2019年4月7日英語説教(2―最終回)

2019年4月7日 日曜礼拝 英語説教

翻訳:BANBOOS

ピッツバーグ・パイレーツという野球チームのことでひどい話があります。試合の直前に全員を立たせました。それで癌に対抗するという署名をさせたのです。スタジアムの全員がこう復唱させられました。「私や私に関係する人はいずれ癌に侵されます」。

全員に復唱させたのです。なんという狂った話でしょうか。要するに自分は癌になると宣言しているのです。そこにいた人から聞いた話です。癌と戦う財団が全員を立たせて、癌との一致団結した闘いとしてこれを宣言するよう求めたのです。自分か自分の愛する人はいずれ一生のうちで癌に侵されると。まるで地獄からの合唱のようです。

みんな「私は癌で死ぬ。癌よ、私を殺せ」と言っているわけです。なぜそれに従うのでしょうか。

そこに牧師が居合わせていて、第1に私はそれを言わないと言いました。次に全く愚かにも全員がその通り言ったあとで、その牧師は立ち上がって反対のことを言いました。実際何と言ったかははっきり分かりませんが、反対に自分はそれを言わないし、聖書にあるように死ではなく命を選ぶという話をしたのです。

彼らが言わせようとしたことを考えてみてください。たとえ病気や癌になることがあったとしても、なぜ癌を歓迎するのでしょうか。なぜ精神的に黙って従うのでしょうか。私はノーと言いたいです。聖書にあるように私は長く生きます。神様が計画されているように。エレミヤ書29にあるように。傷つけることはなく繁栄をもたらすとあるように。

しかし実際に野球場で人々にこれを復唱させていたのです。何という破滅的な行為でしょうか。幼い子供が復唱していたとしたらどうでしょうか。彼らがいずれ癌になると宣言していたら。

神様のみ言を宣言したらいいのに。死ではなく生を語ったらいいのに。私を強くしてくださるキリストによって何でもできると言おうではないですか。私は臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊に満たされていると言おうではないですか。聖句を言えばいいでしょう。

大衆を死ぬように、死に取りつかれるように教育しているようなものです。キリストにある者はすでに死に打ち勝っています。我々は死の奴隷ではありません。我々は死を恐れません。キリストによって死を克服しているのです。死に悩ませられることも、恐怖することもありません。

いつか死ぬということは分かっています。しかしそれが我々の命を支配することはありません。神様は生きた神様です。神様は我々の命を支配され、我々と共に生きておられます。我々は死に取りつかれていません。毎日生きた神様と共に生きています。

力に満たされ、愛に満たされ、聖霊、そして情熱に満たされています。キリストが罪人の贖罪のために情熱をもって歩まれたように。

我々は死に取り付かれてはいません。みんな携挙されて天国に行って全ての患難から逃れようとは言っていません。それはロックフェラーの支援を受けた異端の神学校で教えられていることです。

患難前携挙説という異端であって、牧師が政治的な発言をするのを違法としたジョンソン法と共にクリスチャンを受け身にするためのものです。

(略)

神様を信じる人たちは命と力に満たされなければなりません。そういった死と敗北の宣言を信じる必要はないのです。我々は我々に対する神様の宣言を信じるべきです。王と王妃。国に対する権威。鉄の杖。羊飼いによる統治。ポイマイノ。正義。――まず神の国と義を求めよ。そうすれば全ては加えられるだろう。我々は死を追求しません。生きた神様、生きた神様の王国を追求します。

マルクス主義者と共産主義者を怖がらせることは、我々が命を追求し、王国のために死をいとわないということです。

人々が文化として死を恐れるなら、常に彼らを支配するために死の脅しを利用できます。しかし死をもはや恐れることがなければ、死の脅迫も力を失います。そのために中央集権の政府、マルクス主義の政府、共産主義の政府は生きた神様の力を憎みます。なぜならそれによって人々はもはや国と死を恐れなくなるからです。

国が権力を持つのは単に銃と致死的なもので脅して人を従わせることができるからです。税金を払わなければ訪問を受けます。収税者に抵抗しようとするなら殺される可能性もあります。中央政府による修正条項や声明は全てが死の脅迫です。法に従わなければ罰を受けます。あなたの人生は深刻な損害を受けます。深刻な変化がもたらされます。例えば牢屋に入れられるとか、抵抗すれば殺されるかもしれません。

こういうわけで建国の父はいつも我々に中央集権と政府について警告しました。というのも歴史上それが最大の加害者となってきたからです。地元のギャングよりも、地元の強盗団よりも悪いのです。中央政府が歴史上最も危険な組織になりました。

ペルシャ王やエジプト王、中東の全体主義の国家、北朝鮮などどの国であってもそうした国から・・・今や民主党がここで全体主義を築こうとするにまで至っています。それは同じ危険性です。

