2016年9月11日 説教「近接する王国」【英語説教日本語訳】(その4)

Kingdom Proximity   September 11  2016   Rev. Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

「近接する王国」 Kingdom proximity その4

 

例えば誰かと練習していて自分の方が比較的強いと思ったとして格闘技の世界に入って行けますか。基準が分からないのです。比較の相手が間違っているというのです。超エリート格闘家、UFCのヘビー級チャンピオンと比べてみなさい。私は生涯、格闘技を続けるつもりですが彼らと戦いたくはないですね。殺されてしまいます。私は愚か者ではありません。
彼らはそれほど強いのです。誰も闘いたくないでしょう。

真理を追究するとき、心身統一のための訓練など様々な肉体的訓練を試みます。同時に霊的闘いの原則を学ばなければなりません。キリストと共に行く者にキリストは幸せな生活を保障しません。むしろ、嘲りと軽蔑、そして憎しみと十字架、迫害が避けられないというのです。

神様の愛なしにそれらにどう耐えるというのでしょうか。谷底において徹底的に打ちのめされ、子供にでも倒されそうな気がするとき、自分の力で立ち直ろうとしても限界があります。神様の言葉に立ち戻らなければなりません。神様はこうおっしゃっています。

「たとえ、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はあなたともにいる」

「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています」               (詩編23編)

若者たち、いいですか。レベルの高い者たちはジョジョ先生とともに闘いに行くからです。闘いに出るときこういう姿勢を保たなければなりません。神様は敵の前で食事を整えて下さいます。

ひとたび相手を倒したときは抱き合って、健闘を称えるのです。もし負ければ歯がみをし悔し涙を流して直ちにトレーニングを再開するのです。

サタンはどっちでも同じだなどと幻想を抱かせようとします。近頃、バイス・チャンネルが制作したあるドキュメンタリーを見ました。タイトルは「神の売春婦(Prostitutes of God)」です。そこでインドのヒンドゥー教の伝統を取り上げていました。もちろん異端です。宗教学の世界では相対主義的にすべて対等に取り上げ、それぞれに敬意を払うようにといいます。しかしそんなことはできないのです。どれかは正しく、他のものは悪なのです。

これは明らかに「悪」です。デバダシ(ヒンドゥー教の神に使える巫女)はカルト宗教です。この写真の緑のブレスレットをつけた幼い少女は子供の売春婦です。女神のイェレマが好むという理由でそうなったのです。両親は自分たちの信心深さゆえに自分の娘を神にささげたと思っています。イェレマは悪魔、サタンの女神です。悪魔崇拝の一つです。子供を売るために宗教上の理由を与えるのです。そして(少女は)神殿娼婦になります。何やら儀式を行って少女に暴行を加えます。こんなに幼い少女です。

このドキュメンタリ-を見て下さい。いわゆる西洋白人文化のリベラルな教養を備えているであろう女性ナレーターですが、児童売買に反対しているのですが相対主義であるがゆえにどうしようもありません。「これが悪だ」と言い切るための思想的背景を何も持っていないのです。すべての道は神に通ずるという考えなのです。そのような考えであなたは悪いだとかその道徳はあの道徳よりにまさっているなどとどうしていえるでしょうか

矛盾しているのです。一方で(宗教儀式に)客観的立場に立ち相対主義的理解を示しながら、他方で児童売買を攻撃する。では児童売買が合法化されたらどうするのでしょうか。これが悪であると主張する道徳的背景を失います。むしろこのような行いを禁止するキリスト教のほうが「悪の勢力」とされかねません。児童売買ですよ。児童を売春宿に売り飛ばすのです。男はこれら少女を買い暴行するのです。それがお金が絡む現実です!そしてこの西洋のナレーター、番組制作者はそれを(結果的に)促進しているのです。

すべて宗教の名のもとに行っています。どの宗教でも最終的には神に至るといいながら。

そんなことは決してありません!

