2016年8月14日説教 「王国の救い」【英語説教日本語訳】全文

Kingdom Salvation   August 14  2016   Rev. Hyung Jin Moon   Unification Sanctuary  Newfoundland PA on Vimeo.png

Kingdom Salvation (王国の救い) 8/14/2016 亨進様

在米翻訳チーム

今日は王国の救いについて、ルカの8章です。先週もルカの8章でしたが、今回はもっと先に進んだところです。10節から15節まで一緒に読みましょう。

10 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、たとえで話すのである。
11 このたとえはこういう意味である。種は神の言である。
12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。
13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。
14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。
15 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。

イエス様がたとえ話をした後、その説明を弟子たちにしているのです。先週、神様の法を理解することがなぜ重要なのかということについて学びました。ここには、格闘技を学ぶ若者たちがいますが、壁には十戒と人権宣言が掲げてありますね。それを読んでいないようですが、トレーニングの前に彼らに読ませないといけませんね。

十戒は非常に重要です。聖書には神様は完全であり、法は完全であるとあります。神様は十戒の源泉であり、十戒は神様の性質が外的に現れたものなので、神様は姦淫や忌み嫌うこと、また盗むこと、うそをつくことはしません。神様と法とは決して離れてはいません。しかし先週学んだように、法を実践したからといって天国に即行けるわけではありません。法に従うことだけでは、地上においても霊界においても神様の存在と救いにはつながらないのです。若い時、学習期間にはこの間違いを犯しやすいのです。

法に従うだけでは、救われることはありません。聖書には信仰によって救われるとあります。イエス様はすべての戒めの究極はなんだと言われましたか。あなたの神様を心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、すべてを捧げて神様を愛しなさいといわれました。 すべてです。

イエス様は神様に対する愛がそのように真剣であるべきだと言うのです。
もし法によって完全になろうとするなら、完全でなければなりません。人間的になって少しだけごまかしたとか、例えばインターネットでミュージックをダウンロードしたとか、みんなやってるといっても盗みには変わりありませんね。みんながうそをついてるから私もうそをついたといってもそれはうそつきに変わりありません。

どんな小さなうそであっても、完全な神様からすると神様はそのような要素をもっておられないので追い出されてしまいます。そばに行ったらわかってしまいます。神様にとっては交われないものです。

そのような内容と韓お母様に何がおこったかについて話しました。十戒について話しました。

一体どうしてそのようなことをしたのか、なぜそうするのかについて分析しました。覚えていますか。3年前、自分が女王だといって写真を全部変えてしまいました。その背後には何があるのか、四位基台の位置を変えてしまう、祝福リングからお父様の名前をはずしてしまうことは、完全な異端となることです。

お父様を祝福の契約からはずしてしまいました。その他に(オモニは)去年、様々なことを語りました。「すべてのキリスト教の歴史は独生女を待っていた」など、決してイエス様との関係をもっている真剣なクリスチャンには、通用しないのです。絶対に通用しません。真実ではないのですから。100パーセント不成功です。真実ではないのですから。それは空が青いのをピンクだといっているようなものです。私がピンクだといっているのでピンクなのです。ピンクだと信じなければいけません。ピンクでないことを信じない人はみんな罰されます・・・といって。

お父様の教えと聖書の教えを変えてしまいました。
それから、韓家の血統は偉大で、韓帝国だとか、また「再臨のメシアである独生女がくるのが韓国であった」など、いろいろ言っています。

私はさまざまな証しや話しをしました。私が、「お母様は勝利された真のお母様です」といったときに、お母様は、「違う、私は神です」といったのです。私は「そのようなことは言ってはいけません。それを言ったら呪われます」と諫(いさ)めました。

神様はいまや天の母であるという新しい神学の教科書を編集していたのを知っていました、ここでも何度か韓国語版を見せました。それが去年のことでした。ところが今週、天正宮に430名の牧会者を呼び集めて、韓お母様は「これからは、天のお母様と祈らなければならない」といったのです。それに止まらず、「誰でも自分(韓お母様)を通してしか救いを受けられない」とまで言いました。「誰も」というのは、もちろんお父様もふくまれます。

私たちは、韓氏オモニが自分が神だと宣言するといいました。3年前に自分でそういったのを聞いていたので、オモニがどのように考えているのか、何を信じているのかはっきりとわかります。

西洋の教会はこのことを隠そうとしました。3年前に最初から、天の父母様と呼び二つの神への信仰を広めようとしたとき西洋の教会はそれが問題であるとわかるので、メンバーに嘘をついてきました。天の父母様と性的区別をなくし3年以上もの間ごまかしてきたのです。韓国ではしかしそれはできません。韓国語には、「性的中立Gender neutral)などという言葉はないのです。

これが、今週起きたことです。お母様自身がでてきて、暴露しています。話せば話すほどに異教であり、偶像崇拝であり、自己中心であり、神への冒涜であり、自尊をあらわにし、自分を高いところにおく神学であることがあらわれてきます。これらがルーツで高いレベルに主張しあがっていくというのはすでにのべました。

自分の他に誰も神としてはいけないという十戒の最初の戒めがあります。

出エジプト記 20章

3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
7 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。

母はお父様が息子に相続したものを盗みました。なぜ母親がそういうことをするのかという人がいます。普通の母親であればそういうことはしません。子供の面倒を見て育て投入してきているからです。しかしエリートの母親は普通の母親と違い、他の人に子育てを任せているのです。だから子供達もダメになってしまうのでしょう。子育てを第3者の手に委ねてしまっているからです。そうですよね。この現象がどんな社会でも、いたるところで見られます。

