「どんな基礎の上に王国が建てられるのか」国進ニムの質疑応答5月27日(その1)

皆さん、こんにちは。
えらく、偏って座っていますね。
あちらに座らない理由があるんですか?

あちらにいるのは誰だろう。
カメラの位置を気にしないで、くつろいで座っていますね。

さあ、何から話しましょう。
王国について話していたのではないのですか。
だからここに残っているんでしょう?
王国についてどんなことを学びましたか。
神様の王国のすばらしい所はどこでしょう。

そう、王国は自由の地です。
神様の王国の基礎をごらんなさい。
お父様は神様の王国はどのような所だとおっしゃいましたか。
良心で暮らすとしたら、それは自由意志をもつことですか、もたないことですか。
良心をもつということは選択の自由を得るということです。
自分の信じることの正誤を、関係性や状況を理解するうえで自分の道徳観にもとづいて決めることができるということではないですか。

自由の要素、自由意志があるのです。
愛はどうですか。自由意志なしに愛は存在しますか?

愛するように強制することはできませんか。
できない?
神さまの王国は、良心の王国、自由意志の王国です。
自由意志があれば、必ず愛を得ますか?
少なくとも、愛される可能性はあります。
公平ではありません。
ある者は愛され、ある者は愛されないから神様の王国は不公平ですか?
ひどい神様ですね。

だから、神様の王国では、自分で何かをしなければなりません。そうしなければ、何もあっちから与えられません。
例えば、お腹がすいたらどうしますか?
仕事を始める?それだけの知恵がなければどうします?
確かに建国の父のひとりは、空腹こそ勤勉の最高の動機だといいました。
おそらく今お腹がすいているんでしょう。

どうやって生活するか考えなければなりません。
でもこれはいい質問だしとても大切な質問です。
神様の王国を考えるとき、そこに必要な要素があります。
自由意志と選択の自由です。何事も自分から始めなければなりません。
そこに保証はありません。リスクがあります。

物事にリスクがあり、保証はありません。
愛を得ることができないかもしれないし、食料を得ることができないかもしれない。
そんな世界に住みたいですか?

(はい)

どうして?
われわれの話している天国の基礎となる要素を見るとき、強制のない、個人の選択に根ざしています。それが天国建設の思想的基盤です。

だから天一国憲法をみるとき、そこに違いが・・基礎がある。つまり自分の人生をつくっていく上で、幸福を追求していく上で、選択の自由と良心、自由意志を持つこと、これが根っこにあるのです。しかし成功する保証はありません。経済的に成功する保証もありません。情緒的に成功する保証もありません。しかし最終的に愛を見つける可能性、人生に満足する可能性はあります。神様が計画されたものです。

神様の王国についてその要素を語るとき、具体的に、憲法のクラスで話し合うとき、反対側を見てみましょう。サタン側ではどうなっているのか。

サタンの王国の思想的基盤はなんでしょうか。
選択の逆とは何ですか?

力(強制)ですね。

サタンの王国では基本的に、彼が自分より多くを持っているとしたら、そばに行って一緒になってそれを盗もうとするのです。それが社会主義でしょう?

社会では、それぞれの人がそれぞれの量の社会資源をもっています。所持金の量も違います。それが不公平だといって・・。不公平だという人々を集めて、不公平だと叫びをあげる。そして盗み取る。もし人がそれに抵抗すると、どうやって盗みますか?

どうしますか。その人たちを殺して、打倒し自分たちが作ったわけでもないものを、奪い取ります。それが社会主義の基本でしょう?それがサタンの王国の基本です。

ねたみと嫉妬、奴は自分より多く持っている、奪い取ってやれ。そういう社会では、道徳は何によると思いますか。平等主義の考えは、正しくないでしょう。悪ですか?

