽りの教えに転落です。だからこそ真実を追求することが善き事なのです。真理は一つ以上存在するものでは決してありません。ただ一つが真理であるというのです。3+3はいくつですか。多くの答えがありますか。3+3は6、2+2は4です。学校の先生も相対主義者であっても答えは同じです。「よく頑張って考えたので(それも正解で良い)…」などといっていると首を絞められるというのです。

これはギリシャ・ローマ時代、美の女神アフロディーテよ、われらに愛を与えたまえなどといいながら、少女を娼婦として売買する様子を描いた絵です。ひとたび唯一神とその十戒から離れると、このようなサタン主義におちいるということです。人身売買、性奴隷売買のすべてが宗教の名のもとに行われるのです。私たちは宗教を求めていません、神様との関係性を求めているのです。

ルカ10章
10:13わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちの中でなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰の中にすわって、悔い改めたであろう。 10:14しかし、さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。 10:15ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。

イエス様は「地獄に行く」といっているのです。「よく頑張ったけれど残念だね」という言い方はされません。

神様の道徳は「神を愛し隣人を愛せよ」です。人類を愛さなければなりません。(インドの)テバダシの少女も不可触民ではなく悪なるサタンの業から救い出さなければならない神の子であるということです。ドキュメンタリーの中でこの少女が町に服を買いに出かけるところがあります。少女を地面に座らせて店の女性がその少女の方を見ることなく次々に服を投げるように放り出して見せる場面があります。カーストの階級が異なるのです。このような制度を神様がつくられたと思いますか。サタンのつくったものだというのです。

10:20しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。

イエス様は悪霊を追い出すことができたことを喜ぶな、むしろ私との関係性について喜びなさい、とおっしゃいました。悪霊を追い出したお方は誰ですか。イエス様ではないですか。

ステファン・モリニュー(Stefan Molyneux)という自由主義者の無神論者がいます。トップクラスの哲学者で何百万人という人がインターネットを通して彼の話を聞いています。その彼がいまたいへん葛藤しています。2・3日前アップされたビデオの中で彼は泣きながら自分の心の葛藤を語っていました。

「私の精神はかくも深い、私の脳は宇宙について理解することもできる。しかし進化の途上でたまたま生じた(物質的には)肉の塊でしかない。私はいま、あの哲学的倫理、普遍原理、ナンセンスな生き物ではない、あのロボットに屈服しなければならないのか!」と泣きながら語っていました。私は思わず「ハレルヤ!」と叫びました。

彼は哲学と歴史の分野で素晴らしい業績を上げています。アニミズムと、自然崇拝、多神教とキリスト教の違いを研究しています。またビデオの中で合理的経験主義にもとづく科学の歴史を見るときその科学的手法はキリスト教神学以前には存在しなかったというのです。

学校では、エジプトでこれこれ、アッシリアで発明された、いや中世アラビアでどうだなどといいます。そしてヨーロッパのキリスト教中世暗黒時代ですべてが停滞したなどと教えています。公立学校の洗脳教育です。教会がガリレオを迫害したなどといってキリスト教が科学の敵だというのです。そう教えられています。

ここで大切なことは科学の主要な発見はすべてキリスト教徒によってなされているということです。(現代の)遺伝子組み換え技術においてもそうです。DNAの研究は福音派キリスト教徒によって遺伝の法則はカトリック神父がエンドウ豆を使って発見したものです。

唯一神と多神教の違いはなにか。多神教では神が岩の中、樹の中などすべてに存在するといいます。仏教でも山の精を信じています。日本の神道でもそうです。自然のすべてが神聖だという考えです。トトロなどのアニメや神道をベースにした日本の漫画によくみられる筋書きです。

もしその考えでいくなら、岩を持ち上げその下にいる生き物を解剖することなどできません。樹を抜いて、根を研究することもできません。カエルも解剖できません。植物を採取して人類のために研究することもできません。万物の中にそれぞれ神がいるとするならそれらを崇拝するばかりでなく人間の価値さえも相対化されるでしょう。

それらのプロセス抜きに科学的知識を得ることができません。しかしキリスト教は創造主を知るという動機でそれをすることが許されます。被造物の理解、数学やフィボナッチ数列などの研究を通して創造主の天才を知ることができます。

様々な距離の関係、比率を通して創造主の性質をうかがい知ることができるというのです。それによって神様の心を知ることができるということです。唯一神的思想においては人間は被造物への崇拝ではなく、被造物に投入し、研究し分析することで神様の精神を知ることができるのです。

それに対してアニミズム、自然崇拝においては、自然を分析研究するのではなくただその前にひざまずき拝礼するしかないのです。カルトの成立です。そしてそこに階級組織が成り立ちます。そして最後には愚かな人間崇拝に行きつくことになるのです。

