聖書は信頼できる古代文献か

6月14日サンクチュアリ教会説教:文亨進師 「神の全身武具」より―


33歳で亡くなり、しかも3年の公的活動しかしていない人物についての文献が五万八千もあるなんて信じられますか。

貧しい家庭に生まれ犯罪人として死んだ人物です、歴史の中で忘れられて当然でしょう。どうしてこんなにも記録が残っているのか。

学者たちが共通に問題視する箇所はマルコ16章の12節から20節です。また姦淫の女に罪なきものが石を打てという部分のあるヨハネ福音書7章、8章についても後代の改ざんを疑っています。初期の文献にはこの話がないからです。

そこで無神論的神学者はこう言います。「ヨハネ7章と8章、マルコ16章には問題があるので聖書は全体として信頼できない」。それらの箇所の問題部分はそれぞれがせいぜい2文程です。逆にいえば、新約聖書全体の中で問題があるのは4から8つの文に過ぎないということです。そのほかの部分は無神論的神学者でさえ文献としての正当性を認めています。

人がこう言うのを聞いたことのある方は手を挙げて下さい。「イエスが十字架で死んだというのも分からない。なぜなら福音書はイエスが死んでからずっと後で書かれたからだ。たとえばマタイ伝は50、60年後、ヨハネ伝は110年後に書かれたものだ。様々なグループが色々な異なる種類の伝承本を用いてそれぞれがそれぞれの仕方で礼拝していた。西暦380年にカトリック教会はそれを一つにまとめてキリストの血と肉を中心として儀式、聖酒による秘跡などを、福音書から選び出しながらミサの形を考案した。それらはイエスが死んでからずっと後に書かれた4つの福音書をもとにしている。」

新約聖書の写本には30万から40万箇所の相違があります。40万のグループがそれぞれ礼拝を行っていたのでそういうことになったのでしょう。しかしそれらの相違の75%から80%はスペルの間違いであり、またマルコで見られるように、彼→イエス→イエス・キリスト→主イエスなどの表記の違いもあります。意味の取り違えはわずか1%以下に過ぎません。そして教義にかかわる相違点は一切ありません。

こういう知識がないとまんまと騙されてイエスは神話上の存在であり旧約聖書は神話だから、そんなものに従うことなく自分達で道徳をつくるのだということになります。ヒトラーなどと同じ考えに陥ってしまいます。

たとえば「私に道徳を押し付けないでくれ。道徳なんてアイスクリームと同じでそれぞれ好きな物を選べばいい。道徳に関して良い、悪いなんて誰も言えない。例えば人のラジオを盗んで文句を言われたら「私は別に盗みは悪いという考えは持っていないから君とは考えが違う」と言ってみなさい。これを道徳相対主義と言って最も愚かしい哲学のひとつであり、頭脳を持つものならば直ちにその誤りに気付くものです。

しかし多くの人が脳死状態に陥って、大学などへ行ってはサタンの根である道徳相対主義の犠牲になるのです。堕落は道徳を相対化したことに始まります。「食べても死なないかも知れません。神様のおっしゃることは真実ではないかもしれません。自分の道徳、自分の法律を作りなさい」などと言って。アメリカはまさにこの荒れ狂うサタンの罠に陥っています。

そこでエペソ人への手紙にあるように神の全身武具を身につけるのです。これによってサタンの狂乱に立ち向かうのです。サタンは繰り返し同じ方法おなじやり方で罠を仕掛けてきます。だから神様は全身武具を下さったのです。

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亨進様の神学―その6

ある韓国食口のサイトに亨進様ヨナ様について一人の食口(二世)がある見解を寄せていました。    『ある韓国2世の感想』 のつづきです。

(*ここで述べられる見解はサンクチュアリ教会の公式見解ではありません。)


私たちは通常、キリスト教の伝統を深く学んでいないので、「インマヌエル・イエス以外の存在をもまたキリストと規定すること」がどれほどとてつもない神学的解釈であるかをよく理解していない。この解釈は、実に宇宙的なものだ。統一神学の中に隠れている、この新しい思想は最高の人間の尊厳についての思想であり、人類の文明の極致であり永遠の希望の福音だ。宗教的論理上、これ以上の神学は存在できない。(ユダヤ、キリスト教に続く)末っ子ー統一教が、自分の意図したことではないが本当に驚異的なことを成し遂げたのだ。