一方は地獄、一方は天国なのです。いえ、神様は私が生命の道だといわれたので他はすべて地獄行きです。道はただ一つです。キリストこそ永遠の生命に至る道です。

そしてこの瞬間も女神イェレマはインドで幼い少女を性売買に引き込んでいるのです。そして娘を捧げた両親は讃美され僧侶の位置を与えられます。

神殿娼婦の制度はインドだけで行われているのではありません。ギリシャ・ローマ時代からあるのです。白人も行ってきたのです。ひとたび唯一神から逸脱すると、母は母神となりその子供は子供の神にならざるを得ないのです。すべてが神からでたものになり、神殿娼婦が登場するということです。避けようがありません。
政治権力、経済的権力を得るためにセックス、性の売買を利用するのです。

唯一神信仰から離れ二神教に入った時点でそれは「死」です。そして多神教に陥るのです。韓オモニはそれによってバビロンの門を開きました。バビロンの淫婦になったというのです。これは真実です。だから私が話さなければならないのです。韓オモニは自己崇拝と偶像崇拝に至る門を開いたのです。

格闘技を通して皆、謙遜になります。一日たりとて謙遜にならない日はないのです。確かに私がトレーニングするとき軽く相手をしても若者たちを全員負かすことができます。しかしそれによって私が驕慢になることはありません。ジョジョ先生や強い人が来るやいなや私は「参った」と言わざるを得ないからです。負けを認めなければ死んでしまうでしょう。
どのレベルであっても謙遜にならざるを得ないということです。

霊的闘争においても同じことが言えるのではありませんか。

「お父様、私は50年以上お父様にお仕えしてきましたので謙遜にはなれません」

そのようなことが言えるのかというのです。
これが36家庭の問題です。
彼らはお父様に50年以上侍ってきたといいます。

「私たちは罪を犯さない」?
お父様の冒涜の片棒を担いだではないか。
とてつもない罪だというのです。
彼らは現実を見て謙遜になることができません。

「元老」であること、「先輩家庭」であることに慣れきってしまったのです。
自分たちは不可侵、不可謬(正しく決して誤ることがない)という感覚にとらわれています。

幹部たちは最初、韓オモニも「不可謬」だと言っていました、しかしオモニに矛盾するおこないが噴出して今はもうそういうことは言いません。

何より、お父様が相続者に与えたこの(統一)運動をすべて盗み去ったのです。今、崩壊しつつあります。それを今再建しているのです。

人はお父様は12人(以上)の子女をもうけられたがそれぞれがお父様の道を行っている。それは違います。お父様が信頼して任命した子女とそうではない子女に分かれるのです。お父様が「この者がわたしの後継者であり私の遺(のこ)す模範だ」といわれた子女と「私の遺す模範ではない」とされた子女に分かれるのです。

お父様の血統を継ぐものではあっても王統を継ぐものではないということです。これが現実です。イエス様は「私を拒む者は父を拒むのである」といわれました。これが今起きているというのです。
家庭連合がお父様が選んだ私を拒んだことで、彼らはお父様を拒んだのです。お父様を拒んだ結果サタンに侵入され破壊されるのです。私が立派で偉大だからではありません。お父様の祝福が私に注がれたからです。お父様が私の中に住まわれるからです。私はお父様の代身者です。こういって私がどうこうするのではなく、お父様の任命にふさわしい者になりたいと努力しているのです。私が望んだ立場ではありません、お父様の望まれたものだからです。

敵と戦うとき自分を知らなければなりません。自分を探って知るのではなくより深く神様をたずねることで自分を知るのです。神様をより深く知るとき自分をより知るのです。柔術を深く修行することで自分をより知るようになるのと同じです。柔術は神ではありません。たとえとして用いています。真実を知るほど自分を知るのです。

より練習を重ねることでより謙遜になるということです。霊的にも同じことがいえます。密接に関係しているのです。真理をより深く追い求めるとき、キリスト、イエス様、真のお父様との結びつきが深まるというのです。そして関係性が深まることで自分のことも深く知ることができるのです。これは重要なことです。

(格闘技の)アリーナにいくと圧倒的な恐怖に襲われます。互いに闘う闘士が一堂に集まっているのです。ものすごい恐怖の力に圧倒されるのです。自分の力だけで超えるのは無理です。自分を知らなければなりません。神にある自分に立たなければなりません。神様に栄光をお返しすることが目的です。試合に勝ってあのベルトをとる、あのトロフィーをとる、それは自意識を拡大させるだけです。神様に喜びをお返しする、それを目的とするのです。

ある人はプレッシャーでつぶれそうになります。このトロフィーをとろう、この位置を防衛しようなどと。このような考えではプレッシャーの重さで麻痺してつぶされてしまいます。精神的な葛藤が起こります。巨大なプレッシャーを押し返して世界に自分が何者であるか見せなければなりません。罠にはまってはいけません。