(機会の不平等は・・・)

そう、機会の平等があり、結果は不平等になる、これがポイントです。
人はそれぞれ能力に違いがあり、才能も異なるからです。そう、みんなそれぞれ唯一の存在です。たとえ、経済的平等を強制的に実現させようとしても、人は不平等のままです。幸福度に関して不平等は残るからです。ある人は別の人より幸せでしょう。ある人は愛する人とともにいるけれど、ある人は悲惨な状態でいる。だからたとえ、結果的に経済的平等をつくりだしたとしても、幸福における不平等が生じます。平等が生みだす結果は何ですか。

サタンやサタンの王国、サタンの思想、社会主義、共産主義について語るとき、その問題に直面します。「自分は犠牲者だ」「不公平だ」こういう思いを持つ心理は、決してなくなりません。経済的平等になったとしても。

絶えず嫉妬の思いは生じます。自分自身の向上に目を向けないからです。苦労して、個人としての自己を見ようとしないからです。つねに自分を人と比較する。

そう、根っこに他人への嫉妬があるのです。出て行って自分で人生を切り開こうとしない。
惨めな自分の中に自分のアイデンティティを見つけようとする。結局それは何ですか?

その自己中心の塊は?偶像崇拝です。
社会主義の基礎は、偶像崇拝なのです。犠牲者である自分を崇拝しているのです。
ここで十戒に戻るのです。だから神様はわれわれに偶像崇拝を禁じたのです。

終わりがないからです。

社会というものは結局、基本的な原則、原理に基づいています。
きわめて単純な教訓が社会、国家、世界の基礎にあるのです。
世界を見るとき、大きくて、とても複雑にみえるでしょう。
複雑さが世界をつくっているのではありません。
根っこにある、基本的で単純な哲学的原理のうえに全世界が成り立っているのです。
だから自由な意志の上に築かれた社会と、強制の上に築かれた社会では根本的な違いがあるのです。これは二律背反、お互いに交わらない原理です。うまく調和しないのです。水と油のように。結果平等の社会を追求するならば、力を用いて平等にするなら、それは絶えず自由意志の思想から自分を引き離すことなのです。そしてその強制力をつくりだす組織が成長するにつれて、その力を濫用し、抑圧的力を強めていくのです。そうして、戻れない坂道を転がり落ちるのです。

エデンの園でアダムとエバが堕落した時のことを考えるとき、エバがいかに無邪気にリンゴを食べたことでしょう。しかしひとたびその道を下り始めると、世代を超えて滑り落ち続けるのです。エバの行いの結果は無限に倍加され、この世界すべてがサタンの被造物となり、サタンの王国が作られることになったのです。

だからそこが問題です。どこから始めるかが重要なのです。どんな基礎の上に王国が建てられるのか。種が問題です。植えた木は何の種なのか。良い種か、悪い種か。

基本的な道徳的価値が、根本的に全世界の運命を決めるのです。世界がどうなるか。これは皆さんが選択する問題です。全統一運動がお父様の聖和の時に選択すべき問題でした。どのような王国を求めていくのか。神様の王国のビジョンは何か。一人の選択が重要です。あなたの選択がいつも同じとは限りません。周りを取り巻くこの世界、キリスト教に基づくこのわれわれが喜びを得る世界、それが西洋文明を発展させました。建国の父が革命戦争を通して闘い取った世界。人々がただ日々関わり合うことだけで、保証される世界ではありません。
実際これは歴史上特異な出来事だったのです。人類歴史のほとんどはこんな風にはいかなかったのです。

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「どんな基礎の上に王国が建てられるのか」国進ニムの質疑応答5月27日(その1)」への2件のフィードバック

  1. こころが動いたから の発言:

    “社会主義の基礎は、偶像崇拝なのです。犠牲者である自分を崇拝しているのです。”
    とても鋭い指摘だと思いました。国進様の原理の理解度や天一国に対するグランドデザイン
    がとても明確で、これに相対し行動に移せる人がサンクチュアリにどれだけいるのだろうか?

    いいね

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