彼らは子育てを外部に任せるのです。それが真実の関係を破壊します。
それが親に情的にも心理的にも頼ることのできない子供を育ててしまいます。

これが母の精神とリーダーシップだけでなく、家庭連合の中でもおこっています。現実に耳を傾けようともしないのです。

私は相続者であり、正式な後継者です。私の証は非常に重要で深刻です。人々は分かっていません。私はただ真の子女の一人だというだけではありません。相続者であり後継者です。私から発信したものは歴史的に非常に重要で深刻な内容です。。

歴史学者でその証を無視するなら、その人はバカです。ですから、現状に留まり、もらえるものを食いつぶし、クーデターの助けをしているような人たちは、(彼らの思い通りにうまくいってませんが、)「彼(亨進様)はその位置を自分で稼ぎとってはいない」 などと言っています。「彼は王権を稼いでいない。お父様の注ぎを稼いでいない。」

その通りですよ、おバカさん。お父様が様々な試練などの後にお決めになったことです。あなたではありませんよ、おバカさん!脳みそが死んでいる宦官みたいな、おバカさん。(笑)
もちろん、その通りです。

これが彼らが他の人にも真実を見させない本当の理由です。真実を聞けば脳みそがある人で基本的な良心のあるな人には我々が嘘をついているのではないことがわかるからです。

私たちが予言したことが実際におこっています。私たちが言った母の言葉がどんどん公に明らかになっています。なぜ我々がお父様を裏切りながらパレスに留まっていることができなかったかも明確になっています。中途半端はありません。受け入れるか反対するかです。お父様の業績を消し去っていくか、いいえ私はやりませんと言うか。私の存在を使って、ステージに立たせて、そのような裏切りを正当化させることはできません。そうですね。

多くの家庭連合の人たちの問題は、聖書では偽逆と言いますが、終わりの時には羊がヤギから分けられるのです。終わりの時に、真の信仰者と偽のものが分けられます。お金、あるいは他の物理的な利益のためにいる人、と信仰のためにいる人たちにです。分けられるのです。

聖書にも終わりの日のことが予言されています。それが私たちが見ていることです。真実の信仰のレベルがわかります。良心で彼らがやったことは間違っていると、はっきりわかるのに、現状に留まる人。バンゴーの絵を変えますか?変えておいてバンゴーと呼びますか?全ての人がいいえと言います。

しかし彼らは知的なレベルに(彼らにはあまりそれがないですが)持ち上げ、良心を避けて、心の声を避けて、様々な理屈を並べます。でもバンゴーの絵は変えられています。この世の芸術家に対してもそのような敬意を払います。しかし再臨のメシアに対してはそれができないというのです。あなたは詐欺師です。どんなにごまかして理屈を並べても関係ありません。あなたは詐欺師です。それがあなたです。偽物です。偽の詐欺師です。決して信じてなどいません。

ですから誰が救われ誰が救われないのか明確です。

マタイ伝7章でイエス様は

22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

と言われました。
キリスト,イエスを信じていると言ってるだけでは、イエスと一緒にいることにはなりません。
公言しているだけでは意味がありません。ポイントはそれが真実の信仰であるかということです。イエス様が言われるように全ての心と思いと魂と力を伴っているかということです。それがあなたの愛のレベルですか?

聖書にもありましたが、犬が吐いたものに戻っていくというのです。汚いですね。犬を見ると本当にそういうことがありますね。吐いてそれを食べに行くのです。多くの家庭連合の人たちの問題は彼らが大変な罪深い人たちであることが分かっていないことです。それを認めたくないのです。彼ら自身に対する思いを壊してしまうからです。「私はそれはとても批判的な言葉だと思います」などと言ってますね。これが人類がとても騙されていることです。

いいえ、いいえ、いいえ 私は善良な人間です。スターリンやヒットラーのように悪いことはしません。近所の悪い人たちのようでもありません。私はあんな悪いことはしません。私はいい人です。これが人々が大変錯覚していることです。

神はモーゼの時まで律法を与えませんでしたね。アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、、、彼らには律法がありませんでした。面白いですね。律法によっては救われません。律法によって預言者になるのではありません。アブラハムは律法を持っていませんでした。

神はモーゼに律法を与え人々に与えるようにされました。人々があまりにも異端になってしまったからです。エジプトの異端の神、文化を受け入れたからです。淫乱も文化の一部として受け入れました。

それで神は話しましたが鏡のような律法を授けました。

出エジプト記 第 20 章
12 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
13 あなたは殺してはならない。
14 あなたは姦淫してはならない。
15 あなたは盗んではならない。
16 あなたは隣人について、偽証してはならない。
17 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

あなたがどれだけ離れているかを見せてくれる鏡です。ほとんどの人は自分がいい人だと思っていますがとても傲慢です。自分が悪いと思っていません。悪をすることができるとも思っていません。嘘です。完全な嘘です。権力とチャンスの誘惑の立場にたったらほとんどの人は堕落します。ロードオブリングでもありましたね。あのリング覚えてますか?自分がそのリングをつければ大丈夫!などと言ってそのリングをつけた全ての人が間違いを犯していくのです。あの映画覚えてますか?

