腎臓の勉強をして神様を発見した―2019年1月20日日曜礼拝ティム・エルダー(その2:完結)

Sunday Service   January 20  2019   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

2019年1月20日日曜礼拝ティム・エルダー

翻訳:BAMBOOS

「そして彼らはわが民となり、わたしは彼らの神となる」。それは我々にとって途方もない希望です。

アウグスティヌスは言いました。私の心があなたの中で休まるまでは、休まることはない。どれだけ自分で自分の人生を導いていると考えたとしても、ビジネスで成功しても、お金をたくさん儲けたとしても・・・。ジェフ・ベゾスを見てください。1400億ドルの資産があっても家族は崩壊しています。

1400億ドル所有していたとしても、結婚を失い、家庭を失うならそれが何だというのでしょうか。それはまさに、世界最大の金持ちであっても結婚を保つにはお金だけではどうしようもないという教訓です。ジェフ・ベゾスであっても清めの過程を経なければなりません。神様に至るには自分の偶像から引き離されなければなりません。

お金がたくさんあるから自分たちの人生は素晴らしいのだと考える人たちも、清めの過程を経て神様によって偶像や忌まわしい物、逸脱から引き離されなければなりません。そうすることで神様は、彼らが罪を犯した居場所から救い出すことができます。そうして彼らを清めることができ、「彼らはわが民となり、わたしは彼らの神となる」のです。

神様が我々のためにこれをしてくれるという希望があります。神様は諦めません。聖書歴史6千年、実際の歴史では、分かりませんがおそらく数万年の間、神様は決してあきらめませんでした。そして毎日24時間、人々を1つにするために働いておられるのです。

そして「わがしもべダビデは」・・・これはメシアでありキリストであり、キリストの血統のことです。「・・・彼らの王となる。彼らすべての者のために、ひとりの牧者が立つ。彼らはわがおきてに歩み、わが定めを守って行う」。定めとは何でしょうか。天一国憲法です。

「彼らはわがしもべヤコブに、わたしが与えた地に住む」。最終的には地球全体を神様が我々に与えます。そして我々は地球全体で生活します。そして私は、宇宙の至る所でも生きるようになると思います。

私の説では、人類は今ベータテストの段階にあります。我々はベータテスト段階でまだバグがあります。それは原罪というものです。原罪を宇宙全体に広げたくはありません。しかしそれに対処したらすぐに、エンタープライズ号みたいな宇宙船か何かに乗って出ていくことができるのです。宇宙の他の場所に行くことができます。

そうした惑星で生きることもできるし、宇宙船の中で自分たちの環境を作り出すためにその鉱物を利用することもできます。分かりませんが、我々は今ベータテスト段階にあるかもしれません。それで最終的に神様は我々が宇宙全体に広がることができるようにし、宇宙全体に満ちるようにさせてくれるのです。

中絶もなく、飢餓で死ぬ人もなく、何兆、何十兆、何千兆という人間が宇宙全体に住むようになります。それが私の説です。賛成の人もいるようですね。それは神様のことです。私は未来のことについてここに立って話すことはできませんし、私にはそうするための力はありませんが、ただ神様のことだというだけです。

「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らの永遠の契約となる。わたしは彼らを祝福し、彼らをふやし、わが聖所を永遠に彼らの中に置く」。つまり「平和の契約」だというのです。これもまた天一国憲法のことです。永遠の契約、つまり永遠の憲法ですから修正できません。

「わたしは彼らを祝福し、彼らをふやし、」。ですから何兆、何千兆と増えても飢えることもありません。「わが聖所を永遠に彼らの中に置く。わがすみかは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわが民となる」。もちろん全ての人が神殿となります。

「そしてわが聖所が永遠に、彼らのうちにあるようになるとき、諸国民は主なるわたしが、イスラエルを聖別する者であることを悟る」。神様が全ての紛争などを超えて人々を1つにする時、神様を信じない人たちはそれを見て、あの人たちは1つになっていると言います。

彼らは法廷で戦っていましたが、1つになります。20年、30年、40年前に祝福を受けて離れた人たちが戻ってきています。このようなこと全てが本当かもしれません。もしかしたら異邦人たち、神様を信じず、原理を信じない人がそれを見て、神様の証しとなるかもしれません。

「そしてわが聖所が永遠に、彼らのうちにあるようになるとき、諸国民は主なるわたしが、イスラエルを聖別する者であることを悟る」

神様のみ言に賛美を捧げましょう。ありがとうございました。

ですからこれは、神様が諦めずに平和の世界、希望の世界をもたらし、ご自身の王国をこの地上に造られるという神様の我々への約束です。我々は自分たちの5パーセントを達成しなければならないだけですが、5パーセントには決して希望を失わないということも含まれます。そして神様が共におられ、この地上にいる全ての人と霊界にいる全ての人の心の中で、王国を取り戻すために働いておられるということを常に理解することです。