クリスチャンの前で「文先生もキリストだ」と言えば、直ちに異端になるが「文鮮明先生を含むすべての人類は、最終的に神の息子、娘であり、暫定的キリストであり、永遠の命をもつ神的な存在である」と言えば、その普遍性と妥当性のためこれらを批判するのが非常に困難になるだろう。相手が迷っているときに「だから私たちの統一神学こそ最も進化したキリスト教神学である」と言ってしまえば、私たちを決して甘く見ることができない。李萬熙(イ・マニ)の「新天地」のような韓国的新興宗教ではなく、私たちの教会は世界のキリスト教の伝統を継承し発展した「成約のキリスト教」というイメージに変身することができる。

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亨進様の神学―その5

ある韓国食口のサイトに亨進様ヨナ様について一人の食口(二世)がある見解を寄せていました。    『ある韓国2世の感想』 のつづきです。

(*ここで述べられる見解はサンクチュアリ教会の公式見解ではありません。)


堕落は簡単に言えば神様と人間の間の本来の関係、つまり父子の関係が壊れた事件だ。なので、復帰はその関係を回復することが基本目的である。

最初の宗教、ユダヤ教は、神と人間の関係をかろうじて「主と僕の関係」からスタートすることに成功した。予め定められた律法(例えば十戒など)を忠実に生活化することで神様との関係を回復することができた。これが遠い昔に約束された内容、すなわち旧約だ。

二番目の宗教、キリスト教は万年、僕として生きながらも、その罪によって死亡するしかない人間の前に、イエスが「永遠の命をもつ神の息子がここにいる」ということを表示した希望のゴスペルだった。彼を真に信じて従いさえすれば、人間は神様と「養子の関係」を結ぶことができた。このように、新しい約束、新約が成立した。

最後の宗教、統一教会はこれまで、ナザレのイエスにだけ現れた「永生の神の子」の奇跡を全世界的に、人類普遍的に拡大しようとする宗教運動だ。これが成功してこそ、その長い復帰摂理を通じて神様が一条の心で目指してこられた目的、全人類を再び実子として復帰した「親子関係」を実現できる。これは、すべての約束を成し遂げる復帰の終着駅、「成約」だ。

私たちは口では成約の宗教というが、教会の実際のメンタリティがどうなっているか見るには、「一般食口と神様との関係がどうでなっているか」問わなければならない。一般食口を神様の真の子女と見るのか、それとも、養子、養女とみなすのか。あるいは、頭から僕として扱うのか(特に日本食口にみられるような場合)。各自が持っているメンタリティに応じて、我々は、物理的には成約時代を生きながらも、心理的にはまだ旧約や新約時代を生きている可能性があることに警戒心を持つべきだ。

今まで大層な理論を展開してきたが、結論はたいしたことはない― 私たちには既知の「神様の息子、娘」の思想だ。偉大な思想は知ってみれば通常は、普遍的理性と一般良心を再確認する居心地の良いものが多い。だから偉大で永遠な人類の古典になるのだ。神の息子、娘の思想はあまりにも一般的な思想であり、誰もが受容できる肯定的神学である。特殊ではないため、理念化される危険性がない。よって他の宗教と衝突することもない。人類すべてを最高の価値と規定してしまうため、誰が上で誰が下ということを巡って争う余地がない。それで、このような普遍的神学は、すべての神学のバランスをとることができる調和の中心体としての役割を果たすことが可能だ。私は統一教がそのような役割をすることができればと思う。

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亨進様の神学―その3

ある韓国食口のサイトに亨進様ヨナ様について一人の食口(二世)がある見解を寄せていました。    『ある韓国2世の感想』 のつづきです。


キリストは神の息子なのだから、永遠の生命をもっていて当然であろう。なぜ、わざわざ一度死んで復活するという手間をかけたのだろうか?

