2016年8月28日説教 「王国の救い主」 【英語説教日本語訳】 (その3)

Kingdom Savior   August 28  2016   Rev. Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA 00on Vimeo.png

2016年8月28日説教 「王国の救い主」 その3
 
 
これが現実です。
嘘をつき始めると、嘘を付き続ける他なく、嘘を重ねるうちにしまいにはそこから抜け出せなくなるのです。そのうち中にいる人もそれに気づく日が来るでしょう。

家庭連合がどこに向かっているか明らかです。キリストから離れ、聖書から離れ、原理とお父様が残された八大教材教本、それらも脇に置きました。そうすることによって違う道を歩き出したのです。

神様に向かうか、神様から離れていくのかの道は二つしかありません。色々注釈を加えてもはっきりその二つしかないのです。事故を欺いてはなりません。イエス様は、「私は真理と生命への道だ、神様への道だ」とおっしゃいました。それ以外の道は反対に向かうしかありません。ここでルカ9章をみましょう。

ルカ9章
9:57道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。 9:58イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。 9:59またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。 9:60彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。 9:61またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。 9:62イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。

イエス様ご自身が「神の国を宣べるために私は来た」とおっしゃっているにもかかわらず神の国の福音を説く教会がないのは不思議なことです。だからこそ原理がキリスト教徒にとって重要だというのです。「イエスは十字架で死ぬために来られたのではない」というとキリスト教徒は教派に関わらずわれわれはそう教えられた、神学校でもそう習ったといいます。ではイエス様は真実なお方ではないというのですか。

イエス様はご自身の口で「私が来たのは神の国の福音を宣べ伝えるためである」とおっしゃっておられるのです。繰り返し繰り返しそう語っているのです。これまで何度も示してきました。
たとえキリスト教徒が否定しようと異端だと叫ぼうと、聖書に向き合えばわかることです。聖書のどこにも「私は死ぬために来た」とは書いていません。「神の国の福音を宣べ伝えるために来た」といわれたのです。イエス様は「私は死ぬために来た」とは一言もいっていません。そして弟子たちに「行って、神の国を宣べ伝えよ」と命じておられます。

だからこそ原理の価値が現れるのです。原理はイエス様が地上でやり遂げたかったことを明確に教えてくれるのです。神学校や学習、牧師の説教で学ぶことのできない内容です。聖句の深い内容を原理が明らかにしてくれます。イエス様の使命を教えてくれるのです。

ルカ9章のこの部分は「イエス様に従うことの代価」と呼ばれる部分です。ここでも2度、神の国に言及されています。ここまでイエスに従うという人は多く現れたのです。しかしイエス様についていくためには支払うべきコストがあります。

イエス様はすでに地上に送られた目的を果たそうとしておられました。だからこそ他の人にもそうするように呼び掛けたのです。天国を証するということを。だから町から町、村から村をめぐっては天国についての福音を宣べ伝えられたのでした。

そこにある人が現れて「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」といいます。それにイエス様は「私には枕する所がない」といいます。「私(イエス様)に従うということの意味がわかっていない、あなたも休む場所などなくなるのだ。私は休む場所がない。もちろん皆私の下で平安を得ることはできるが、私自身は休まない」というのです。休むことなく進み続けるというのです。

誰かを思い出しませんか。一緒におられた方を。
この青年はイエス様についていくことが、楽しくて快適でおもしろく、どこに行ってもワクワクするようなものだと思い込んでいたのでしょう。

しかし聖書の約束は、その者は迫害され、あなどられ、憎まれ、さげすまれるとあります。それを楽しいと思える人には楽しいでしょう。しかしドーパミンが噴出するような高揚感を求めるとするなら、イエス様と一緒にいるかぎりは、そのような麻薬的快感を味わうことはできません。

神様といるかぎり戦いがあります。イエス様には戦うべき戦(いくさ)があるのです。天国を宣布し建設する戦いです。それは戦争です。なぜならそこにすでに(イエスという)公国と権力が存在するからです。

また別の者にイエス様は「わたしに従ってきなさい」と言います。「まず、父を葬りに行かせてください」と答えるその人に「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。」と言われます。当時のユダヤ社会でこのようなことを口にすることがどれほど波風を立てるか理解できますか。

韓国文化でもそうです。「母親に向かってそのようなことをどうして言えるのか」と言います。お母様の真実を明かさなければなりません。完全に神聖冒涜、異端だからです。その犯した罪ゆえに永遠の地獄に行かざるを得ないからです。お母様に警告しなければなりません。愛しているからです。永遠の魂を思うからです。霊界では天国に行ってほしいからです。

いろいろ言っても最終的には本人の判断です。私がこのように真実を明かして家庭連合を壊そうとしているのは、もちろん詐欺グループであり、搾取とクーデターの組織であることが第一の理由ですが、それが最大の理由ではありません。最大の理由は多くの人々を神様から引き離し監獄に向かわせているからです。地獄に導いているからです。

