これが弁証学であり正式な討論の本質なのです。非常に多くの観念がありますので多くの時間がかかります。それぞれの様相が文字通り数多くの本に基づいています。この議論をみても理解が浅いかもしれません。
1つの主張に焦点を当てていると、すでに負けているのです。なぜならそれが最も弱い主張の1つであることに気づいていないからです。それを探求すれば完全に論破されてしまいます。ですからこれが問題なのです。わずかな知識が大きな危険につながります。
もしこのようなことを追求するのであれば、若い人たちは探求すべきなのですが、浅くではなく深くするのが良いのです。これはほんの少し触っただけのことです。
ヒッチンズがやったことは、人身攻撃と中傷と揶揄を組み合わせたものです。それが彼の主張ですが、実際はまったく議論ですらないのです。そして彼が挙げたすべての事について、ウィリアム・レイン・クレイグは文字通り丸ごと1冊の本を書くことができます。彼はその論拠が間違っている理由や、彼が本当の議論を理解していない事などを具体的に示すことができます。
弁証学は非常に深いものです。これは特に一般大衆のためのものではないでしょう。なぜならそれは非常に内容が濃いからです。これらの論拠のそれぞれが非常に深い点や特定の問題に特定の言葉で入り込んで行きます。
使われている言葉も彼らが非常に明確にどのような哲学的用語が使われるか考えたものでなければなりません。すべての人の思考のために作られたものではありませんが、それを調整することができるでしょう。あなたは様々な人々に対応するための武器をたくさん持っています。それには非常に知的な人々もいます。必ずしもあのような分野の人々にだけ限ったことではありません。しかしそれは万能の解決策ではないということです。
なぜなら最後に最も強力な物は知的な議論だけではなく、それらの議論がどのような種類の文明を作り出すかということなのです。そういうわけで、自由社会が、天一国憲法が、キングズレポートが、日曜礼拝が、いつも私達はその思想がどのような文明を作り出すかということに焦点を当てているのです。なぜなら知的な議論を行うだけでは十分ではなくそれで終わりではないからです。なぜならこれらの考え方はすべて最終的には現実の政治機構、現実の天使長的な機構、現実の文明、現実の世界のシステムとなるからです。それが圧政となろうと自由と責任となろうと、最終的にはすべての人の生活に適用されることになります。
1日中かけてもこれを学ぶ事ができるでしょう。もしかしたら深く理解できた人は少数かもしれません。たとえそれを追及したとしても。なぜならそれだけ中身の濃い内容だからです。たくさんの本を、何千、何百ページと読まなければならないのです。率直に言ってほとんどの人がやらないでしょう。99.999999パーセントはやらないと言えます。
しかし、どのような文明を作るのかということは重要ですので、私達の政治的な見方は非常に重要です。キリスト教の信仰がどのような政治的な見方を作り出すのか。このように様々な宗教を持ち出せばそれらが中央集権のキリスト教会、中央集権のキリスト教から来たものであることに気づくでしょう。もちろんそれが悪を作るのです。イスラム教や科学的進化の神は言うまでもなく。
もう一度言いますが非常に多くの論説、ポイント、評価などがあるので最終的にどんな文明をそれが作るのかという事が重要です。それが王国の福音について異なることです。これが私達の主張でそれに対してあなたの主張はこうで、これは合理的に言えることだなどという事だけではなく、それがどんな文明を作るのか、それが人間の自由と責任にとって最高の場所を作るのかといった事も見るのです。
彼は好んでカトリックの歴史的な国であるとかヒトラーがカトリックに熱心で教会が助けたとかいった事を述べます。その通り、私達は中央集権の国の運営するキリスト教には反対です。欧米の教会ですら多くがそのように国営のようになってしまって国に味方したメッセージのみを出しています。なぜなら天使長によって圧倒されたからです。
しかし、宗教や宗派が問題ではなく神様との関係が重要だとする非中央集権のキリスト教は、直接、自由意思、自由な選択と責任へとつながるのです。それが人間の運命でありこの星に住む者の運命なのです。
このような弁証学というものは少なくとも精神を活発化させます。若い人達はこれを勉強することを勧めます。しかし、たくさんの勉強をしなければなりません。怠けすぎてできなければ・・・、おそらくほとんどがそうでしょうが。
私も専門家ではありませんし、ウィリアム・レイン・クレイグは私の何百万倍もの知識を持っています。私も彼が習得したすべての弁証学のトピックに費やした労力に及ぶほどの内容を読んでいません。しかし、それを追及する人のためのリソースはあります。
本当に勉強するのであればすべての内容を読んで、すべての反論を読んでそれを証明しなければならず、それでやっと何かを主張できるようになります。
このように消えつつある知識を習得して議論を行い合理的な証拠を持つというなら、それは討論ほど簡単ではなく、非常に深く、大量の本を読む必要があり精神的にも知的にも大変な苦労が必要であり、多くの時間を費やす必要があります。もしあなたそのようになれるのであれば、それは良い事です。神様はあなたを用いるでしょう。