しかし、だからこそ建国の父は自由と独立を守るために王の権利を我々に与えました。建国の父が人間の善の性質を信じていなかったのを知っていましたか。彼らは人間の悪の性質を信じていたいのです。それは否定的だ――いやそれは現実的なのです。なぜなら人が重荷から解放されて権力を持つ時、悪になるからです。

建国の父は人間の悪の性質を信じていました。なぜならヨーロッパでそれがいかにして全体主義者になるかを見て来たからです。彼らは明確に悪について書きました。実際に憲法のことを人間に対する鎖と呼びました。要するに人間の心の中の悪を憲法の制約で縛りたかったのです。

世界で最も自由な憲法は人間の心の邪悪さに対する理解に基づいていました。興味深いとは思いませんか。

神様には善の性質があります。しかし人間には悪の性質があります。人間の悪の性質を理解することが重要です。そうするとなぜ人間が絶対的権力を決して持つべきではないか理解できるからです。神様だけが持つべきなのです。

神様は善ですが人間は悪です。余りにも欲望が多く、誘惑が多いです。しかし人間が善の創造主である神様と協調し、例えば天一国憲法によって自分を制限するなら、善の性質が引き出されて悪の性質は縛られます。

ところが全体主義のマルクス主義では悪の性質が解き放たれて善の性質が縛られます。興味深いと思いませんか。

人間の事情に対する建国の父の視点は、こうしたニューエイジのグループとは完全に反対でした。それがクリスチャンの偉大な見識です。それは人間が罪深いということです。

我々は神様に対して反乱を起こし、神様から背を向けました。そのため我々には贖罪が必要であり、恩寵が必要なのです。なぜなら我々が根本的に神様との自由の代わりに罪を選んでしまったためです。神様による自由ではなくサタンによる奴隷となることを選択しました。

ですから天一国憲法を見れば、それは人間の悪の傾向を理解した内容なのです。そのためアメリカの憲法よりもさらに多くのチェック&バランスがあります。重荷から解放された人間が悪となり、神様を失って神様から背を向けるということを深刻にとらえているからです。

人間は決して究極的な権力、絶対的な権力を扱ってはなりません。神様の愛を選択しなければなりません。権力ではなく神様の愛です。創造主に対する愛、父に対する愛、キリストとの関係性における愛、それが永遠にあなたを満たすものです。

興味深いことに、教会は罪について語ることができません。不倫や同性愛はいけないと話すことができません。教会は左翼の教会となってしまい、罪について語ることができないのです。イエス様の名前を呼ぶこともありますが、左翼の原理、左翼の文化を教えています。DNC(民主党全国委員会)やヒラリー・クリントンと協調しています。教区民を共産主義に、政治的サタン主義に、地獄に導いているのです。

ナチスドイツはクリスチャンの信者を死刑執行室へと導きました。ナチズムに導いたのです。教会は悪に立ち向かうことができませんでした。

若者たちはいつも誘い込まれます。「我々は全ての人が根本的には善だと信じています」。このように誘導されます。

我々には神様が与えた良心があり、それは善に傾いています。確かにそうです。しかし、建国の父は全ての人たちが罪の誘惑をもっと受けると知っていました。特にさらに権力を得るようになるとますます誘惑を受けます。

我々は神様の大きな痛みとなっています。神様の心情をたくさん刺し貫いています。気難しく傲慢であり、神様に謝りたくありません。認めたくないのです。取り繕います。それが人間の傾向です。

だから憲法は非常に強力な文書であり、人間の権力に対する欲望を制約しなければならないという仮定の上に作られているのです。人間としてそれを求めるのではなく神様との関係性を求め、良い関係を築くべきなのです。共産主義者のように完全な権力を強く望み追求するのではなく。

興味深いのは、自分が完璧でないことを認めるともっと大きな人間になるのです。謙遜になるともっとたくさんの人が協力してくれ、恵みを受けます。

真のクリスチャンは、強いのに謙遜であるために恵みを受けます。自分が恩寵を受けるに値しないと理解していますが、神様は愛によってそれを与えます。その人が偉大なのは神様が偉大だからです。クリスチャンはそのようにして強力な人になります。非常に強力な力なのです。

そのため全ての共産主義者、独裁者はキリスト教を憎みます。またイエス様の名前を憎むのです。ホールでただイエス様の名前を宣言するだけで・・・。中にはとても気分を害する人も出てきて、学校でイエス様の名前を言うのを禁止する法律を作ろうとするでしょう。実際それに成功しています。

イスカリオテのユダは戸口で待ち構えています。ピエロ男は戸口で待ち構えています。識別力。知恵。神様の話を理解すること。その話を自分の話につなげること。そこからみなさんの人生は輝かしい栄光に入ることができます。なぜならそれはあなたのことではなく、神様の話に仕えることだからです。自分の話を神様の話の一部にするのです。なぜなら神様に究極的な勝利があるからです。

神様の勝利は実現します。神様の王国はできるのです。

(おわり)

コメントを残す