私たちが” 自分は神様の律法を破っていた”と言う事を一度理解するのは、とても興味深い事です。

例えば「私は とても 良い人間だ」 と いつも 言っている人…それは、本当でしょうか?
あなたが 本当に 良い人か 否かということを 小さなテストを することで 知ることが できるでしょう?そして ここにいる 私たちの 大部分の 人は すでに それを 通過して 知っています。

あなたは 嘘を 付いた ことが ありますか?
あなたは たとえ 小さな 嘘でも 付いた事がありますか?
たとえ小さくても噓は嘘です。
「はい、あります…何回も又は数え切れない程、又は3回」
普通、人びとは笑ってこう言います”皆な誰でもしている事です、ハッハッハッ”と。
でも 私は そういう人たちを 気の毒に 思います。
あなたは 嘘を つく人を なんと 呼びますか?
それは 嘘つきと 呼びます。
それは どんな あなたを 作り ますか
それは 嘘つきと 言う人です。

どうでしょう あなたは どんな ものでも 盗んだ ことがありますか?
何かを とったこと?
誰かの 時間を 奪い とったこと ありますか?
私物ではない 会社の 小さなものを 取った ことが ありますか?
私物ではない 何かを インターネットからダウンロードした事がありますか?
それでは あなたは 盗難を 犯した ことになります。
たとえ 小さな 盗難 でも それは 盗難です。
もし 私たちが どんな 種類の 盗難でも 犯したなら それは 私たちを 泥棒 にしています。

聖書は はっきりと 話しています。
姦淫 、姦淫を犯した者、泥棒、同性愛者、嘘付き、それらは神の国に入れませんと…。
嘘つきたちも 含まれました。
天国に 入れません。
たとえ それが 小さな 嘘だったとしてもです。

冒涜は どうでしょう?
私達の中で 何人の人が アメリカの 言語の”オーマイガット なんて事だ!又は ガットダーン こんちくしょう”などを使っている事でしょう。
それは 最も 誇るべき 栄光 そして 崇拝すべき 神様の 名前が 呪いの 言葉として 時に 使われているのです。
時には ただ” ああ 驚いた” と 表現する時に 使ったり”ジーウィズ” と言ったりします。
その 言葉の使い方は 一般的に 良い 驚きではなく その人を 見下したような 取るに 足りない人だと いう時に 使います。

考えて 見てください。
もし あなたが 何回も つま先を 突き刺され その度に あなたが” ああ サンミョン厶ーン!” と言ったら お父様は 喜んで その様子を 見るでしょうか?
それとも お父様は あなたの 顔を パンチ されるでしょうか?
「私の 名前を そんなふうに 使うな!」 と いわれるでしょう。
あなたは つま先を 突き刺される以上に 傷つく ことになります。

だから もし あなたが 神様の 名前を 無駄に 使う時 私たちは 不信仰もの と 呼ばれます。
なぜなら 神様の 名前を 不信する事は深刻な犯罪 だからです。
その罪によって 人々は 命さえ 落とすのです。

そして イエス様 も 言われました。
“もし あなたが 他の人を 情欲の 思いを 持って 見たなら あなたは すでに 内なる 心で 姦淫を 犯したのである …”と。
人を 情欲の 思いで 見たことが ない 人が いるでしょうか?
手を上げてみてください。
もう いいでしょう あなたは すべて おかしています あなたは 密通者 なのです。
これが 問題なのです。

人々は 罪の 基準を 理解 していません。
実際には 人々は それを 相対化 しようとします。
「そう 誰でも していることでしょう 誰が それを やめさせることが できるでしょうか 誰もが そのように 考えて いることです」と。
それでも 問題は 解決されません。
あなたは それでも まだ 密通者に 変わりはないのです。
それは 理屈に かなっていることでしょう?
もし それが あなたの 気分を 害したとしても どうしようもないのです。
あなたは それでも 密通者なのです。

だから 信仰を持った 人たちのために 私たちの 完全性 天国 または 神様の存在 それらを 通じて 神様は 私達 の 傲慢な 心を 砕くための 大切で 便利な 道具を 与えて くださいました。
大変 便利な 道具です。
それが 神様の 律法です。
神様の律法は 私たちを 救うことは できません。
しかし 神様の律法は 私たちの 不真実を さし 示してくれます。

そして その 問題である 問題について 多くの人は こう言います。
「 わかりました 私は 罪人です もう これで いいでしょう 私は 罪を犯しました」と。
そして その後 人々が 何をするかと言うと 今までと 同じ 悪い癖を そのまま 続けて 同じ 悪い 状態で 居続けるのです。
「わかりました 私は 確かに 罪を犯しました 私は 悪人です 私は罪人です 私は こんなだ あんなだ そうです 私は これをしました そして 私は それを しました そして 私が そのことについて 考える時 私は これを してしまったので 私は たぶん 自分が 思っていたより 価値のない人間です そして 私は 実際に 私の妹に こんなこともしてしまいました そして 私は 私の友達に そんな 事 も 一度 してしまいました それらのことについて 考えると 私は 自分が 考えるより たぶん 価値の ない 人間なのだと思うのです」
これが 人々が し続けていることです。

しかし 私に ひとつ 質問を させてください。
それは もちろん 明らかに 誰もが そうなのですが あなたが 罪人であるという事実に とどまっている時 あなたは 誰に 焦点を 当てているでしょうか?
あなたは 神様に 焦点を 当てて いますか?
それとも あなた 自身 ですか?
それなので 実際には さらに 自己嫌悪が 自己崇拝を 作り マイナスの 視点 を あなた自身に与え 自分は いつも 犠牲者なのだと 思わせて 行くのです。
それなので これらは 異なった 形の 自己崇拝 ということになります。