ですからほんの少しでも愛のある人なら、火の手の上がった家を見れば教えてあげませんか。必死に、火事だ!逃げろ!と叫ぶでしょう。上品に「どうか家から出てきて下さい」と話している場合ですか!私なら叫びます。

「家が火事だ!逃げろ!」

もっと紳士的に話せ、ですって?今夜、丸焼きになってもいいのですか。

「家から逃げろ!」

死人は死人に任せておけ。ユダヤ社会は韓国社会同様に、しきたりを重んじます。とくに儒教社会ではそうです。皆さんご承知のように韓国は儒教文化です。式典で私は王冠をかぶってローブをまとったまま敬拝をしましたが、これは儒教的には違反事項です。人間の作った法を破ったというわけです。本来ならローブもつけず、ただ息子として敬拝しなければならないというのです。それが儒教の教えです。

しかし私たちの立場は異なります。私は息子であるだけでなく、。お父様が王権を継承させた者です。ですから私の全人格を私の王様の前に服従させるべきなのです。これが将来のすべての王の伝統になるのです。その王冠もすべて真のお父様に敬拝すべきなのです。

世代を通じて必ずそうあらねばならないのです。もし私が韓国風儒教文化にしたがっていれば混乱は免れません。人々はそれぞれの王を偶像として崇拝するようになるでしょう。王が神になるかも知れません。王が王の王になるかも知れないのです。今後すべての王も真の父母を継ぐ者も、真の父母、真のお父様に敬拝し続けなければなりません。

それが韓国儒教文化ではタブーだというのです。自分の父親の葬儀は自分がするというのは世界のあらゆる文化で行われていることです。しかしイエス様は「死人を葬るのは、死人にまかせなさい」と言われるのです。葬儀に出て死んだ父親、あるいは親戚が救われることはありません。今はキリストがいるのです。人々の魂を救うためにはキリストとともにいてその働き人として働くことではないですか。実際は私が救うのではありません、救い主につなげるのです。もはやしきたりはどうでもいいのです。「摂理は組織や建物ではなくキリストという人間を通して動く」と国進兄さんはいいました。

この人は「しかし社会のしきたりでは先にこれを済まさないと」とこの人は言います。イエス様は「死人に死人を救うことはできない」と言いました。「死人を救えるのは私だけだ」と言われるのです。だから私と共に歩み、神の国を宣布しなさいと。

普通私たちは(原始)キリスト教は秘密結社のような地下組織だったようなイメージがあります。しかしイエス様のこの初期の言葉を見て下さい。

「行って神の国を告げひろめなさい」。あなたがたはあなどられ、さげすまれるかもしれないが世界に出ていき、神の国を宣布しなさいと言われたのです。私を愛するなら御国を宣べ伝えよと。

またある人が来て「まず家の者に別れを言いに行かせてください」と言います。ここに蘇生、長成、完成の三段階を見ることができます。まず「私がついていきます」という個人のレベル、次に「父を葬らせて下さい」という段階を経て、家庭レベルにあがっていきます。

これに対してイエス様は「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」と言われます。「すき」をひとたび握れば前を向いて注意しないと傾いてしまいます。牛が鍬を引いていくのですから、すきに手をかけてうしろを見る者は神の国にふさわしくないというのです。

ひとたび責任を受け入れるなら振り向いてはいけないというのです。それをすると安定を失って王国を失うということです。畑を損ないます。イエス様に従うには代価がかかります。

現代にはあらゆる代価を払わないという人がいます。結婚のための代価も子供を持つ代価、人間関係の代価も払いたくないというのです。どのような世界に住むというのでしょうか。子供もまま大人になった者たちです。まるで幻想の中に暮らす子供です。人生のすべてに犠牲はつきものです。善行をするにもコストがかかります。ボクサーになるにもバスケットボール選手になるにも代価はあるというのです。医者になるにも山に登るにもコストはあります。腕立て伏せをするにも!

キリストに従う決断をした人は後ろを振り返るべきでありません。キリストと共に動き共に戦い、ともに「すき」をもって進むのです。

キリストは私には御国が必要だ、行って御国を宣べ伝えなさいと宣布します。私たちは国家レベルで神の国について研究してきました。イエス様が「御国」というのは現実の神の王国を指しています。黙示録にも再臨して千年王国を打ち建てるとあります。現実の地上天国です。たとえ話ではありません。神様が統治される王国です。

国家レベルで見ることもできます。主権国家です。
将来、艱難の時代が来るでしょう。ありとあらゆる、金融、政治の中央集権システムは崩壊します。そのとき人々は神様を求め、神様を中心とする人権を求めていくことでしょう。神中心の統治です。  つづく

翻訳:サンクチュアリNEWS管理人
 
 
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