「私が樹の女神」「私は川の女神」「私はガイアの一部だ」―こうなるのです。

このように学校で教えられることとは逆にキリスト教徒こそ科学の推進者であったのです。トマス・アクィナスのすべての自然哲学は神を知るために自然に向かったものです。アウグスティヌスは6世紀に自然哲学について議論しています。

キリスト教が科学から離れているのではありません。キリスト教は科学革命を否定するものではありません。存在を否定しません。

聖句の観点から、倫理と愛の神という観点から、また数学などを創造された論理的な神という観点から理解しようというのです。 

いわゆるニューエイジやガイア思想に傾倒する人々は「気候変動」「気候変動」だと大騒ぎしています。トップクラスの科学者がデータを大きく誇張していると指摘しても、逆に怒りだす始末。彼らは科学者ではありません、国に雇われたプロパガンダ要員です。

自分たちは神の存在を科学的に証明せよ。あなたの信仰を押し付けないでくれといいながら、赤ん坊の堕胎は押し付けてくるのです。すべての科学的実験は胎児は生きた人間であることを証明しています。人間の英知を阻害し、そこに自己崇拝の傲慢を卑怯な形で隠しおおしているのです。

キリスト教会こそ何世紀にもわたって科学を推進してきたのです。科学研究の財政援助もしてきました。しかしこの事実は決して学校では教えられません。むしろ宗教は科学の進歩を妨げてきたと教えられます。そして最終的にキリスト教を憎むように仕向けています。

キリスト教が科学を経済的にも援助してきたのです。
自然の理解を通して神の理解に至るというキリスト教神学の核心的信念があります。アニミズムの世界ではこうはいきません。唯一神信仰とアニミズム、多神教、自然崇拝とは多い違いがあるのです。その結果現れる世界は大きく異なるのです。

倫理、道徳を排除するとき、いまの大学をはじめとする学校制度のようにすべてが相対主義に侵され、人種間融和を説きながら結局みな人種ごとに考え方も異なるという現象が起きているのです。いまや肌の色を超えた共通の魂をみるのではなく人種間区別を意識するよう親は子に教えています。

人種ゆえに闘えと。人種と肌の色が極端に意識されるようになっています。

究極的には不可触民も、優遇された白人もない。黒人だから民主党に入れなければならないとは限らない。人は色のついた肌の下に魂をもっています。神と愛を強く求める魂を持っているというのです。お互いの絆と意味と目的、そして偉大さを求める魂を。

ただの不可触民の売春婦ではないのです。女神イェレマの名のもとに売り買いされるただの子供ではないのです。

私達を愛する愛の神様がおられ、私達に目的と使命を与えて下さる、そして与えられた才能を用いて神様の愛を世界中で証する、死せる世界に救いをもたらすというのがキリスト教世界観です。その神様は道徳を備え、自分が愛されたごとく人も愛するように願うお方。恩讐すら愛する、恩讐のために祈ることを求められるお方です。
そのような道徳をどこで得るかというのです。そのすべてを排除するとき異端がまた現代に頭をもたげます。封建主義、奴隷制です。エリートが一般大衆をカースト制に押し込めます。奴隷の位置に。もはや神の子と呼べません。黒人やヒスパニックは特殊な居住区に押し込められるのです。そして特別に許されたものだけが一人また一人出してもらえる。

多神教徒になるほどにおかしくなり、人種差別に走り、社会は階層化するということです。サタンはそれを愛するのです。

我々を圧倒的に小さきもの汚れた者と自覚させる十戒の下で裁かれるべき人間です。しかし神様の愛と赦しで善き者とされるのです。神様ゆえに清められたのです。神の愛ゆえに清い者になったのです。神によって強められ神によって力を得たのです。

あなたが黒人であれ不可触民であれデバダシであろうと関係ないというのです。生きた神様、キリストとつながりを持つときそのものは神に属する者となるのです。

天聖経(英語版)137
神様の悲惨さ、悔しい立場に立っていらっしゃることを皆さんは知らなければなりません。「私が造らなかったならば、あのようにはならなかったものを。愛を求めて栄光の天国を願ったことが、このようになるとは」と言われるのです。なぜでしようか。悪魔の血肉を受けたからです。
 悪魔の愛が注がれ、悪魔の生命、悪魔の血統がそこにあるので、これを取り除かなければ神様は所有することができないのですが、それを取り除けば死んでしまいます。ですから、そこに徐々に新しい血管と生命と愛を注入して第2の創造物、救援物として神様のような代身者を探して立てなければならないのです。

インドのまやかしの宗教の不可触民階層のものであったとしても、売春婦として売られるデバダシだったとしても、キリストを受け入れるときもはや奴隷ではなくなります。相対主義者の話のネタになることもないというのです。神様があなたを引き受けられます。保釈金を支払い、主管してくださるのです。奴隷の主人から解放されるのです!
 
 
翻訳:サンクチュアリNEWS管理人
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2016年9月11日 説教「近接する王国」【英語説教日本語訳】(全文)」への2件のフィードバック

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