鏡の持つ役割は 私たちが 鏡の中を 自分自身を見るだけのために見続けることではありません。
鏡の役目は何かと言うと” 私の 無愛想な 顔が ここにあって 私の 口からは よだれが 垂れていたり” そんなふうに 鏡に 映った自分の状況を見て 水で 綺麗に洗わなくてはならない ことを 教えてくれるでしょう。

律法に よってのみ 完成されると 信じている人たちは 鏡に うつった 自らの 汚れを見て 鏡から 身を外して 自分を 綺麗に するために 鏡に うつった 自分を 綺麗に しようと します。
それでは 自分自身を 綺麗にすることは できません。
鏡は あなたを 綺麗には してくれないでしょう。
ただ 真実の 姿の あなたを 映し出して くれるでしょう。

何が あなたを 綺麗に してくれるかと言うと それは 永遠の 命の 水です。
それが あなたを 清め 綺麗に してくれるでしょう。
何が あなたを 洗い清め 完成させ 完全な 義人 に してくれるでしょうか?
それは あなたの 働きに よってではなく、 しかし 神様の 御業に よるものなのです。
あなたが 信頼を 持った時 あなたが 信じた時 そして あなたが 救世主 キリスト と関係を持ったときです。

それは 何故かと言うと キリストは あなたのように 罪を 持っていません 罪人ではありません。
キリストは 不誠実 嘘 憎しみ そのような 思いを 持っていません。
キリストは 完璧な 存在なのです。
そして 私たちが キリストを 受け入れるとき 私たちは キリストの 中に 存在することができます。

例えば 法廷で 裁判官の前に 行くとき 裁判官が あなたの 犯罪リストを 作ります。
そして 今 刑が決まり 裁判は終わり 刑が出行されます。
この人は これを 犯したので これとこれの 犯罪に 値いし すべての罪が 有罪となります。

この時 もし あなたが キリストと 関係があるならば 神様は 裁判室に入る あなたを見つめるとき 誰を 見つめているでしょうか?
神様は キリストを 見つめているのです。

そうして 神様は 言われます” コラ あなたは この 裁判室で 何をしているのですか? 息子よ ここから 脱出しなさい”
あなたが 血でおおわれ、 キリストで 覆われているなら そんなことが 起きるのです。
神様はその時 キリストの 完全性を みつめてくださり あなたの 不完全性ではないのです。

「 あなた自身を ただ 愛しなさい」 と言いたがる 非常に多くの 心理学者 と リベラルな 異教徒達がいます。
彼らはこう言います”「あなたはただ 自分自身を受け入れればいいのです 罪悪感と 恥は 自分自身について より 悪く感じさせるための ただの 言葉です」

それは 間違っています。
罪悪感や 恥は 真実 真実 真実なのです。
たとえ あなたが 神様を 信じない人であってもです。
そのことは とても重要な 革命的な 考え方なのです。
とても大切なことです。

しかし もし あなたが 創造主の 視点を持っている場合 罪悪感や恥は 私たちを 考え直させ 私達から 遠ざけてくれます そして 神様の 方向に 向けてくれます。
私たちが 罪悪感や 恥を持っていることは 驚きの 内容ではありません。
私たちは 1日中 それに 悶え 泳ぎ回り 苦しみの人生を送っているのです。
私たちは 自分自身から出てくる ドロドロの 液体の風呂に 入るようなことはしません。

私たちは このように 言うべきなのです「 私は 汚れています ここから 脱出しなければなりません。」 そのことが 重要 なのです。
ひとたび 罪人が 自分自身が 罪人であることを認め 敗北すると 罪人は 何をするかと言うと 自分自身に 執着するので 罪人であるという事実に 苦しむ 人生を 送るのです。
否定的な 視点で 注意を引こうとします 子供が 良くすることです。
彼らは これを 実行しようとします。
彼らは神様に対する 反乱で敗北しています。

今神の律法 神様の 基準で はかるとき 罪人であることを 認めざるを得ません。
あなたが 神様の 正義の 基準によって 判決された時 有罪でしょうか 無罪でしょうか?
申し訳ありません それは 有罪です 天国でしょうか 地獄でしょうか 申し訳ありません それは 地獄です。
神様から 分離させられるのです。
神様の中に 存在することはできません。
それは とても 簡単な 答えなのです。
彼らは神様から 敗北したことを認めるとき 最終的に 何をする か それは 自己崇拝をするので 苦しい人生を送らされます。
あなたは これが 理解できますね。
もちろん もう一つ 信仰者の振りをして 偶像崇拝に陥る卑劣な方法もあります。
「 じゃあもういいよ 私はどうせ悪い人間です 私が 私が 私が 私が…」
はい もう 分かりました。

子供みたいな人たちよ 私たちは あなた方が 誰に注意を当てているか知っています。
鏡を見るときは 1日中 その前に立ち続けて みたりはしません。
鏡の前に立って目ヤニ、鼻水、ボサボサの頭にも関わらず 鏡 に向かって「 私の 髪の毛 見て この部分が 少し 乱れているし ここが 白くなっているし 白髪が 増えてきた”」と言ったりします。

そんなことが 大切な ことではないでしょう。
鏡の役目は 前に立って 何時間も 見つめていることではありません。
鏡の 大切な 目的は 鏡に うつった あなたを見て あなたが 汚れを見つけ それを 綺麗に することです。 そうでしょう?
鏡の 大切な 役割は その 人の 汚れを見せて それを その人に 綺麗に 洗わせる事です。
そうでしょ?

