2016年12月11日説教「実体的な王国」【英語説教日本語訳】(その1)

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実体的な王国 Substantial Kingdom (その1)

ルカ22章15節から20節を一緒に読みましょう。

ルカによる福音書22章
15:イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。16:あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。17:そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。18:あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。19:またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。20:食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。

イエス様がこれから十字架にかけられることを知って弟子たちと最後の過ぎ越しの食事をする場面です。過ぎ越しとは死の使いを過ぎ越したことを記念する祭りです。戸口に子羊の血を塗ることで死の使いから免れることができました。もし戸口に子羊の血を塗らなければ死が訪れるのです。この過ぎ越しは汚れのない子羊の血によって守られたことを祝うものであり、その犠牲は神様の召命に従い神様の戒めを守る者の贖罪のために与えられたのです。

興味深いことにイエス様はぶどう酒とパンを与えて言われました。
「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」

私が捧げる犠牲を記念するためにこれをしなさいということです。キリスト教の中では全質変化(訳注:、カトリック教会のミサや正教会の聖体礼儀においてパンとぶどう酒がイエス・キリストの体に変化すること)についてパンとぶどう酒が本当にキリストの肉と血になるのか、という議論があります。

例えばカトリックではまさしくイエス様の血と肉そのものを飲食しているのだとしています。しかし聖書を見るとこの儀式は明らかにイエス様を記念するものとして行われています。世界の多くの罪人のために捧げられたイエス様の犠牲を記念するものだったんです。

そして次のようにあります。
『杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」』

罪を贖うために血を流すということは新約でのことだけでなく旧約において神様が命令されていることでもあります。人々は神様の前で罪が裁かれるように贖いの犠牲を捧げたのでした。例えば汚れのない子羊などの家畜が贖いの犠牲となり幕屋の前の祭壇で捧げられます。そしてそれは聖職者と共に神様の前に悔い改めがもたらされ、それらの罪に裁きが行われます。

そして血が流されたり罰が与えられたりします。罪を犯した場合には罰が与えられるということを理解することが重要です。罪を選ぶことはすなわち罰を選ぶことになるのです。私たちは罪深い行動を選択することもできれば罪を避けることを選択することもできます。しかし故意に罪を犯す決断をすれば神様の怒りと罰を招くことになります。

多くの人は審判の日には神様の前に行き自分の善行をすべて話すと言います。そして良いことを報告したら自分を許してくれるというのです。もちろん私たちはそれがまったく意味がないことを知っています。なぜなら私たちは法廷に立つからです。それは善行によるものではなく犯した罪によるものなのです。罪のために法廷に立ちます。

例えば誰かを殺してしまったとしたら法廷に行ってこう言うのでしょうか。「でも裁判官、私は先週おばあさんの世話をしたんです」「近所の人にパンプキンパイをあげました」それは関係ありません。なぜなら法廷に立っているのは罪を犯したからなのです。ですから裁きを受けてすべての天軍と先祖たちと全霊界の前に立ち、神様の義と神聖さの前に立つのです。私たちは罪を犯したのです。どんな良いことをしたと言っても関係ありません。それは私がそこに立っている理由ではなく、そこに集まって私たちを見ている理由ではないのです。

自分の罪の重さを考えてみるとそれを自分で償う方法がないということが分かります。数えきれないほどに何回嘘をついたでしょうか。インターネットで音楽をダウンロードするような小さなことであっても何度盗みをしたでしょうか。そのようなことをすれば天国に入れないと聖書には非常にはっきりと書いてあります。

売春婦を買う者、不倫を行う者などもそうですが嘘をつく者もそうです。悪意のない嘘も嘘です。小さな嘘もやはり嘘なのです。皆がやっていて皆が罪を犯していて、罪という認識なしに罪を犯しても、罪でないということにはなりません。