しかしながら私はウィリアム・レイン・クレイグがすべての無神論者を納得させるとか、ウィリアム・レイン・クレイグがアメリカと世界で自由主義運動の発展に責任を持って来たとかそのような幻想を持ってはいません。そうではないのです。なぜなら彼は最終的には神学的哲学的な思想にのみ焦点を当てるようになるからです。
それらは重要であり政治的な見方の基盤となります。しかし最終的に政治的な見方と正しい政治的な理解と解釈が非常に重要なのです。
霊的な事だけでなく政治的な事にも言及することが重要です。なぜなら政治的な解釈が重要であり、現実の政治が現実の文明につながり、現実の文明が地上地獄にも地上天国にもつながるからなのです。
いつもキングズレポートでやろうとしている事がそういう事です。私は弁証学の一端を経験してそれがどれほど中身の濃いものかを知って欲しいと思います。これは非常に浅く表面的な討論です。実際はその一つひとつが何千ページにもなる内容なのです。
クリスチャンは合理的な意見を持っていません。討論の中でもちろん見ることはできますが、深く探求すればするほど多くの無神論者が・・・。20世紀の最高の無神論者であるアンソニー・フルーのように・・・。彼はすべての主要な無神論者の先駆者でしたが、死ぬ前に、「私は神が存在すると認めなければならない」と言いました。
もし本当に勉強して投入し、深く検証しようとするなら・・・。ただ討論を見て自分はクリストファー・ヒッチンズの言っている事が好きだと言うだけでなく・・・。そのようなことはありません。あなたはそれを証明する事すらできません。怠けて逃げようとしてはいけません。誰もそれを受け入れないからです。
ここにいる人は皆武装しており、分かっています。そのような主張をするなら深く掘り下げることができるべきです。人々はあなたに挑戦するでしょう。
弁証学は非常に重要です。聖書には、私たちは自分の信仰を、なぜそのような事を信じるのか進んで証しすべきだとあります。しかし何度も言いますが、それは合理的な事だけではないのです。私達の個人的な経験もまた重要です。それが5つめの議論であり、個人的経験の事なのです。
彼が言う理由は、そして彼はそれに言及していませんでしたが、もし私に個人的な経験がありそれが間違いだと信じるに足る十分な理由を持っていないのであれば、それが真実だと信じる理由を持っているという事です。
例えば誰もがいつもイエスの幻を見たとか、クリシュナの幻を見たという話をします。ムハンマドの幻を見たとか等々。それがすべて真実だと言えないのでしょうか。言えません。その前に4つの主要な議論があります。宇宙論、目的論、歴史、道徳などです。それらの議論が基礎です。それらは私達の経験における信念の知的で合理的な基礎なのです。ですから、もしあなたがこれらの議論を最初にすべて誤りだと証明できるのであれば、経験は重要でないと言えます。しかしながら無神論者は、宇宙論的な議論を克服できず、目的論的な議論を克服できず、歴史的な議論を克服できないのです。
誰も客観的な道徳価値に基づく道徳論的な議論に勝てません。ですから彼は私の経験が間違っていると言える合理的な証拠を持っていないという事です。
それで私たちは神様との経験を持っていますので・・・。ですから私は、人々は呪われていると言っています。自分自身の頭の中でそういう意味で自分は幾分呪われていてこの事を切り抜けなければならないのだというように。神様との体験をしてそれを感じて分かるという人々もいます。
私が若い時の事です。自分は神様が本物だという体験をする必要があると思いました。これは本物だという証拠を持っているだろうかと。科学者が言うようにそれは希望的な思考の投影なのだというようなことではありません。それは本物でしょうか。その論拠は何でしょうか。それが弁証学なのです。
神様について明確にならなければ讃美歌を歌う事も難しいのです。あなたが神を信じることが、ある種の迷信か、ヒッチンズがいつも馬鹿にしていましたが、自分の属するコミュニティや親が継承した信仰のようなものだと思うのであれば、讃美歌を歌う事でさえ問題があるのです。自分の頭の中で2つの考えに分かられて自問します。祈祷するときでさえ別々の考えが反目し合います。
もしあなたにそれが当てはまるのであれば、なぜ神を信じるのか、なぜ神が存在するという主張がより合理的なのか、という強い合理的な基礎を持つことが重要なのです。それで神様を経験すると頭の中でそのような議論に変える事ができ、自分の中の反対側の考えと戦う事ができるのです。それは大学教授や大衆文化、相対主義、文化的無神論によって植え付けられていたものです。それはもちろん社会的な進化論などにつながるものです。
無神論者がどれほど進化論に言及するか注意してください。進化論の確かさについてどれだけ言及するか注意してください。まるでそれが宗教的な教義であるかのようです。
ウィリアム・レイン・クレイグが、私達はマトリックスの映画のようにコンピュータープログラムの中にいるかもしれないという統計学的な確立について示しただけで・・・。それはイーロン・マスクです。世界でトップクラスの技術者の1人です。進化が起きたとするよりもその可能性のほうが高いというのです。
彼が、頑なに進化について話し、それが絶対的に真理だと言っているのを見たでしょうか。