いいですか。何があろうと神の栄光のためです。このプレッシャーを通して神の栄光のために強くなるというのです。これで真の力を得ることができるのです。世間のごたごたはあなたを悩ますことはもはやありません。サタンからのストレスに悩まされることはないというのです。そしてやるべきことに集中するのです。

そして結果が良くても悪くても、神に栄光を返すことに変わりがないのです。勝利を得るのです。このことがどれほど重要かわかりますか。
若者たち、試合に行く前によくこのことを頭に入れておかなければなりません。夜と昼ほどの違いがあります。「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう」(マタイ11章28節)

この世の重荷が襲ってくる。このトーナメントで勝たなければ。勝ったら勝ったで今度は防衛しなければならない。獲物を狙う者たちが後を狙っています。鏡を見て「私はできる」「私はできる」と自分を励ましますか。そんな自己崇拝をしたところで負けるのがおちです。

すべて解き放ちなさい!神をたずねなさい。闘いの目的を自分の栄光に置かず、天で見ておられるお父様に喜びを捧げることを目的としなさい。

韓国にいたときのことです。大きな総合格闘技の大会に出場するためにチームを編成したことがあります。その試合でフランシスコが韓国の選手と戦いました。激しい試合でした。2ラウンド戦った時、フランシスコも相手から一度ダウンを奪ったのですが、復活した相手に壁に追い詰められて、頭を抱えられて激しい膝蹴りを受けました。顔を切り、膝をついてこらえましたがついにダウンしました。すぐに病院に運びました。

息子たちも幼かったですが、信萬と信八は覚えているでしょう。顔を幾針も縫ったのちに天正宮に戻りました。そしてお父様にお会いしたのです。お父様は試合こそ見ておられませんでしたが試合の様子はお聞きになっておられました。訓読室につづく大理石の廊下でお父様とお会いしたのですが、お父様に試合の様子を説明しました。それを聞いたお父様は一言おっしゃいました。

「大丈夫だ。おまえは負けていない」

フランシスコは顔をあげることができず「お父様、申し訳ありません」をくりかえしていました。「お父様をがっかりさせてしまいました」。それを聞いたお父様は

「いや、おまえは負けていない」

とおっしゃったのです。お父様は試合に出たフランシスコの勇気を認めておられたのです。フランシスコは試合に勝ってどうこうしたいという思いでなく、ただお父様の誇りとなりたいと思っていたからです。これは生きた模範です。

私達が訓練して試合会場に行くとき私たちは訓練された殺人者です(笑)。
(フランシスコと)同じ気持ちで向かわなければなりません。闘志の精神で出ていって、お父様を喜ばせるために闘うという心構えです。真のお父様もイエス様も見ておられることでしょう。これは霊的闘いでもあるのです。人間同士の闘いであるばかりでなく、地上の闇を支配する勢力との闘いです。そういう心構えで臨まなければなりません。そうすることで力を得るのです。

もちろんこれで恐怖が簡単に無くなるわけではありません。恐怖と戦い、怪我をして傷つきながら前進しなければなりません。目的が正しいものであれば力を得ることができます。

何ものも自分を引きずり下ろすことはできません。重荷から解放されるでしょう。私の話した内容は試合にエントリーすれば皆さんに現実味をもって迫ってくることでしょう。NINJA(チーム名)の名にふさわしい者になってください。

唯一神から二神教に移行するとすべてが破壊されます。偽りの教えに転落です。だからこそ真実を追求することが善き事なのです。真理は一つ以上存在するものでは決してありません。ただ一つが真理であるというのです。3+3はいくつですか。多くの答えがありますか。3+3は6、2+2は4です。学校の先生も相対主義者であっても答えは同じです。「よく頑張って考えたので(それも正解で良い)…」などといっていると首を絞められるというのです。

これはギリシャ・ローマ時代、美の女神アフロディーテよ、われらに愛を与えたまえなどといいながら、少女を娼婦として売買する様子を描いた絵です。ひとたび唯一神とその十戒から離れると、このようなサタン主義におちいるということです。人身売買、性奴隷売買のすべてが宗教の名のもとに行われるのです。私たちは宗教を求めていません、神様との関係性を求めているのです。

ルカ10章
10:13わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちの中でなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰の中にすわって、悔い改めたであろう。 10:14しかし、さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。 10:15ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。

