【コラム】なぜ「王国の福音」は無視されてきたのか

文:管理人Harry

 

説教「鉄のつえの王国シリーズ」で文亨進師は、毎回のように、イエスが地上で自分の口で、自分の声で、伝えたメッセージは、十字架による救いではなく、来るべき天国(御国)の到来を告げ知らせるものであったと繰り返した。

まるで新約聖書の中に、まったく性質の異なる2種類の福音があるかのように思い混乱した人もいるかもしれない。

だが事実はまさにその通り。新約聖書の中にまったく性質の異なる2種類の福音が存在するのだ。

これは「アポロ計画で人間は、実は月に行っていなかった!」などという類の際物(きわもの)的、あるいは陰謀論的な論説ではない。

それでは、教父アウグスティヌスから、中世スコラ学の代表的神学者トマス・アクィナスを経て、現代神学に至るまで知性も霊性も高い優れたキリスト教神学者はこの事実に気が付かなかったのだろうか。

これについては正直、筆者の手に余る問題なので沈黙するが、しかし、今から百数十年ほど前にこの2つの福音の問題が大きな議論を呼んだことは知っている。福音の二重性の問題だ。

たとえば哲学者ニーチェはパウロを詐欺師と呼びこう語っている。

 キリスト教徒はたった一人しかいなかった。
 そしてその人は十字架につけられて死んだのだ・・・
 以後「福音」と呼ばれたものは、この人物が身
 をもって生きたものの反対物だった。
 (ニーチェ『アンチクリスト』より)

また、「狭き門」で有名なフランスの小説家アンドレ・ジイドは「田園交響楽」の中でこう述べている。

 ジェルトリュードの宗教教育は、私をして新たな眼で
 福音書を読み返させた。読むにつれてますます、
 我々のキリスト教の信仰を形造っている多くの概念は、
 キリストの言葉ではなく、聖パウロの注釈による
 ように思われてくるのである

地上で生きた実体のイエスのことを神学者は「歴史的イエス」と呼ぶ。「肉における」イエスである。この「歴史的イエス」の問題を先鋭的に取り上げたのは、ハルナックの「キリスト教の本質(1900)」を代表とするいわゆる「二重福音」の主張だった。

そこでは、福音は「イエスの福音」と「イエスについての福音」とに区別されるべきであり、前者は主として「父なる神」や「神の国の到来」や「より高き義」等を中心内容とするイエス自身の宗教であり、後者はイエス・キリストの死と復活とによる人間の贖罪を中心内容とするパウロ的な宗教であると主張される。文亨進師が声を大にして説くのはいうまでもなく「イエスの福音」である。

ドイツのルター派の神学者ウィリアム・ヴレーデ(1859-1906)もこの両者の対立を認めていて、「イエスの説話や比喩の中に生きている宗教を描こうとする者は、贖罪宗教について語ることなどは思いもよらない」といっている。ヴレーデによれば、パウロがイエスより離れているのは、イエスがユダヤの宗教より離れているよりもさらに遠いのである。「イエスかパウロか-この二者択一をもって少なくとも部分的には現代の宗教的神学的戦いは表現される」とヴレーデは言う。

19世紀の終わりにこの問題が提出されるや当時の教会と神学界は異常な衝撃を受けた。しかしそれにもかかわらず、その後この衝撃の波も次第におさまり、20世紀の半ばにはこの問題全体が忘れられてしまったようであった。

なぜ生涯一度もイエス(当時の西アラム語の発音ではイェシュア)に会ったことのないパウロが、ほとんど一人で作り上げた神学、パウロによる十字架と復活による贖罪の福音を2千年間、重んじてきたのか。重んじるのは問題ないとしても、実体のイエス(歴史的イエス)が自らの口、自らの声で懸命に説いてまわったイエス・キリスト自身の福音よりも格段に重んじてきたのは一体なぜなのか。キリスト教世界ではAD325年のニカイア公会議以降、公式的に御父(神)と御子(イエス・キリスト)は「同質」すなわち「キリスト=神」だとして扱っているのに。

この問題は統一原理の摂理史観によって解決を見ることができる。すなわちイエス・キリストによる人類救済摂理にはAプラン、Bプラン、Cプランまで予め用意されており、Aプランが駄目ならBプランに移行し、Bプランまでもダメな場合はCプランが遂行されるという摂理の行程だ。Aが最も望ましいことはもちろんである。

