「旧約聖書」はたんなる信仰の書ではない

 


 
『世界を征する「トーラー」の奇跡』(1987)より
 
旧約聖書については、冒頭の『トーラー』と呼ばれるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に続いて『預言書』と呼ばれる歴史記録の部分、それに『聖文学』と呼ばれる詩歌や叙事文との三部構成だ。一般的には、旧約聖書はユダヤ人の信仰の書と思われていて、私もかつてはそう考えていた。だが、ユダヤ人は旧約聖書を信仰の書としてだけ読んでいるのではないのだ。
このことを教えてくれたのは、私がアメリカ・ユダヤ神学学校の大学院でユダヤ哲学・ユダヤ神秘主義の研究をするために留学していた時に師事していたアブラハム・ヘシェル教授だ。ラビでもあったヘシェル教授は、こういわれた。

「旧約聖書は‟人間の失敗の歴史をつづった書“である」

師は現代のユダヤ三哲人の一人といわれたほどの人だっただけに、この言葉は強い衝撃を私に与えた。私は旧約聖書を師のいう「人間の失敗をつづった書」という観点から読み返してみた。するとそこには、師のいわれた通りの世界があったのだ。

ユダヤ人は何度となく襲った人類最大の災厄のなかから、不死鳥のようによみがえってきた。その原動力を、ユダヤ人の「選ばれた民」としての意識に求める人がいる。たしかにそれも原動力のひとつだ。だが、それと同じくらいに、いやそれ以上にもっと大きな原動力となるものがあった。それが、「人間の失敗をつづった書」から学んだ「失敗、挫折、危機からいかに再起するか」という解決方法だ。ユダヤ人はことあるごとに、旧約聖書の世界に思考をめぐらす。そして現在自分たちが直面する危機と、「旧約聖書」に書かれたことをオーバーラップさせる。そして「なぜ…」という疑問詞を入れて、そこから決断や結論を引き出すのである。

そのことは、ユダヤ人が読むヘブライ語の聖書をみると、よくわかる。そのなかでは、いちばん大きな文字の部分がヘブライ語の聖書になっている。そのとなりには中くらいの文字や、全体をとりかこむこまかい文字で「こういう考え方や説もある」という解説がならんでいる。本来、信仰の書というものは絶対的なものが多い。しかし、ユダヤ人は権威に盲従することを神によっていましめられている。
したがって、神の言葉が書かれたものであっても、盲従してはいけないことになっている。自分なりに理解し、解釈することが求められているのだ。

ユダヤ人と議論をすると、長年彼らと生活を共にしてきた私でも、うんざりすることがある。自分の主張を相手が理解するまで話をすることをやめない。その主張を相手が認めるか認めないかではなく、自分の主張だけははっきりさせておこうとするのだ。ユダヤ人が議論好きといわれるのも、権威に盲従してはいけないという訓練を、子供のうちから受けているからだ。

旧約聖書を「人間の失敗の歴史をつづった書」というラビ・ヘシェルの解釈も、一つの解釈である。だが、この解釈のなかに、ユダヤ人の強さの秘密が隠されていると私は思っている。
タルムードを「知恵の書」とするなら、旧約聖書は「決断の書」とでもいえようか。そしてこの二書が、ユダヤ民族の強さの源泉になっているのである。
 
著者:手島佑郎(ユダヤ思想研究家、父親の手島郁郎は無教会主義の流れを汲むキリスト教系宗教団体、キリストの幕屋の創始者)
 
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ダビデについて

言語や文字はその文化と切っても切れない関係があるのは当然だ。

旧約聖書(ユダヤ人はトーラーと呼ぶ)はヘブライ語で読んでみて始めて分かることもあるらしい。

 

 

 

 

 
 
ダビデのことを日本語訳の聖書は、「彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった」と訳している。「血色のよい」と訳された箇所は、原書では『アモドニー』と書かれている。『アモドニー』とは「英語のRED,つまり赤い」という意味である。すなわち「血色がよい」のではなく「赤毛」なのである。ユダヤ人もそう解釈している。

赤毛ということは混血児だったことを意味する(ユダヤ人の髪は黒い)。旧約聖書の異伝である「アガター」にはダビデは”めかけの子”であったとはっきり書いてある。ダビデが羊を飼っていたのもこのためだ。     

―手島佑郎・ユダヤ哲学者(世界を征する「トーラー」の奇跡より)

ヤコブの兄、エソウ (עֵשָׂו)の子孫はエドム人と呼ばれたがまさにエドムは(אֱדוֹם)で「赤」と言う単語そのもの。アドモニーもその派生語だ。

神様の復帰のパターンは貫徹している。
 
 
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