私が運転免許を取って初めてピザを買いに行った時のことです。ニューヨークの変な道に入ってしまってピザ屋の前でバックしたのですが黄色の二重線をはみ出してしまいました。すると警察官がちょうど後ろにいて注意されました。私は何も悪いことはしていないと言ったのですが、黄色の二重線をはみ出していたと言われました。それで違反切符をもらったのです。つまり、法律のことに気づいていなかったとしてもそれに違反すればやはり罰を受けるのだということです。ですから悪気のない嘘のように小さな気が付かないような罪だとしても、それはやはり罪なのです。気づかなくてもそれが罪であるという事実を消すことはできません。

十戒に照らしてみればわかります。十戒は鏡のようなものです。人々が非常に傲慢になったので神様がそれを与えたのです。非常に冒涜的になり不信仰になり、偶像やエジプトの神を受け入れるようになりました。地図を見せましたがエジプトはエリコのすぐ近くなのです。文化も異なり太平洋や大西洋を隔てたようなところだと思うかもしれませんがすぐ隣なのです。彼らは多神教や子供の犠牲などを含むエジプトの文化的な要素を取り入れていました。儀式の一部としての快楽主義もあり、フリーセックスの文化を良いこととして、普通で健全で楽しいこととしてみなすこともありました。そういったことを皆受け入れたのです。

神様は十戒を与えましたが彼らは非常に傲慢で不義になっていました。彼らはそれでも自分たちは正しいと思っていたのです。神様は自分たちを守る義務があると思っていました。自分たちには資格があると思っていたのです。「神様は私たちが選民だと言ったではないですか」と言うのです。

モーセが山に登って十戒をもらって帰ってくると彼らは牛を拝んでいました。チーズ製造器や牛乳製造システムを拝んでいると考えたらばかげたことです。彼らは金の子牛を拝んでいたのです。神様は彼らを罰しました。モーセは3,000人を殺さなければなりませんでした。死刑にしたのです。その日に殺されました。彼らはとてもかたくなになり傲慢になっていました。彼らはそれでもなお神様が自分たちを守る義務があると思っていました。彼らは自分で神様を捨てて罪を犯すことを選択したのです。そして神様に反逆し異教の神々と姦淫を行っていくことを選択しました。

法律に気付かなかったという理由だけでは法律を破っていないということにはなりません。十戒はイスラエルの民が見る鏡となりましたが、彼らはすべてを神様の前で破ることになりました。彼らの中でもっとも正しい人でも悪意のない嘘をつきました。そしてだましたり、当時はペンなどなかったでしょうがそのような小さなものを盗んだりしました。彼らの中でもっとも正しい人であっても十戒と神様の神聖さ、神様の鏡に照らしてみれば汚いボロきれにすぎないというのです。私たちがきれいですばらしいものだと思っていたことでも、神様の神聖さ、正しさ、完璧さの前では単に中身のない空虚ではかなく束の間の自慢でしかないのです。

十戒を自分たちの罪を照らす鏡だと考えたとき、死んでから、あるいは審判の日に神様とすべての天軍の前に立つなら、そして彼らが自分の罪をすべて裁かなければならないとしたら問題があると分かりますね。なぜならどれだけ自分が完全だと思っていても、その日に私たちは神様に自分がどれだけ良い人間であるかとは言えず、自分はこんな良いことをしました、先週猫に特別のごちそうをあげましたとかそのようなことは裁きの場では関係ないからです。

なぜなら私たちがそこにいる理由は自分たちの犯した罪を調べて裁定を下してもらうためだからです。これはとても重要なことです。なぜなら神様は公正な方だからです。公正な世界では罪に対する報いがなければなりません。自由奔放に人を殺すことができるなら、結果を顧みずに不必要な殺人を犯すことができるなら、そこに正義はないということになります。「不公平だ」「何ということだ」「狂っている」「無法だ」と言うことでしょう。「不当だ」と言うでしょう。