これは、同じことです。100年以上にわたるクリスチャン教会が、「気分が良い」という思いで、イエス様を信じていれば、今が人生最高の時だと思わせています。ジョン オースチンとかがやっているように、肯定的心理学を使った説教で、福音をしていません。

鏡の持つ大切な点は、私たちを水にたどり着かせることです。バラシュートの話の大切な点は、安全に、着地させることです。私達がイエス様に頼ること、パラシュートをつけることは、快適な飛行をするためでなく、時が来たら、ジャンプして 安全に着地するためです。死なないためです。

しかし、最近のエバンジェリストや ファミリー フエドも同様です。我々は、何を得れるか、人々をここに留めて何を得れるかを考えています。だから「ああ、あなたは、イエス様を愛しています。イエス様が必要です。あなたの心に、イエス様の形をした穴があります。だから、この小さな祈りをするだけで、あなたは、救われ、自由になります。」と教えます。

ところが、調査によると、このように 祈りをし、クリスチャンになる誓いをした 95%~98%の人が、1年後には、去っています。1年後には、98%の人が、クリスチャンではなくなっています。何故 死亡率が、98%でしょうか?パラシュートの例のように、使用説明書に従って きちんとたたみ 着用していたら、パラシュートは 必ず開きます。体重や 身長にかかわらず、誰ものパラシュートが 開きます。しかし、急いでパックをして、沢山の人をドアから入れようとする人がいます。しかし、このように 急いでパックした会社によって 搭乗した人の 90%が死に至ります。どうなりますか?これは、大きな問題になります。この会社の人は、こう考えます。多分 使用説明書を読んでいたらきっと助けになる。その考えは効果がありますか?ありませんか?もちろんあります。

ファースト パッカー コミュニティーと言いましょうか、彼らは、肯定的に言うので、例えば コップに水が半分満たされているという。(コップに水が 半分しかないでなく。)彼らは 90%のひとがしんだのに、1人いや 10%の人が生存したという。馬鹿者が、、、すべての人が 助かっていたはずなのに。彼らは、90%を死に至らせた。これは 問題です。

パラシュートをつけるのは、イエス様との関係を結び イエス様に委ねる為であつて、快適な飛行をする為ではない。パラシュートをつけているので、人々から 嘲笑罵倒され、彼らから嫌われるので、搭乗は、決して、快いものではない。

25000マイル上空で飛び降り、パラシュートを使わなければならない。その間 どんなに嘲笑罵倒があっても、飛び降りる時が来たら あなたは 紐を引き、パラシュートが開くので、あなたは 笑顔になります。私達に最後の日がきて、神様と向き合った時どうしますか?裁判所で、裁判官に面した時どういう嘘をつきますか?「神は許しの神です、、、」これはブル!それでは、この方法を使ってみよう。あなたの罪に対して審判が下されるとき、「あなたは 良い人で、許しの人です。」という。良い裁判官は、法律に従い公正な審判をします。「私は良い裁判官ですから法に従わなくてはなりません。」という。

ある、三人のティーンエイジの女性を殺した人が、「私は この裁判所に来るときに、ドアにつまずき足指を折りました。私は、すでに苦しみを受けました。ですから私の刑を軽くしてください。」という。

多くの信仰者が、私はこのような蕩減条件をしました、厳しい断食をしました等々いうのは、私は足指を折りましたので 殺人の刑罰を軽くしてくださいと言っているのと同じです。全ての裁判官が あなたは でたらめを言っている。今直ぐに精神鑑定を受けるように言います。裁判所でこういうこと、許しの裁判官、私の罪を赦してくださいなどと決して言えません。なぜこのようなことを神様に言えますか?自分をすでに有罪としています。

これは 荒野での出来事です。もうすでに多くの人が知っていますね。神様が 火の蛇をイスラエルに送られました。なぜなら、人々が高慢だったからです。彼等は「私たちは良い人間です。罪人ではありません。貧しい人々を助けます。」といった。神様は火の蛇を送り、蛇はイスラエルの高慢な人々を噛みました。

民数記21:6~9

6 そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。
7 民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。
8 そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。
9 モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。

神様は、モーセに命じて、火の蛇を作って竿の上にかけなさい。噛まれた人でこれを見た人は、すべて生きるでしょう。と言われた。面白い話ですね、聞いたことがありますか。
また、ヨハネの福音書3:14に興味深い句があります。イエス様自身が語っておられます。

神はその独り子を賜った程に、この世を愛してくださった。それは御子を信ずる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである。

イエス様はこの古い話を使って自分の未来に来る十字架の話をしておられます。この古い話の中で青銅の蛇を掲げなさいと言っているように、今掲げられる私を信じる人は一人も滅びないと言われている。興味深いですね。

言い換えると、どのようにしてこれらの人々が神に対して罪を犯していると悟りますか?神は火の蛇を送られたでしょう。神は自分の立場を理解できるようにと、かがみをおくられたでしよう。十戒のみ言葉は火の蛇が向かってきて、あなたに罪があることを悟らせます。「はい、私は神に対して罪があります、神から遠ざかっています、淫行を行いましたと、強く悟らせます。強引に自分で責任を取るように迫っていますか?

