サンクチュアリを選んだ二世牧会者(米国)の証 (その2)4回シリーズ

アメリカ家庭連合の州リーダーの息子であり、自身も地元教会の牧会者だった二世のダン・ハチャーソン(Dan Hutcherson)さんの証です。4回シリーズで掲載します。

サンクチュアリへの路程 ―若き家庭連合青年への公開書簡

 2016年9月21日  ダン・ハッチャーソン

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2012年夏
 
2012年清平において私の個人的、霊的な旅が始まりました。妻と一緒に40日学生修にいた時のことです。他のことはよく覚えてませんが講師が言った二つの言葉にハッとさせられました。彼はこう言いました。

「私はクリスチャンです」
「あなたはすでに持っている権利を再び与えられることはありえない」

もちろん私はイエス様を信じてはいましたが、一般的にイエス様とクリスチャンをより優れた神学を持つ自分たちより時代遅れのものと見下していました。自分の中に聖書を古いものとして否定さえする部分もありました。しかし講師がぶっきらぼうに「私はクリスチャンです」と言い放つことで私の本質に気づかせてくれたことを今感謝しています。お父様は革新的クリスチャンであるのでイエス様を否定するいかなる食口もじつは知らないうちにお父様を否定しているのです。

その後2年ほど聖書とその秘密―お父様のみ言だけが解明することのできた秘密―に関して心を開くようになりました。今でもゴスペルミュージック以外の音楽はほとんど聞きません。他の音楽業界はすべて世俗化しています。

その修練会以前には「市民の権利」に関してそんなに考えたこともありませんでした。講師の話によると、イスラエル民族に神はアダム、エバ同様、直接の祝福が与えられたが彼らが後に非原理的な宗教、経済、政治的な影響を社会にもたらしそれが一旦自由の身になって荒野に出ていった彼らを奴隷制に押し戻すことになったということです。その後2、3年、天の政治の真実を探し求め、政治哲学を勉強しました。

その夏、清平から戻り地域の教会の牧会者として出発しました。1世が築いた土台の上で儀式的で義務観念の強い、独善的精神から少し抜け出し、不足しがちだった自由な息吹を感じることのできる人間関係を目指そうと思ってました。

もし誰もドアで迎え挨拶する役をしたくなければそれでいいし、牧会者と共に活動したくなかったらそれでも構わない。誰も献金したくなくても、教会にも来たくないならばそれはそれで構いません、と私は言いました。私は自由を愛していました。それぞれの人と家庭が本当に貢献したいと思うことをやればいい。義務感と使命感だけでただやるだけでは全く意味がないと思ったのです。

個人の使命と私の説教

ラビング・ライフ・ミニストリー(訳注:2009年から文仁進米国統一教会会長(当時)の指導のもと始まったアメリカ教会の聖日礼拝)が崩れ去った直後に牧会者になったので、ついに地域の自治的権限を得るよいチャンスが来たと思いました。亨進様がちょうどアメリカに来られ自由と地域単位の運営を語られました。それは自分にとって大いに納得のいくものでした。それで私の地域でもそのように動き出そうとしていました。私は地域のレベルでの自由と責任で新しく変えていくことに希望を感じました。しかし、「亨進様がその『幼さ』ゆえに今までの位置から解任された」というようなことを聞き、「お父様からすべての運動の霊的な後継者としてはっきりと指名されていたのだから、お父様はそのようなことは言われないだろう」と思い落胆したことを覚えています。

しかし私は地域の教会を立ち上げるという決意は揺らぐことはありませんでした。
教会で育ったので、教会におけるトップダウンの命令系統や、暗黙のうちに良心の呵責に働きかけることが頻繁に行われていることはとっくに気付いていました。私は自分の地域をそのようなやり方から切り離すためにベストを尽くす決意をしました。私は盾になり地域が実際にやりたくないことから守りたかったのです。私は世界から国から地域からくる情報をみんなに流しましたが、返答がないということはそこに関心がないということですから、そのままにしました。良きにつけ悪しきにつけ、この地域に自由を持って欲しかったのです。3年間の牧会者の期間に一度だけ最初から最後まで説教をし続けました。それは自分にとって重要なものでした。真夜中にインスピレーションが来て、めったにないことですが説教中にとても情的になりました。

それはノアと息子たちの話でした。1世が家庭連合を築いたことはノアが箱船を造ったことのようだ。長年、見返りなしに捧げてきた犠牲の信仰基台を心の底から認め、讃えたかったのです。しかし若い世代にもノアの同じようなことが起きています。お父様の聖和後、裸で酔っ払っている我々の親を見てどう思うかです。それによって実体基台造成に成功するか失敗するかがかかっています。自分にとってはっきりしていたのは、蘇生期の宗教的箱船という考え方から卒業すべき時だったということです。しかし私は全世界であなどられ、顧みられず、経済的に破綻し、実際命をかけていったその人たちを尊敬します。私はすべての若者にノアの息子たちと同じ過ちを犯して欲しくありません。

つづく
 
翻訳:Jacob S、サンクチュアリ管理人
 
次はいよいよ「沈黙を破って」
以後の話に入ります
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