神様は本質的に公正です。聖書に興味深い話があります。イエス様は、裁きの日には父があなたを裁くのでなく子があなたを裁くのだと言われました。そして私たちが子と聖なる天軍の前に立つとき、私たちは皆罪人なのです。私たちは罪の大小を考えるかもしれません。自分はヒットラーよりましだとか毛沢東よりましだ、と。しかしすべての罪が私たちを神様から遠ざけるのです。あらゆる罪が深淵を作り私たちが神様と一つになるのを許しません。私たちは自分がそのように大変な霊的問題を抱えていると理解するとき、自分にはその日から救ってくれる誰かが必要だと悟ることができます。

当時のエジプト人の問題は、自分たちは良い人だと思っていたことなのです。彼らは自分たちがたくさん良いことをしたと思っていました。「自分たちは誰も殺していないし人殺しではないから」「兄弟の世話をしている」「親戚の世話をしている」と、いつも同じようなことを聞いていたというのです。しかし彼らは神様の観点と神様の神聖さからそれをとらえていませんでした。私たちがその日にその場に立つとき、その代価を支払ってくれる人が必要なのです。そこに足を踏み入れて「いやいや、この罰金はもう払ってあります」と言う権威を持った人です。

そういうわけで過ぎ越しというのは非常に強力なものであり、イエス様も弟子たちに話したのです。皆さんがキリストと救いについて思い起こしてみるなら、皆さんはかつて罪深かったのに今は信仰を持ちキリストとの関係性を持ってその裁きの日から解放されていることが分かるでしょう。皆さんの裁きの日は無効になり撤回されました。そうですね。裁きの日はもうありません。

皆さんが神様の前に出るとき、キリストをまとうので神様はあなたを見るのではなくキリストの信じられないほどの愛を見るのです。神様は完璧な罪のないキリストの血統と愛を見るのです。私たちがキリストの血と体を食べるというのは、誰かの肉と血を食べるというカニバリズムを行うということではなくて、それは神様が行われたことの記念だというのです。それは私たちの裁きの日が撤回された日を思い出すためのものなのです。パラシュートが付けられた日を思い出すためのものです。そして飛行機の窓から飛び降りる日のことを。パラシュートがあってどれほど感謝なことでしょうか。

すべての宗教は同じことを教えており、ただ人が良いことをするように教えているだけだとする相対主義の考えは間違っています。それが宗教の研究やリベラルの進歩主義の中で支配的な考えかもしれません。すべての宗教は良いことを行うよう教えているかもしれませんが、キリスト教が根本的に異なる理由はそのようにして救いを受けるのではないということなのです。善行によって悟りを開くことはありませんし、解放されることもありませんし、自由を見つけることもありませんし、救われることもないのです。

神様の愛によって、救い主の愛によって、神様の犠牲によって救われるのです。あなたの良い行いや神様に対するあなたの愛の証しによってではありません。あなたの善行は神様に対する愛とあなたのために神様がしてくれたことを象徴しているだけです。私たちが良い行いをするのはある種の解脱を得たりするためではありません。それらは神様に喜びをもたらす行為であり私たちの神様に対する愛を象徴するものです。ですから最終的には本当に愛がすべてになります。それはそのような領域での愛であり、善悪を見分ける能力のないリベラルの進歩主義的な多文化の相対主義の愛ではありません。実際にわざと善と悪の境界線をなくそうとしてサタン自身が受け入れられ神様の愛もサタンの愛も同じになります。すると隣人を愛することも隣人を殺すことも同じになり、隣人を愛することも隣人を食べることも違いがありません。相対主義の思想を真剣に受け入れるとそのようになるのです。

同じようにエジプト人(訳注:ユダヤ人の言い間違いと思われますがそのまま訳します)もその中で戦い、クリスチャンの歴史は2,000年の路程を歩むことになりました。現代においても同じ戦いが起こっていることを私たちは目撃してきました。私たちはトランプとヒラリーの途方もない戦いを見たのです。7人のトランプと獣ヒラリーです(笑)。7つの頭を持つ獣は海から現れます。大変な戦いが起き今も続いています。あと何週間かすればトランプが就任し全世界に自由のラッパを吹き鳴らすでしょう。