「おお今私は足を噛まれた。自分を信じなければならない。私はだいじょうぶ、自分を信じよう」(冗談じゃない)あなたの足が毒に侵されたら医者が必要です。今すぐ病院に行って解毒剤を受けなくてはなりません。自分に頼るのではなく、解毒剤に頼らなければなりません。火の蛇は、その解毒剤が必要であることを悟らせようとしています。すなわち、神様に頼ることです。そうでしょう。

同じように、私達が罪の現実と向き合った時 解毒剤は何か、私は どうすべきかと考えます。どうしよう、だれがわたしをすくつてくれるのか?と。私は審判の日に有罪です。誰が私を救ってくれますか?とキリストに向かうように強く促します。

だから今、ファミリー フエツドの人たちも 身悶えしながらこの私の話を聞いています。なぜですか?第一に、彼らは、神に反逆していると自覚したくないのです。自己正義感に固まっています。玉ねぎにたとえてみましょう。皮を一枚一枚はがして行くと、涙が出てくるでしょう。あなた方も自己正義感を一つ一つはがして、涙を流さなくてはなりません。

「神の前に私は良い人間です。お父様私は良い人間です。」韓マザーも同じです。「真のお父様が私を誇りに思っています。私は正しい、良いものとをしています。」と言います。気違い染みていて、狂気です。周りの人々も、ええ、私たちは、頑張っています。私達にもっとお金をください。(ため息)この人たちは、全く冗談だよ。

レイ カンフォート(Ray Comfort) が良い例を挙げています。ある人の所に行って、“誰かが2万五千ドルの罰金を払ってあげたので、おまえは釈放された。”と言います。その人は“それはどう言う意味だ? どうして私には2万5千ドルの罰金があるのだ?私は何も悪い事をしていない。”と言うでしょう。そして 彼はあたなに怒ってくるかもしれません。

それは丁度 誰かがあなたの所に来て、イエス様があなたの為に苦難して、死にましたと言うようなものです。ギフトを上げているようなものです。しかし、まず初めに彼がどんな間違いを犯したのかを判らせなければいけません。

代わりに、こう言ってみましょう。警官が あなたの運転している所の10枚の写真を撮りました。最高速度15マイルの所を時速50マイルで走っていた。そこは盲目の子供達の大会をしていたからです。一回に付き、2千5百ドルの罰金と服役が必要で、それが10回です。しかし、誰かがあなたの罰金を払ってあげました。ちょっと考えてみましょう。このような交通事情を聞くと、“私は何も知らなかった、盲目の子供達の大会なんて、何も知らないし、スピード違反もしていない。”と答えるでしょう。

パトカーのサイレンとライトを見ると、これはまずい事になったと思うでしょう。

ここで何人の人が周りの車が時速80とか90マイルでスピード違反して走っている時に、同じように走っていたことがありますか?何人ですか?手をあげてください。知ってますよ。あんたたち。そうでしょ。

ほらやってますね。みんなやってます。何が悪い?という感じで。

でも、もしいきなりサイレンが鳴りバックミラーに赤いライトのフラッシュが見え警察が後ろにきていたら、その時あなたの心の中で「みんなやってるよ。」というでしょうか?それともスピードメーターをみて「あららー、どれぐらいのスピード出してたのか?」というでしょうか。どっちをいうでしょうか?心の中でまず何を思うかです。「みんなスピード出してるよー。」と思うか、「あららー、83マイルも出しちゃったー」と思うかです。

すぐに個人的な罪意識が関わってくるのが分かります。個人的にあなたが犯した罪に対してです。そしてそのことに対して個人的に罰せられます。分かりますか?

その罪がわかる時に「やっちゃったー、300ドルのチケット払わないといけないなー。仕方ない。」と思うのです。

そこが違いです。あなたが犯した罪に対して誰かが払ったということです。どれほど感謝の思いが湧いてくるでしょうか?時速90マイルも出したのに、彼が許してくれるというのです。
どんなにいい気分か分かりますか?そうでしょ。

しかし、そういうことを何もわからずに、罪を犯したということも知らずに、誰かが25000ドルの罰金を払ってくれたと言われても、「ああそう?まあ、なんでもいいけどありがと、」といい、何もなかったようにしか感じません。

これが違いです。これが現代の改信者の問題です。彼らは間違った事をしたとは思わないのです。律法の蛇、律法の純粋さに懲らしめられた事が無いからです。彼らは自分たちが罪人であり、嘘つきであり、姦通者であり、心の中の殺人者であり、詐欺師であり、泥棒である事を知らなくて、自分は善人だと思っています。どうして、自分には2万5千ドルの罰金があるのだ?自分は良い人間だ。何も悪い事はしていない、と思っています。

だから、キリストがあなたの為に苦難をしたと言う賜物は無意味になっています。95パーセントの改信者がまたもとに戻っています。偽の改信者です。キリストとの関係が無くて、聖霊によって再創造されていない人が悪の道から変わって、キリストを真に感じています。罪が現実であり、永遠の生命が現実であることを理解しています。そのような事が判る人は 神様が今までどれほどされてきたか、1万の十字架を私と私の血統の為に背負ってこられたことを感じ、とても感謝できます。

人生の目的は、原理で最初に言っているように、誰もが幸福を求めています。しかし、神様の私たちへの目的は 勿論、唯単に 幸福になるだけではありません。真のお父様を見れば判ります。お父様は私たちが幸福になるだけではなく、強くなる事を願っておられます。しかし、家庭連合を見ると、彼らは、生ぬるい人達で、偽の改信者です。真のお父様に充分耐えてきたので、勲章を得て、信仰深い点を見せたいと思っています。でも、直接、真のお父様に仕えてはいませんでしたし、共に生活していたわけではありません。

