神様の愛が皆さんの中に安着すれば神様と一つになる-「豊かな王国」(その4:完結)【英語説教日本語訳】

The Rich Kingdom July 23 2017 Rev. Hyung Jin Moon Unification Sanctuary Newfoundland PA on Vimeo

The Rich Kingdom【豊かな王国】7/23/2017

翻訳:管理人

天一国、この王国はどちらでも大丈夫です。大企業も中企業も小さなビジネスもいいのです。小さな個人教会でも、インターネット教会でも、メガ教会でも全く構いません。王国は巨大なテントのようなものです。人々はそこで自由と主権を見いだします。そこではみんな仲良くできるとは限りません。組織のスタイルがそれぞれかみ合わないこともあるのです。ビジネスや教会の経営に関する考え方、哲学が必ずしも一枚岩ではありません。そういうものではないのです。意見が異なることもある。コカ・コーラがペプシに攻め入らない、あるいはペプシがコカ・コーラを攻撃しないことがあり得ないのと同じです。クロロックス(洗剤の会社)が・・競争相手はどこでしたっけ・・・オクシパウダーと競争する、オクシクリーンでもなんでもそれは許されるのです。一点お互いに自由な市場に関しては合意していること、これがあればOKです。それがお互いに結託して市場の自由を排除しようとするとき、その時こそ問題です。だからこそ天一国では独占禁止法が、常に更新され、大企業が有利な法律をつくったとしても、10年経てば失効します。

自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される(ヤコブ2:12-13)

だからもしジャマールにあわれみなく、ローデスを攻撃するなら、彼の問題はくだらない問題とみなされ、皆から愚か者とみなされるでしょう。いいですか、ジャマールにも自由の律法によって仮借ない裁きが下される。もしそうだとすれば、ローデスの信用を逆に高めるだけです。どういうことか分かりますか。これは神様が下さったとても良い実例です。サンクチュアリのコミュニティが注意深くこれをみるとき、王国をさらに理解できるのです。すべての諍い(いさかい)に介入することが王の役割ではありません。王の役目というものは-これは三代王もよく理解しなければなりませんが-お父様の観点を守ることです。(あるメンバーを指して)このベトナムで闘った兵士を記憶せよということです。皆さんも偉大な闘いを闘ってきた兵士なのです。霊的、天宙的規模の戦争です。そこで皆さんは神側を選んだのではないですか。だからベトナムで戦った兵士と同じです。おそらく彼も軍の全員と、また、グリーンベレーの仲間全員と仲良くやってきた訳ではないでしょう。おそらく怒り狂ったこともあるでしょう。しかしそれでも彼はその人々を守るために戦いそして実際に守りました。戦場で多くの命を救ったのです。

自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。(ヤコブ2:12-13)

最後に神様はわたしたちにあわれみを行って下さるでしょう。なぜなら信仰と愛の賜物を頂いたからです。神様は私たちすべてにあわれみをくださいました。私にもそしてすべての人にも。ここにいる人にも、世界中のサンクチュアリの人々にも。あわれみと信仰の賜物をくださったのです。だからお父様が最も困難な時、厳しい時に、私たちは自己の利益を顧みず、自己保身にも走らなかったのです。困難なことを成してきました、想像もつかないことを。間違っていると思うことに対して立ち上がったのです。

私はかつて一度見たことがあります。ローデスとジャマールがまるでスローモーションのように、駆け寄ってハグするところを。まるでBGMが流れ、カメラが360度回転して風景を撮る・・・そこにドローンカメラも入って3Dパノラマのように(笑)。愚かなドラマクイーンにならないで下さい。翌日にはまた喧嘩しています。私の語ったことをいちいち引用して、重箱の隅をつつくように、「王国は正確にはこうでなければならない」とか「ああでなければならない」とか言い合っている。二人がそうしていたことを知っています。私はバカではありません。神様はその二人を愛しています。それを知っていなければなりません。

わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか(ヤコブ2:14)

ここでいう最大の行いとはなんでしょう。それは「隣人を愛する」ことです。律法を満たす最高の行いは何であるといっていますか。

しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。(ヤコブ2:8)

「尊い律法」だといっています。もちろん、意見の相違や論争もあるでしょう。時にはそれで問題が明確になることもあります。しかし相手を潰そうという意図でそれをしてはいけません。その人も真のお父様のために立ち上がったのです。しかし相手が暴漢に襲われているのに、「自分は助けに行かない」などと言う点まで落ちないで下さい。それは平和警察、平和軍の精神に反します。王国の倫理規定に反するというのです。

ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。(ヤコブ2:15-17)

信仰に行いが伴うのは、行いが救いをもたらすからではありません。行いがお父様の家、王国の入口を示してくれるわけではありません。信仰が善き行いを伴うのは、善が神様の性質だからです。ますます神を信じると、より神様に似たものになりたいと欲するようになり、自然と善き行いをするようになるのです。より愛し、より近くに行きたい、より似ることを願い、人生の中心に神様を据えたいと思い、自然に神様に似たものになる。しかしまだ完璧ではないにしても、より神様に似たものとなり善き行いをするようになる。善き行いは悪いものではありません。多くのキリスト教会では善き行いは駄目だといいます。なぜならそれは救いにつながらないからと。善き行いは、動的な信仰がもたらすものです。生きて呼吸をしている関係性において。自然に湧き出る行いというものがあるのです。