イエス様は「地獄に行く」といっているのです。「よく頑張ったけれど残念だね」という言い方はされません。

神様の道徳は「神を愛し隣人を愛せよ」です。人類を愛さなければなりません。(インドの)テバダシの少女も不可触民ではなく悪なるサタンの業から救い出さなければならない神の子であるということです。ドキュメンタリーの中でこの少女が町に服を買いに出かけるところがあります。少女を地面に座らせて店の女性がその少女の方を見ることなく次々に服を投げるように放り出して見せる場面があります。カーストの階級が異なるのです。このような制度を神様がつくられたと思いますか。サタンのつくったものだというのです。

10:20しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。

イエス様は悪霊を追い出すことができたことを喜ぶな、むしろ私との関係性について喜びなさい、とおっしゃいました。悪霊を追い出したお方は誰ですか。イエス様ではないですか。

ステファン・モリニュー(Stefan Molyneux)という自由主義者の無神論者がいます。トップクラスの哲学者で何百万人という人がインターネットを通して彼の話を聞いています。その彼がいまたいへん葛藤しています。2・3日前アップされたビデオの中で彼は泣きながら自分の心の葛藤を語っていました。

「私の精神はかくも深い、私の脳は宇宙について理解することもできる。しかし進化の途上でたまたま生じた(物質的には)肉の塊でしかない。私はいま、あの哲学的倫理、普遍原理、ナンセンスな生き物ではない、あのロボットに屈服しなければならないのか!」と泣きながら語っていました。私は思わず「ハレルヤ!」と叫びました。

彼は哲学と歴史の分野で素晴らしい業績を上げています。アニミズムと、自然崇拝、多神教とキリスト教の違いを研究しています。またビデオの中で合理的経験主義にもとづく科学の歴史を見るときその科学的手法はキリスト教神学以前には存在しなかったというのです。

学校では、エジプトでこれこれ、アッシリアで発明された、いや中世アラビアでどうだなどといいます。そしてヨーロッパのキリスト教中世暗黒時代ですべてが停滞したなどと教えています。公立学校の洗脳教育です。教会がガリレオを迫害したなどといってキリスト教が科学の敵だというのです。そう教えられています。

ここで大切なことは科学の主要な発見はすべてキリスト教徒によってなされているということです。(現代の)遺伝子組み換え技術においてもそうです。DNAの研究は福音派キリスト教徒によって遺伝の法則はカトリック神父がエンドウ豆を使って発見したものです。

唯一神と多神教の違いはなにか。多神教では神が岩の中、樹の中などすべてに存在するといいます。仏教でも山の精を信じています。日本の神道でもそうです。自然のすべてが神聖だという考えです。トトロなどのアニメや神道をベースにした日本の漫画によくみられる筋書きです。

もしその考えでいくなら、岩を持ち上げその下にいる生き物を解剖することなどできません。樹を抜いて、根を研究することもできません。カエルも解剖できません。植物を採取して人類のために研究することもできません。万物の中にそれぞれ神がいるとするならそれらを崇拝するばかりでなく人間の価値さえも相対化されるでしょう。

それらのプロセス抜きに科学的知識を得ることができません。しかしキリスト教は創造主を知るという動機でそれをすることが許されます。被造物の理解、数学やフィボナッチ数列などの研究を通して創造主の天才を知ることができます。

様々な距離の関係、比率を通して創造主の性質をうかがい知ることができるというのです。それによって神様の心を知ることができるということです。唯一神的思想においては人間は被造物への崇拝ではなく、被造物に投入し、研究し分析することで神様の精神を知ることができるのです。

それに対してアニミズム、自然崇拝においては、自然を分析研究するのではなくただその前にひざまずき拝礼するしかないのです。カルトの成立です。そしてそこに階級組織が成り立ちます。そして最後には愚かな人間崇拝に行きつくことになるのです。

「私が樹の女神」「私は川の女神」「私はガイアの一部だ」―こうなるのです。

このように学校で教えられることとは逆にキリスト教徒こそ科学の推進者であったのです。トマス・アクィナスのすべての自然哲学は神を知るために自然に向かったものです。アウグスティヌスは6世紀に自然哲学について議論しています。

キリスト教が科学から離れているのではありません。キリスト教は科学革命を否定するものではありません。存在を否定しません。

聖句の観点から、倫理と愛の神という観点から、また数学などを創造された論理的な神という観点から理解しようというのです。 
 
つづく(次回完結)

 
翻訳:サンクチュアリNEWS管理人
 
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