「イエスの福音」と呼ぶべき「父なる神」や「神の国の到来」や「より高き義」等を中心内容とするイエス自身の福音はAプラン、あるいはBプランを達成しようとしていた時期のイエスのメッセージであり、肉体をもってイエスが生きている間に、神の国を築く可能性が残っていた時期だ。

しかし摂理歴史の現実は、サタン勢力がA、Bの両プランの達成を阻むことに決定的に成功した。そこでキリストは霊界に行って、霊界から聖霊の役事を通して神の人類救済の摂理を遂行するというCプランに移行する。そこにおいて霊界のイエスから召命された人物がパウロだというわけだ。その意味でパウロは摂理のCプランを遂行した地上の中心人物である。

イエスの復活以後、その魂が救われてきたあまたのキリスト教徒たちは、現実に聖霊の役事を目の当たりにした者、あるいは伝え聞いた者たちである。イエスを中心とする神の計画が、上記のCプランこそ「始めであり終わりである」と考えても何ら不思議ではない。神の計画としての計画にAとBがあり、CはAとBの目的は果たすことはできないが、とりあえず摂理を先延ばししながらも継続できるという「応急処置」レベルの神の計画であったことなど想像もできない。

実際に、イエスが十字架で死に3日後に復活した、という内容を心から受け入れるとき、具体的に魂の復活を体験するのだから。自己の体験以上に説得力のあるものはない。

それに加えて、ヨハネ福音書3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この聖句が神の愛の根源的表現だと信じるのがスタンダードになっている。

十字架の贖罪摂理はCプランであったと言われて素直に受け入れることができないのは当然であろう。だからAプラン、Bプラン、すなわち地上で天国を建設するという気概をもつイエスの荒野の叫びは、贖罪神学、パウロ神学の徒であるキリスト教徒にとって少々、不思議な響きを持つに違いない。

イエスが人類の救い主であることをキリスト教徒は受け入れている。そしてキリストが「私はまた来る」といった再臨の約束も、時代によってその熱意に温度差があったとしてもキリスト教徒は受け入れ、再び来られる主イエスを待望している。

ここで少し考えてみてほしい。命にかかわるような大けがをした病人の前にいる医者が「私はまた来るので少し待っていてください」といって部屋を出ていったとしたらどうだろう。
この医者は、欠損した人格を持つ人か、そうでない場合、何かしら深刻な事情を抱えた人であるかのどちらかだとみることができる。イエス・キリストは余程のことがない限り患者の治療を途中で放っておいて部屋を出ていく人ではない。

AプランはいうまでもなくBプランまでもが、もはや遂行不可能になった。これを知るとき、ゲッセマネにおける血を吐く祈りも理解できるというものだ。

人類が再び、地上天国、上のたとえでいうAプラン、あるいはBプランの希望を持てるときこそ再臨期に他ならない。三代王権は、縦的キリストが横的に展開した姿である。アブラハム、ヤコブ、イサクの神は、文鮮明、文亨進、文信俊の神であられるのである。この再臨主の血統、三代王権の二代王文亨進師が、御国の福音を熱心に説くのはイエスが御国の福音を血を吐く思いで説くことと同相である。
 
 
参考文献;北森嘉造「神の痛みの神学」(1946)
 
 
*この文章は管理人がサンクチュアリ通信に寄稿した文章に手を加えたものです。
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【コラム】なぜ「王国の福音」は無視されてきたのか」への3件のフィードバック

  1. ロード の発言:

    サンクチュアリ信徒のみならず、クリスチャンにも見せられる格調高い文章だと思います。ありがとうございました。2点意見させてください。

    1点目は、AプランとBプランの違いが分かりずらく感じました。Cプランがパウロ贖罪神学であることに紛れはありません。私は、Aプランとは、洗礼ヨハネも聖母マリアも失敗せず、イエスが順風満帆に摂理を進めるプランであり、Bプランとは、ゲッセマネで3弟子が眠らず、イエスは十字架を免れて生きてみ旨を進めるプランであると解釈しました。

    もう1点は、ヨハネ福音書3章16節に修正された方がよろしいかと思いました。

    by ロード

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  2. お邪魔します の発言:

    Aは洗礼ヨハネを中心とした聖職者伝道で、Bは我々のようなこじきや漁師達の様な心の貧しい者達(12弟子)による伝道ではないでしょうか?

    いいね

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