現実は人々が怠惰すぎてそれをやらないという事なのです。私はすべての本を読んだというわけではありません。もちろん違います。ウィリアム・レイン・クレイグは遥かにたくさんの本を読んでいます。いくつかの課題については、私はまだ新参者です。私も探求しようとは思いません。その課題について更に1万ページも読みたいと思いません。そういう意味では人々がどう感じているか理解しています。
しかし主要な教義に関してはそれがどこから来たのかを知る必要があると思います。それを知らずに宗教やキリスト教を批判しないでください。追及し証明してください。もしそれが明確でないなら、神様を賛美する歌を歌っても「私は一体何をしているのだろうか」と思うでしょう。
私は何か狂信的な宗教の中にいるのでしょうか。合理的な思考を持たない雰囲気の中に。そうではありません。弁証学と信仰を成熟させた人々が賛美の音楽で称えるのは理由があります。ウィリアム・レイン・クレイグは讃美することを愛していました。なぜなら彼は神を信じる事、聖書の神が最も理に適っている事についての非常に合理的な議論を深く理解していたからです。
彼が賛美歌を歌うときも、すべての膨大な知識を持っており、また彼は無神論者側の主張もすべて聞いていながら世界の頂点の人々に対して論破することができるので、自分の信仰に確信を持っているのです。
すべての人がそのレベルに達するべきだと言っているのではありません。私もそのレベルではありません。私の講義もほとんどが彼の業績に基づくものです。しかしそれはやはり役に立つのです。なぜなら私たちは社会的に、この物質世界を超えるすべてのもの対して敵対的な文化によって、文化的に攻め立てられているからです。
もちろん無神論、物質主義、ダーウィニズムの結論は100パーセント、クリストファー・ヒッチンズが言っているような事であり、彼は、自分は知性があり不可知論であり、賢い人間であり、あなたの主張は馬鹿げていて、私の主張は(その主張はウィリアム・レイン・クレイグを揶揄しているだけで実際議論になっておらず、主張であるかのようにしようとしているだけなのですが)・・・。それで彼が言おうとしているのは、知性的な科学者は私のように考えているのだ、という事なのです。信じるのは自由ですが、それは嘘と妄想のファンタジーの国に住んでいるということだと言っています。
こういうわけでエリートは、学術界は権力を持つと必ず共産主義、社会主義、全体主義を作り出すのです。100パーセントそうだというのです。
特別な知識を信じる人々、また超最高レベルの知識人は、中央集権の権力、天使長的な権力を作ろうとします。そしてもちろんそれが地上の地獄を作り出すのです。どのようにして他の人々を支配するのかということに結びついた思想なのです。
キリストにあって自分たちの世界を他人に押し付けようとしないのが真実の人です。神様は私達に自由意思を与えました。神様は私達に、神様を選ぶのか拒否するのか選択する自由意思を与えているのです。最終的に私たちが責任を持つのです。最終的に自由意思が生きていても真の責任があります。
そして自由を築く文化では、このような話し合いと討論が許されていますが、また責任が。道徳的な文化だけがあるのではなく、様々な意見を許す文化もありますが最終的に無神論者がやろうとする偽りの見せかけに曲げられることはありません。彼らはまるでクリスチャンが自分たちを禁止したいと思っているとみんなに言うようにします。相対主義自体がまったく不寛容な考えであるのに。自分たちの主張が絶対的真理で、それ以外は違うというのです。
深く探求すればするほど圧倒されます。重要なのは、思想が文明を作り、文明は本に基づいているという事を忘れてはならないという事なのです。すべての文明が本に基づいています。ヒッチンズの文明、20世紀の文明は本に基づいていました。聖書に基づいていたのではなく、もちろんコーランは別ですが、本に基づいており、それはダーウィンにせよ、フロイトにせよ、ニーチェにせよ本に基づいていたのです。
どの本に従うかが現れてくる文明の性質を決定します。そういうわけで神様の王国では本が聖書に、原理に由来し、同じ根源に由来することが重要なのです。それが私達に自由と責任を与え、宇宙を創造した同じ神様が彼を拒否するか受け入れる選択肢を与えているのです。それが愛、慈悲、恩寵そして満足を与えてくれます。同じ神様が私たちの持つ疑問に合理的に取り組む許し、弁証学を推し進め、そのすべての過程で私達を受け入れて自重させてくれます。そして私達が神様を分かるとき、彼の臨在に納得するとき、私たちはまた別のレベルで神様を体験できるのです。
天聖経を読みましょう。
天聖経1619(英語)
天と地の国が、愛によって一体化しなければならないのです。このように 皇族圏さえ成すようになれば、霊界に行っても地上に行っても、すべての中 心になるのです。
ですから、どこでも一体を成せるのです。(232-326,1992.7.10)
神様の王国に含まれ、神様の愛のゆえに私たちは真理を語ることができ、困難を乗り越える事ができ、弁証学を学ぶ事ができ、神様の政治的な王国について、王国の本質について説くことができます。そして私たちは目覚めた人々を、精神的にそして肉体的にもとりこになっている人々を、神様の地上天国に連れてくることができるのです。
天一国憲法における天使長の、サタンの抑圧からの解放です。すべての栄光を神様に捧げましょう、アーメン。
翻訳:BAMBOOS
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