私たちは 本性が判らない時には、本当の許しが判りませんし、無意味で、何でも無いと思います。丁度、ダビデとナタンの話の通りです。ダビデはバテシバを盗み、友達を殺させました。友達をうらやみ、姦通もし、全ての10戒を破りました。それでもダビデは 自分は良い王様だと思っていました。そして、神様はナタンを送ります。ナタンはダビデに言います。高原で、こんな男の話を聞きました。腹が減って、飢えていた一人の男がいて、羊を一ぴき持っていました。そこに 金持ちで、何千もの羊を所有している人が来ました。この金持ちはその死にそうな人に羊を一ぴきあげる事も出来たでしょう。しかし、その金持ちは羊をそのひとから取り上げて、貧しい人に分け与えようとしました。プログレシブな民主党員のような人です。お金を盗んで、他の人にあげて、いい事をしているような気でいます。自分では、エスカレーター付きのマンションを持っていてもです。ナタンがこの話をダビデにした時、ダビデは この悪人は4倍の罪を償わなければならないし、死刑にすべきだと言いました。ところが、ナタンは 残念だが、その男はお前で、お前が 他の人の羊を盗み、その人を殺したと言いました。それで 次にどうなったのでしょうか?ダビデは自分が罪人だと悟り、神の前に罪を犯したと叫び、悔い改めました。それで、ナタンは 彼を慰め、神は慈悲を与えるから あなたは死ぬ事は無いと言いました。ダビデは慈悲を受け、非常に有り難い思いになりました。

みんながしていると言う感覚ではなく、一度、罪を犯した事を個人的に感じると、本当に感謝します。ポイントは はい、私は 嘘つきです、はい、泥棒です、はい、心の中で姦淫しています、はい、神の冒涜者、です。私がです。ダビデが、個人的にその罪の責任にとわれる事を理解した時、罰を受ける事を悟り、神様が慈悲を与えました。神様が慈悲を与えた時、彼は感謝に満ちていたでしょうか?それとも、何も思わなかったでしょうか?彼は、生涯を変えるような体験をしたでしょうか、しなかったでしょうか?

生涯が変わりました。何故なら、彼は、神様の完全性の湧き出た現れである、律法に依り、有罪となったという事を理解したからです。確かに 聖書は、私たちは律法に依って 救われたのではないと言っています。

しかし、律法は 私たちには罪が有ると言う事を示してくれます。そして、それは私たちを 罪を洗う為に、キリストに送ってくれます。ポイントは、律法と恩恵です。神様の王国が来る時、それは人間の力に依ってではありません。神様の恩恵に依るものです。

例えば、天一国憲法が有る時、市民の権利と王権を守り、政府の過大な拡張を防ぎます。今まで、いろいろな機会にそのような内容を話してきました。これらは、私たちの中の誰かが、偉大な偉業を成し遂げたと言う訳ではありません。それは、神様からの保障としての恩恵です。神様を信じる人達はその保障を受けます。イエス様は 私たちのする事は神を愛する事だと言われました。それだけです。心を尽くして、知性を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、神様を愛しなさい。

現代の自由という事を考えてみると、それは何処から来ているのでしょうか?私たちは自由を獲得したのですか、それとも造ったのでしょうか?私たちは自然の権利を自分で作り上げたのでしょうか?それは可能でしょうか?他の人々は別の自由を作るのでしょうか?

どうして自然の権利と言うのでしょうか?それは神様がくださったからです。神様が、言論の自由を私たちに与えられたのです。神様が自己防衛権を与えられたのです。それは ある意味では、10戒が私たちの堕落性を写し出すようなものです。憲法も 国家レベルで、人間の誘惑や堕落性を表示しています。それは、歴史を通して、国が失敗を繰り返してきた事を教えています。人間個人に限らず、国としてもです。私たちはこれまで天使長の力の成長を許してきました。嘘つきな政治家に私たちの力を盗まれるのを許してきました。政府が集中して、権力を拡大するのを許して来ました。

私たちはいつも奴隷のようなものです。その行動がパターンとなって表れています。男女の投票の時のパターンのようです。女性は政府の拡大の傾向にそって投票します。人間がどの様に社会を崩壊に導くのか、そのパターンが見えてきます。私たちは自分で思っている程、良くありません。自分は善人だと思っている人は、ヒトラーの時代では、他の人は皆しているからと言って、同じ事をしていたでしょう。

今日のアメリカでも、一般の人は、他の人が皆しているからと言って、胎内にいる5千4百万人の子供を中絶により殺している事を許しています。「何が悪いのだ、いいじゃないか」 と言っています。これらの子供達は無罪なので、ヒトラーがやっていた事よりも悪いです。

真のお父様から祝福を受ける時、それは私たちが獲得したからではありません。血統は私たちが自分で得たものでは有りません。21年間働いたと言って、血統の祝福が当然貰えると言う訳では有りません。血統は、神が善で、愛で、勝利されたが故に、恩恵に依って与えられたのです。

我々の勝利の故ではありません。わかりますか? これが根本的に、神様を真に信じている人とそうでない人の違いです。神様との関係はどんなものですか?神様は甘いパパのようですか?