なんという途方もない戦いでしょうか。なぜならお分かりのように私たちが向かおうとしている場所は地上天国だからです。文字通りの地上天国をやがて見ることになるでしょう。今まさに普通の人が主権のために立ち上がり、良心を持つ人、自分の本心と通じることができる人が、自分には神様が与えた権利があり、自分には主権があり、歯車の一つや柵の柱の一つではないのだと言っています。私は彼らの機械の一部ではありません。私は永遠の父と繋がっているのだと。彼らは単純ですが自分で気づいているかにかかわらず、例え神様を信じていなくてもアベル側、神側にあります。この壮大な戦いの中で私たちは国や世界で目撃しなければなりませんでした。良心を持って自分たちは国連やエリート、銀行家の奴隷ではないと言って立ち上がった普通の人がいました。神様が私たちに与えてくださったものを取り去ることはありません。

トランプが圧倒的勝利を収めた後再集計が行われましたが完全に失敗してトランプの票をもっと加える結果となり、トランプの勝利が偉大なものだったことを示しています。そしてヒラリー側に不正投票があったことを明らかにしています。主要メディアは常に全体主義政策や共産主義政策の武器でした。北朝鮮を見てもポル・ポト、旧ドイツ、他のいかなる全体主義政策を見てもそうです。メディアが大衆を支配するための重要な要素なのです。主要メディは全力でトランプに反対しました。彼らは全力でトランプを阻止しようとしたのです。なぜならトランプは主権のために戦っていたからであり、クリスチャンが迫害されないようにして人々が人権を持てるようにし、主権と自己防衛権を持てるようにし、安全と国境を確保し、正義が行われるようにし、生れる前の子供を守ろうとしたからです。

トランプがこれらのために戦っていたので彼らは反対しました。トランプが彼らの共産主義の世界体制、金銭による人間の家畜化に反対していたからです。なぜなら愚かな気候変動詐欺に賛成していないプルーイットをEPA(環境保護庁)長官に決めたからです。ウェザーチャンネルの創始者が彼らはでっち上げを行ってデータを過大評価していると言っています。彼らの気候変動の取り上げ方はばかげているのだというのです。イギリスの有名なモンクトン卿は気候変動の愚行についてすばらしいプレゼンテーションを行いました。二酸化炭素を出しているという理由で彼らがいかにして人々に税金をかけて人間を家畜のように扱おうとしているのかということです。トランプはこれらのことに反対しNOと言っています。人々は自由であるべきであって自由に活動すべきであり、過剰な規制をかけられずに起業できるようにすべきであり、お金を儲け革新を行うことができるようにすべきであり、自分たちが望む物を作り出すことができるようにすべきだと言っています。

(音声不良)
自分たちの労働の成果がすべて、選択によってではなく強制的に取り上げられるのが全体主義、共産主義の本質なのです。天使長のサタン的な地上の王国です。王国のことを話すとき、この世にある王国は私たちが考えるようなものではなく、サタンの王国がこの世界には定着しています。主要メディアは本当のニュースを報道しているオルタナティブ(代替)メディアを攻撃しています。何の証拠もないのにブラックリストを作って、その匿名の人々から来た全体主義的なブラックリストがワシントンポストで報道され、突然EUがそのリストを採用してEUからそれらのリストにあるメディアを締め出すことを決めました。公然と全体主義の検閲を行っています。公然と人々の言論と出版の自由を侵害しているというのです。

昨日、ボールド・ゴールド・メディアが國進様の家でイベントを行いましたがそこにいた人はいますか。すばらしいイベントでしたね。それがタイムリーな理由は、ボールド・ゴールド・メディアは北東部で有益だったからです。彼らはここに来てすぐに会った人々の中の一つのグループですが初めてビンス・ベネティートと話したときのことを覚えています。私たちはゲイジ博士を呼んで9.11について話しました。元空軍にいたとかいう話もありました。彼はそれをどう考えたら良いかわかりませんでしたが、今その関係を通して、そのデータのことを聞いてそういったことについて読んでみると、公の立場がどのようなものかは分かりませんが、私たちがこういったことを持っていくと彼の態度は非常に大きく変わったのです。