それは永生性(永遠の命)が完全であることを強調するためだと見ることができる。例えば、キリストがギリシャ神話に出てくるポセイドンのような神だと仮定してみよう。すると「私に永遠の生命を与える生命システムを破壊すると永生が不可能になるのではという懸念が生じる。その疑問を解消するには、その「神」を一度殺して見なければならない。それでも生き返るならその時永生性が確かに証明される。このように、イエスは十字架での復活を通じて自分の永生性を証明した。

この2つの前提を合わせると次のような論理的結論が出る。:「キリストは、永遠の命をもつ神の息子、娘である」

三位一体論でキリストは御父に次ぐ第2位「聖子」(Holy Son)の位置を占めているが、これは私達の定義したキリストの意味と一致する。

家庭盟誓で私たちは「聖子の道理を完成する」と誓っているが、このような神観と同じ観点であるとするならば私たちは毎週「キリスト」になることを約束していることになる。平凡な私に到達できる位置なので感覚上、別段、特別でない位置のようだが、このような神学的、哲学的、道徳的観点からは、この世のどんな偉大な存在よりも偉大な位置だ。ある存在が持てる最高至尊のアイデンティティといえる。くれぐれも、神様の息子、娘は神様と同種なので自分もやはり「神」であることを忘れないでいたい。

日曜日、カトリックやプロテスタントの教会に行けば正面に十字架が立てられている。カトリックの十字架には、血を流しながら死んでいくイエスが磔られており(私はいつも恐ろしくなる)一方、プロテスタントの十字架はイエスが復活することにより十字架上にイエスはいないためすっきりしている。

十字架についての好みはそれぞれ異なるが、2つ共にそれぞれ自分達の十字架を日々見ながら「永遠の命をもつ神の息子、娘」を希んでいる。これが彼らの信仰だ。私たちが嫌悪する十字架刑にはこのような偉大な宗教思想が隠れている。

特定の人間を神と同じように規定する「キリスト」の思想は人類の歴史の中で最も進化した最高の宗教思想だ。宇宙の究極は神だから、人間が神の座にまで上がるならばもうそれ以上行くところがない。ところが、キリスト教神学の限界は「ナザレのイエスだけがキリストだ」という解釈にある。ここに新たに登場した文亨進様の統一神学の偉大さがある。亨進様はこう言う。

「文鮮明師もキリストだ」

つづく

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亨進様の神学―その2

ある韓国食口のサイトに亨進様ヨナ様について一人の食口(二世)が一つの見解を寄せていました。    『ある韓国2世の感想』 のつづきです。


いずれにせよ三位一体神学では、キリストは「王」ではなく「神」だ。いくら神様の偉大な信仰者であるにせよ生まれつき人間であるメシアとはその次元が異なる超越的存在である。単なる神を象徴する偶像的人物や神がかった偉大な人物などではなくまさに「神」であるということだ。普通、三位一体といえば、私たちは”三位”の部分に注目するが、この表現の強調点は後部の「一体」にある。依然として唯一神論だ。だから、イエスと聖霊と神様を他の存在とみなしてはけないということである。三者すべて神であるといっている。

だからここでは「神」も一般名詞として使う。単に、主(ヤハウェYHWH)を指す固有名詞ではなく「究極の絶対神」という意味を持つ一般名詞として、存在の種類を指す単語として用いている。つまり、犬は動物、オ・ジュンハン(筆者)は人であり、ルーシェルは天使、イエスや主は神であるという感じだ。だから、真のお母様が「私は神である」と言われた時「私は世界を創造した主」という意味ではなく「私はその方と同じ種類の神」という意味で言われたのだろう。実際考えてみれば、「すべての人間は、神の息子、娘である」という言葉はキリスト教では一般的だから、「父と娘が同じ種類」と言うのはそれほど大きな語弊を生じることはない。ある呼称が混乱をきたす場合、それらを固有名詞として使うのか一般名詞として使うのかを明確にしておけば混乱を簡単に治めることもできる。

したがって、「真のお父様も、神様であられるのか?」に対する答えも、一般名詞なら「イエス」、固有名詞なら「ノー」である。これが正しい答えであろう。というのも、私の知る限り先輩家庭の証によれば、本体論を聞いていた真のお父様は「私がなぜ神様なんだ!」と怒られたそうだ。もちろん、本体論講師はその時 “神”を一般名詞として使っていたのだろう。亨進様の説教でも、真のお父様と神様は明らかに別の存在として登場するので、この問題のこれ以上の詮索は無用であろう。

とにかく、キリストは神様であるが、「神様ご自身」はない。別の存在ゆえに二人の関係がありうるのだが、三位一体論はそれを父子に設定した。したがって、キリストが持つ第一の意味は「神様に似た神の息子(娘)」である。神の息子は、神様と同じ種類であるためやはり神様だ。