行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。(ヤコブ2:18-19)

これは国進兄さんが言ったことです。二人とも(ジャマールとローデス)真のお父様を愛している、三代王権を愛しているという。二代王を愛しこれを王のために行っているという。ローデスはこれは王のためにしているといい、ジャマールも王のためにしているという。皆も二手に分かれて、あなたは王のためになっていない、そっちこそ王のためになっていないと言い争う。
感謝すべきことに、お父様が地上に代身者として残して下さった者は自分の口で話すことができる。だから、どうか、他人が、私(二代王)の思いはこうこうだ、と代弁するのはやめて下さい。

あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。(ヤコブ2:19)

悪霊でさえ私が真のお父様の相続者であり、後継者、代身者であることを知っているのです。私たち夫婦が真の父母の代身者であることを知っているのです。確かに知っている!もちろん私が願ったことではないということをいつも言っておかなければなりませんが。

あなた方はすべてのことを行ったというかも知れませんが、悪霊でさえ神様の位置を認めているし、お父様がなされたことを認めています。だから「自分はこれこれを王様のために行った)というだけでは十分ではありません。あなたは似たものになっているのか、万王の王に似たものになっているのか、それが問題です。その性質において似たものになっていますか。T-シャツのWWJDというマークは何を現わしていますか。「イエス様ならどうするだろうか」(What Would Jeus Do)です。それが思考法の訓練になるのです。

「イエス様ならどうするだろうか」

「お父様ならどうするだろうか」

状況に巻き込まれてしまいますか、それともお父様の視点で見ようとしますか。二人とも戦いの勇者です。二人とも王国の戦士なのです。だから完全だとは言いません。問題ないなどとは言いません。広くとらえて下さい。前後の事情を広く考慮することで、この問題を取りまく感情の渦に巻き込まれずに済みます。それは神様から離れ天使長により近づけるものです。天使長は感情圏で踊りながら人を誘惑するのです。

前後事情を考えなさいというのです!お父様の事情です。

神が命じられた時、アブラハムはそれに応じて立ち上がった。祭壇を築いてイサクを献祭しようとした。娼婦のラハブは神の人々(イスラエル)を守りました(ヨシュア記)。だから娼婦の中にも色々いるのです。神の人々を売り飛ばす娼婦もいれば、神の人々を保護する娼婦もいるのです。ここぞという時、神様は娼婦を用いることもできるのです。すべての娼婦を用いられるわけではありませんが、ラハブを用いられました。もちろんそれで娼婦自体の罪を断罪されない神様ではありません。要するに、これらを通してお父様は何とおっしゃったでしょうか。家に帰ったら民数記33を読んでください。そこに最初の文章を見いだすでしょう。そこで事情の見方が与えられるでしょう。われわれの成してきたことを再び想起させ、個人の栄光を求めてここに来たのではありません。嘲り、嘲笑を自分の栄光のために受けてきたのではないでしょう。サドマゾヒズムでそんなことをしたのではないでしょう。

一人一人が、もっとも困難な時に立ち上がり、正しいことを成したのです。だから皆さんが完璧なのではありません。皆仲良くやっていけるわけではないのです。しかし99.999%の人ができないことを成してきたのです。あなたが必ずしも意見が合わない人もそれを成してきたということです。99.999%ができなかったことをした人です。要点が分かりますか。

時々、怒り狂わせるようなことをするとしても、喧嘩するとしても、特別な人々ではありませんか。一度私たちのトレーニングに参加してみなさい。2,3時間もすれば心配事などすべて吹っ飛びます。(笑)

神様の視点で見なければなりません。だからぜひ試してください。祭壇での本の向きを変えて(お父様のから見て正しい向き、つまり私たちから見ると聖典が180度反対向きになる)みなさい。大きな違いを感じることでしょう。どうか試してみて下さい。正しい霊界を周囲に感じることができるでしょう。またその感想を教えてください。

天聖経(英語版)327

貧しい田舎の農夫として草取りをし、農業をする立場にいたとしても、その農夫に心と体に膨れ上がる愛の情熱が燃え上がっているとすれば、心の五官と体の五官が完全に合わさり、この上もない喜びを味わうことでしょう。 このように神様の愛が皆さんに臨む安着点をもっているなら、時計の振り子の振動のように神様の胸が一度だぶんと揺れれば、皆さんの胸が一度だぶんと揺れ、それで皆さんと神様が共に回るというのです。
(祝福家庭と理想天国I-370)

ここでいう愛は相対主義的な神の愛ではありません。悪は憎みながら、しかし隣人を愛する。これらは決して二律背反ではありません。悪を憎むことと、隣人を守ること。警察はいつもそれを実行しているでしょう。これは相対主義的な愛の話ではありません。

神様の愛が皆さんの中に安着すれば神様と一つになる。神の愛するものを愛し、神の憎む者を憎む。

時計の振り子の振動のように神様の胸が一度だぶんと揺れれば、皆さんの胸が一度だぶんと揺れ、それで皆さんと神様が共に回るというのです。

アーメン、アージュ。

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