そして昨晩のことですが、ボールド・ゴールド・メディアもインフォウォーズやジェームズ・オキーフェの成果を始めとするオルタナティブメディアを放送すべきだと話しました。ペンシルベニア北東部の小さなラジオ放送局なのですが、彼らが前回のオバマのときと今回のトランプのときの選挙の統計を調査してみると北東部で10万人もの人々が動いたというのです。ショーン・ヘニティやローラ・イングラムが放送を担当していますが、彼らはトランプを強く支持しています。そして多くの人がショーン・ヘニティやローラ・イングラムをラジオで聞いてトランプに投票したと言っているのです。

トランプはペンシルベニアでは7万票の差で勝ちました。それはどういう場所だったでしょうか。どういう地域でひっくり返ったのでしょうか。それは正に私たちが来た場所だったのです。ペンシルベニア北東部だったのです。その逆転があったのでトランプは大統領選挙に勝利したのです。私たちが、ペンシルベニアが世界の政治を左右すると言ったとき、反対派は皆頭がおかしいと言っていました。神様のミクロ的な摂理がこの場所で行われることを知っていたので私たちは何カ月も話していました。私たちはそれを話して環境圏の中に解き放ちました。嘲笑い、嫌う人々が皆いる中です。

そして選挙が行われると最後の瞬間、生死を分ける危機一髪の状況でありましたが、文字通り現代の民主主義と自由の死か、全体主義の側かというものだったのです。文字通り生と死の間で揺れ動いていました。皆さんのその目でペンシルベニアがドナルド・トランプをアメリカ合衆国の、そして世界の大統領にしたのを見たのです!ペンシルベニアというだけでなく、実際にはペンシルベニア北東部で1万票逆転したのです。他の7万票が彼を押し上げ勝利できました。これを見て神様の御手が動いたことが分からないというなら、盲目で半分死にかかっているということです。

しかし、支配層と天使長は死に物狂いで現れつつある真実を葬り去ろうとし続けています。彼らは偽物であり詐欺師であり、全体主義者、独裁主義者であって、自分たちの約束したことをやるためにそこにいるのではありません。彼らの目的は搾取であり中枢は悪魔崇拝者なのです。先祖解怨式の後、サタンに捧げられるために清いままで亡くなった子供たちの解放の後、興味深いことに彼らの王国は崩壊しつつあります。アメリカで中絶された5千4百万の赤ちゃんは処理されました。病院で殺された後、悪魔崇拝者や魔女崇拝者たちがその夜別の目的で集まっていたとザッカリー・キングがはっきりと証言していました。彼らは悪魔崇拝の儀式で最高の生贄が欲しかったからです。それによって自分たちがパワーと欲望を与えられ、サタンに祈りオカルトのパワーを使ってある境地に達したいという欲望を満たすのです。

何百万という子供たちがそのようなサタン的な欲望によって殺害されました。それはサタンの車の、サタンの王国の車の燃料タンクのようなものです。それは燃料のようなもので、最高に強力な力で神様が自分の形に創造されたものを、罪を犯していない最も清い状態で破壊し汚すのです。力や人間の欲望を見返りに、また同時にその死の領域からあふれる闇を見返りとして。

驚くべきことに支配層とサタンの王国が今崩壊しています。非常に自暴自棄になっています。先祖解怨式の後、燃料タンクは空っぽになったのです。踏み込んでも加速できないので「この車はどうなっているんだ!」と文句を言っているような状況です。自暴自棄と焦りの中で、彼らはもっと純粋な悪をあらわにし始めています。それは人類を奴隷化しようとするような邪悪さです。
つづく
 
 
翻訳:BAMBOOS
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