ただ、いい気分にさせてくれる存在なのか?それとも、どうしても必要な存在であることをあなたに見せてくれますか?どうしても必要な存在であることを見せてくれていることが分かりますか?

自分の汚れに直面するとき、それから抜け出そうとして、自分自身に頼るのではなく、神の善と正義と完全な勝利に頼るのです。

本物と偽物の違いは何か、本物の信仰者は完全です。それが鍵です。キリストによってです。罪をまだ犯してはいても、完全なのです。完成しているのです。キリストと全てにおいて一つになっているからです。全ての栄光とクレジットを自分に返すことは絶対にありません。いつもキリストにいくのです。達成した全てのこと、いかなることも、美しい歌を作っても、いつも「神はとても良い!」「神がその歌を私にくれた」。美しい絵を描いて、「神がその絵をくれた!」

栄光を神に捧げます。自分のもとにとっておくのではありません。簡単なことです。善と悪の違いはとても簡単です。自分にとるか、神に捧げるか、です。

全ての哲学は「自分でとっておきなさい。そうするべきです。それはいいのです。力です。素晴らしい。現代的だ、、、」とか言ってますが、自分自身にやっているのです。自分でとっておいているだけです。それだけです。古い、つまらない、異端の、使い物にならない、最終的には破壊的なものです。あなたは自分だけで全ての巨人を征服することはできないからです。

栄光を神に捧げる人たちは、弱かったとしても強いのです。立ち上がることができなくても、立ち上がれるのです。敗北したとしても勝つのです。神が硬い岩の基盤だからです。

個人的な勝利基盤のもとに生きるのではなく、神の勝利を見るために生きるのです。我々の目的は神が勝利することを喜び、自分が勝つことが目的ではありません。神の勝利を見るのです。そのような人は違ったタイプのパワーがあります。完全に違ったタイプのパワーです。

彼らが神の法によって裁かれ、神が裁くとき、自分は汚れている、堕落した、腐敗した、よくない。神自身でなくても、神の法によって裁かれるとき、あまりにも臭い。そうでしょう。

でもそこに留まるのが目的ではなく、でも神は汚れてない、でも神は臭くない、でも神は嘘をつかない、でも神は盗みをしない、でも神は姦淫をしない、でも神は冒涜しない、そして神は私を罪から救ってくれた。私は神と一つだ。私は神の側だ。そのようにして、私は勝利する。
あなたに勝つぞ、サタン!私はあなたよりも力がある!あなたは私を訴えることはできない!

それが3日儀式です。サタンはあなたとあなたの妻を訴えることはできません。私の業によってではなく、神の業によって。完全に分かれています。

天聖経134

もしアダムとエバが堕落しなかったら、創造主である神は永遠の王となっていました。しかし堕落によってサタンが世界の王になりました。これを避けることができませんでした。誇り高く生まれ育った少女が侵略者に侵された場合、誰に所有されますか?その侵略者です。これが堕落で起こったことです。

韓お母様に起こったことはこれ以上に悪いのです。彼女が自分からすすんで結婚したからです。姦淫者たち、来なさい。結婚しましょう。

ですから、彼女のレベルでの堕落は世界を滅ぼします。この世界の祝福を破壊しました。私たちが生きてきたもとの、祝福。彼女が盗みとった祝福の基盤も、それが今崩れています。

でもこれは将来の全ての人々にとって重要なレッスンです。自分自身の栄光のために生きるとき、あなたは滅びます。あなたは滅びます。自分自身の栄光のために生きるとき、自分自身を神とするとき、あなたは滅びます。

善の人たちはそれをさせません。キリストの義によってあなたに立ち向かってきます。そしてあなたを滅ぼします。それから逃げることができるなどと決して思わないでください。義のものが追っかけてきます。それが神の善です。神に感謝します。そういうように、悪が乗り越えられ、滅ぼされるのです。

今日神を賛美するとき、大変重要なことは、他のクリスチャン教会のように聞こえがいいことだけ語ってブルをしたくはありません。BSではなく真実です。真実は自分を厳しく見つめることです。ですからマーシャルアーツもします。真実に向き合うのが好きですからね。(笑)
飾られたような、幼稚な、偽物は嫌です。本物が欲しいのです。

神との真実の関係が欲しいのです。私達は本物の人でありたいのです。ごまかされた、偽の信仰者ではありません。神を愛する、神を信じる、神を知る、神と関係を持つ、真実の人たちでありたいのです。

最終的にはそれしかありません。私たちが死に、パラシュートを持ってジャンプするときにはそれしかないのです。他の何も関係ありません。他のどんな言い訳もできません。他の全てのことはどうでもいいのです。

SOS(歌の)準備してください。みなさん、賛美の歌を歌いながら、自分自身に真実でありましょう。法の目的を理解し、鏡の目的、それが我々を悔い改めに導いているのか、自分自身よりも神を見ているのか、信じられない神の慈愛、神の犠牲、それを我々はしなければいけません。そこにたどり着くのが、適切です。

神は私たちが「自分は罪人だ。自分はひどい、ひどい、ひどい、、」と落ち込むのを見たくはありません。それが鏡の目的ではありません。鏡の目的は洗うことです。そうですね。
ですからあなたの心が「オーケー、私は罪人ですよ。それでいいですか?自分は悪い、、、」とそれは自分自身を自己崇拝しているのです。自分自身の理解に頼るのではないということです。自分の理解で解決するのではないということです。神との関係を持ちに来てください。

立ち上がって神に誇りと賛美と栄光を捧げましょう。

 

 

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