一人に起こったことは、全体に起こったことになるのです。-9月30日日曜礼拝 英語説教(その3)

Sunday Service   September 30  2018   Rev  Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vieo.png

9月30日日曜礼拝 英語説教 2018年 

翻訳:Harry

今日のみ言を読みましょう。
今日、み言に飢えている人はどれだけいますか。
私たちはみ言に飢えた、み言に渇いた者たちです。
お腹がすいている時、待ちに待った食事が出されて、それを食べたとき体の内から何とも言えない力と喜びがわいてくることを知る人はどれほどいるでしょうか。またその食事を作った人にも同じく、その喜びが流れ入るのです。 アーメンですか。

ローマ人への手紙第2章を読みましょう。(ここで話が変わる)

原始教会は、天から降りてきて、皆に触れる神様の霊に満ち満ちていました。
韓国の写真を用意して下さい。私も忘れてしまったので、私に見せてください。

(ビデオの中で写真は流されない)

これは聖霊によって火のついたソウル聖殿の様子です。聖霊の火がつきました!  

ハレルヤ。

人びとは聖霊の火を与えられ自由を得ました。神様のアノインティングに触れたのです。

驚くべきことです。ずっと続きを見せてください。
人々が集まったときに神の火を受けたのです。凄い証が届いています。ある人は神霊に触れて笑いが止まらなくなったり・・私はただの道具にすぎません。ただ委ねて従順に神様に従っているだけです。私は何もしていません。神様が触れられたのです。中にはただの演技だという人もいますが、それは違います。神様が触れたのです。神様が触れる、このことだけが人々に火をもたらすことができます。ある訓士(フンサ)は手が燃えたようになり、指先が焦げていたといいます。燃やされて指先が黒くなっていたのです。また別の訓士は、顔が日焼けしたようになり、あくる日の朝、起きたとき、日焼けで顔の皮がむけるように、顔の皮までむけたといいます。

ある人がこう言ったらどうしますか。あの人はいいな、自分もあの人と同じ体験をしてみたいものだ・・。それは間違った思いです。一人に起こったことは、全体に起こったことになるのです。それは全員に送られた賜物だというのです。あなたの祝福でもあるのです!
(拍手)
誰かが(神様に)触れられ、誰かが奇跡を見たとしたら、それはわれわれ全員の祝福なのです。アーメン。

今、ソウル聖殿の人びとは燃え立っています。人々の心に火がともされ、山火事のようになっています。

立ち上がりたい人は、どうぞ立ち上がってください。
私に一人立たせて、皆さんの前でエンターテインメントをさせないで、(動き回りたい人は)私に言ってください。

ローマ人への手紙第2章にいきましょう。

この章が扱っている対象が面白い。何だと思いますか。異邦人を扱っているのです。ユダヤ人ではない人です。いいですか、ユダヤ人だということは、神の約束を約束されているということです。アブラハムとの約束、約束のものを約束された民族です。だからユダヤ人がどういったかというと、「我々こそ約束された民族ではないか、どうしてこの新しい民(異邦人)に約束のものが与えられるのか」というのです。

だから皆(ユダヤ人)怒り出しました。

「ダメだ、ダメだ、イスラエル(ヤコブ)の祝福を受けるのなら、あなたたちは先にユダヤ人にならなければならない」。

「(祝福は)あなたたちのものではない。ユダヤ人とエルサレムに与えられたものだ」。

いいですか。原始教会にはまだ新約聖書がありません。いくつかのコミュニティに、それぞれ断片的なものしかまだありませんでした。ヨハネのグループには、ヨハネのものだけ、というように。とにかく新約聖書のような全体がなかったのです。だから彼らの信仰は、モーセ五書(注:旧約聖書の初めの5巻、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を基盤としていました。旧約聖書です。その神の律法を見て、それをもってイエス様を非難したのです。主としてトーラー(モーセ五書)を手にすることができた人々です。

ここが興味深いところです。当時の彼らには、私たちが持っているような新約聖書がなかった。この素晴らしい書、ちなみに私はこの防水迷彩柄カバーの新約聖書詩編をいま手に持っています。これはすごくて、水の中に落としても、びくともしない。(笑)
インクも滲まないし、流れて消えない。新品のようです。

原始教会は、この素晴らしい、キリストの新約聖書をまだ持っていなかった。しかし、使徒を通して、また証を通して、知ることができました。実際に体験した人から知ることができた。キリストを受け入れ、聖霊の賜物を受け入れた人から知ることができたのです。当時はそうやって知ることができました。もちろん旧約聖書も学んだことでしょう。神様の価値、神様の本性の中に存在する性質や、長い時間をかけてどのように人類を導いてこられたのか、時の始まりからエデンの園での誘惑などを学んだでしょう。つまり彼らが持っていたものは旧約聖書なのです。

だからこれは大事件だった。なぜなら新しい人たちが入ってきたからです。旧約を学んできた者たちは、「祝福を受ける前にまず、割礼すべきだ!」と主張しました。何度も何度も割礼されることが好きな人もいることを知っていましたか。ある人などは教会に行って5回も割礼を受けたといいます。もう割礼を受ける、理由も見つけられなくなる。(笑)

宗教へのこだわりが忍び込んでくるのです。ロマ書第2章を見ても分かります。これが忍び込んでくる。なぜならイスラエルに約束されたものを与えられるべき者たちは、それが異邦人に与えられるのを見て、妬ましく思ったからです。異邦人に救いが与えられることが妬ましかった。あなた方が来てキリストの救いを受け、変えられて、救われることが
赦せないと。だから憤った。怒ったのです。

「おい、どうして彼らは割礼を受けないのだ!」「彼らはカーシェール(ユダヤ教の食のタブーに従う食物)以外のものを食べるのか!」などなど。

皆、宗教に縛られてしまっていた。キリスト教は宗教ではなく、それは解放であり、関係性です。解放と、神様との関係性、そして神様の解放です。宗教ではないのです。

だからパウロはローマの教会を叱責しました。そこにどんどん新しい人が入ってくるのに、変わりたい人びとが大挙して入ってくるのに、どうなっていたかというと、かつてのパリサイ派のような人が押し出てきた「彼らはこれをしないといけない」「どうやって、あれこれを確認するのか」などと言って、その信仰を信じようとしなかった。だからといって愚かでいいとは言っていません。教会の部屋の中を少女が男の子と寄り添いながら歩くのは問題です。それはいけません。しかし、「私は聖霊を信じます」という人に向かって、「いや、ダメだ、この部屋から出ていきなさい」ということはできません。そういう場合は、部屋から出て私を信じてきてください。

つづく

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