神様は単なる時計技師のような神様ではありません。何か物事を引き起こしておいて何もしないような方ではないのです。毎日分刻み秒刻みで我々の人生に関わっておられます。たとえ神様を否定しても、神様は全ての人の人生に関わっておられるのです。そして、コミュニケーションのために可能な限り全てのチャンネルを利用されます。

私がどうやって神様を見つけたか知っていますか。私は腎臓で神様を見つけました。話を聞いたことのある人もいるかもしれません。私は大学を卒業した後、世界的な製薬会社に就職しました。研修を受けたのですが、その最初の段階がセールスマンをやることでした。医者のところを回らなければなりませんでした。薬局に行ってそこに在庫があるかどうか確認するというようなことです。

当時市場に出始めていた薬が、レーシックと呼ばれるものでした。目の手術の言葉と似ていますが少し違います。地域の医者や看護師と話すと、高血圧の主力薬剤がまだあるといっていました。しかしそれは1970年代に遡る物で、こちらは新発売になったばかりの物でした。

私は学生時代に生物学があまり得意ではありませんでした。昆虫や植物の名前を記憶できなかったのです。ともかく就職して最初にやらなければならなかったのが、これぐらいの厚さの課題の教材だったのですが、全てが人間の腎臓についての内容でした。

医者と話すのにこの薬がどのように作用するか知らなければならなかったのです。というのも、私の仕事は、会社がお金を払って作った様々な資料を持って行くことであり、それは薬がいかに素晴らしいかを示す内容だったのです。医者にその資料について話し、彼らに競合の薬よりもっとその薬を処方してもらうということです。

それで私がもらったこれぐらいの厚さの課題の本は、全て腎臓に関するものでした。とても昔の話なので全てを覚えていませんが、私が覚えているのは、彼らが私をモーテルに置いたことです。私は学校を卒業したばかりで住む場所がなかったからです。それで彼らは2週間後に来てテストを行うと言いました。

2週間、私は食べて寝る以外はその課題を勉強しました。2週間後に本を閉じると私は独り言を言いました。「ああ、これは素晴らしい」と。なぜなら私は腎臓のことを単にフィルターかふるいのようなものだと思っていたからです。ある物は通してある物は通さないという。しかしそれは、はるかにもっと複雑なものでした。

全てを覚えていないので細かく説明しませんが、体の中の液体の量を調節したり、栄養素を調節したり、あらゆる種類の内容があります。それで、これが任意の抽出で起こるはずがない、というわけです。またこれは1つの臓器だけのことです。他の臓器のことを勉強したら、どれだけ信じられないほどのことになるか考えてみてください。

私はそれ以前にも神様を信じていたと思います。子供の頃からいわば観念的に信じていました。しかしその経験が私にとって決定的なものとなりました。そして数カ月後に私はメシアに出会ったのでした。それで会社は辞めました。腎臓の勉強をして神様を発見したことが、約4カ月後にお父様の教えを受けるための土台を築くのに役立ったのだと思います。

私は上司に、メシアを見つけたので辞めますと伝えました。彼らは、君は若いから選んだ道を行きなさいと言って辞めさせてくれました。そのようにして私は腎臓で神様を見つけた、ということです。神様はその課題を通して、その就職を通じて私に伝えていたのです。

私がその仕事から見つけたことは、神様を見つけたということでした。神様を見つけてそこにいる必要がなかったので、神様は私からその仕事を取り上げました。それが示すのは、神様は様々なチャンネルを通じて人に伝えるということです。通常最も予測していないチャンネルを通じてです。自然のこともあれば、誰かの話のこともあれば、様々な経験を通してのこともあります。

神様はいつも、人と話すため、人に働きかけるために複数のチャンネルのコミュニケーションを使用します。たとえ人が多くの人がするように神様を否定しても神様を憎んでも――また神様は信じるが関係を持ちたくないという人がいますが、そのようにたとえ神様と関係を持ちたくないと言っても、それでも神様はいつも人々に愛を持って伝えようとしています。

ですから神様は素晴らしいのであり、それが神様の愛なのです。単に神様がそのように感じるというのではなく、我々が本体論で学んだように、そうせざるを得ないからです。対象に愛を与えることで喜びと愛を経験したい、という抑えがたい衝動を持っておられるからです。それが本体論における心情の定義です。抑えがたい衝動。抑えがたいものです。

神様はそうせずにはいられません。愛することを止められないのです。誰かが止めさせようとしても、止めることができません。ハレルヤ。神様ありがとうございます。神様に賛美を。アーメン。

おわり

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