ところが、イエスは自分が神の子であると宣言しただけではなく、「私は神様として永遠の命をもつ存在」ということも証明している。つまり、自分の体が明らかに死んだ状態であることをまず確認させた後、再び復活する奇跡を顕した。これが「十字架復活」の神話だが、イエスがそのようなことを意図としたとは思えないのだが、結果的に永遠の命を証明することになった。

つづく

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亨進様の神学

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”真のお父様は、メシアではなくキリストです。”(文亨進)

周知のように、ギリシャ語「キリスト」はヘブライ語”メシア”を直訳したものだ。 「油を注がれた人」という意味だが、元のヘブライ語の意味によれば「王」を指す言葉だ。ユダヤ人は戴冠式では預言者を通して新しい王に油を注いだ。ところが、初代教会の使徒たちがユダヤ人を伝道するとき「ナザレのイエスこそ、実は我々が待ち望んでいたメシアだった」と証言したのだ。後でイエスの福音がギリシャ世界の異邦人に伝わるとき、訳語「キリスト」が登場し、これをあたかもイエスのニックネームのように頻繁に使い始めた。最終的には、最も人気のあるイエスの呼称として一般化した。現在「キリスト」はナザレのイエスを指す固有名詞である。

ところが、この固有名詞「キリスト」を元の一般名詞に変えてしまった人類の歴史で最初のキリスト教指導者がまさに、私の知る限り文亨進様だ。

第2のレバレンド·ムーン、亨進様は「キリストは必ずしもナザレのイエスのみを指す言葉ではない」と宣言したのだ。 「イエスはもちろんキリストだが、他の人もキリストになることがある」という新たな解釈を出したのである。

驚かせたかもしれない。実は少し誇張している。実際には、キリスト教の異端や異邦宗教、すなわちグノーシス主義やキリスト教神秘主義内では、キリストを広い意味の一般名詞として使う場合が多い。しかし、正統派キリスト教すなわちカトリックやプロテスタントでは、絶対にそういう使い方はしない。なぜなら、ナザレのイエスと別の存在をキリストに規定すれば、すぐに異端があらわれるからだ。キリスト教の教義の核心がキリストという”種”であるためそれを変更すると”種”が変わり”異端”となるのだ。

亨進様は、果たしてその一般的な「異端宗教の創設者の一人」であるのか、それとも「革命的キリスト教神学の始祖」なのか?

私の答えは後者だ。

まず、現代キリスト教神学で言うキリストはメシアではない。最初はもちろん同じ意味で使われていた。
メシアはユダヤ人にとって神政一切の政治首班を意味する。まるで、私たちの先祖檀君王倹のような存在だ。まだ政治と宗教が分離されていなかった前近代的時代に、最高の祭司が国王も兼職する風習の中に存在していた原始的な概念である。だから、原始ユダヤ人がそうしたように、私たちが真のお父様を神政一切の政治首班と規定するとき、私たちの神学は古代に後退する結果を招くことになる。天一国でお父様を「天一国真聖徳皇帝」と称する場合、メシアの臭いが強いのではないだろうか? 高等神学確立のためには、このような面に注意しなければならないと思う。

ところで、本来メシアと同義語であった“キリスト”が一大変身をする歴史的事件の一つが紀元200年頃ヨーロッパで発生する。 当時キリスト教神学者であったテルトゥリアヌス(Turtullian)という人が創造主・神様と、ナザレのイエス、神の聖霊、この三つの関係を規定する論文で、“三人格が一つの実体”という表現を使ってそれを神学的に後押しした。 すなわち、イエスを神様と同等な存在と規定する神格化を試みたのだ。 このとき“三位一体”神観が誕生した。

この人がどのような背景からそのような不合理な考えをしたのかはわからないが、この思想は後のキリスト教神学の中核を占める最も重要な理論とされており、キリスト教が自らと他の宗教を区別する基準になった。三位一体を受け入れなければクリスチャンとはみなされないのだ。「3つの異なる存在が一つ」ということを理解しようとしたとき、私は一ヶ月間というもの頭をかかえてしまった。そうして(理解することは)最終的にあきらめた。これは理解できない外国人の思想であるというのが私の現在の考えだ。三位一体は信じるものであって理解するものではないようだ。

つづく

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