2016年4月17日「天国の種をまく人」【英語説教日本語訳】その4

Kingdom Sower April 17 2016 Rev. Hyung Jin Moon 1 Unification Sanctuary Newfoundland PA on Vimeo.png

 

ここに集う私たちは一握りに過ぎませんが、今世界中からこの場所に向かっての移動が始まっています。まさにここに天一国憲法が宿り、天一国の秘密が息づいているのでこの(ニューファンドランドという)畑に向かってやってくるのです。

マタイ13章
13:45また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。 13:46高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。

ここで天国は「畑の宝」ではなく「商人」と譬(たと)えられています。これは大変興味深いことです。国進兄さんの天一国の経済、天国の経済についての話を覚えていますか。天一国での具体的な経済についての話です。天一国は具体的経済システムを持たなければなりません。商人としても側面も必要なのです。聖句の商人は真珠の代金を支払わずにそれを盗みましたか。

そうではありません。もしそうなら政府が何か法律を制定して真珠を取り上げるということになり大きな政府を支持する話になってしまします。

この商人は正当な代価を払って真珠を手に入れたのです。盗んではいません。天一国では「正当な取引」という概念が本当に重要です。透明性の高いきちんと契約の則った正しい取引です。透明性のある機関によって保障された商取引。

これこそ取引する双方にとって満足な結果を生み出す天一国の核心的かつ枢要な経済原則だというのです。どれだけ消費者のために奉仕するか、どれだけ他者を愛するかという生産者サイドの経済学です。これが天一国にはたらく「見えざる手」です。アダム・スミス(近代経済学の父)は「見えざる手」の正体をはっきりと知ることはできませんでしたが、「見えざる手」という言葉を用いました。

マタイ13章
13:47また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。 13:48それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。 13:49世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、 13:50そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

この部分は「麦と毒麦」のところでも話しました。天一国でも共産主義や社会主義を志向するアリストテレスのいう「甘やかされた第三世代」は生じるでしょう。安易にものを与えられて育った結果、さらに無償の給付を求めて大きな政府をつくろうとする者達です。こういう三世が出てくることは避けることができません。しかし天一国では中央に権力を集める政府をつくることは禁止されています。ですから目的を果たそうとするなら暴力革命に訴える他ありません。

そうなると(聖句あるように)「御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、 炉の火に投げこむ」のです。その「御使い」は平和警察、平和軍です。

13:51あなたがたは、これらのことが皆わかったか」。彼らは「わかりました」と答えた。 13:52そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。マタイ13章

天一国も盟誓はすべて「天一国主人である私(家族)」から始まります。「天一国の僕」ではありません、それでは家庭連合になってしまいます。「天一国の僕である私(家族)」を喜んで唱えさせるのは家庭連合です。

お父様が下さったのは「主人である私」です。

キリストと共に相続する天一国の主人は倉から新しいものも古いものもすべて取り出すことができるのです。神様がアダムに約束されたものをイエス様はサタンを追い払ってすべて取り戻します。だから「天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」というのです。

「倉から新しいものと古いものを取り出す」。新しいもの古いもののどちらも成就する。これを「成約」とお父様は呼ばれました。これは天一国の聖約です。神様と天一国国民との間で交わされた聖約だということです。

天聖教877(英語版)
自分では、だんだん下がりながら苦労ばかりしているように見え ますが、だんだん高くなるのです。統一教会は、打たれながら大きくなります。一つの家に10人が住んでいるとすれば、公的な目的のために10人の反対を受けながらも我慢に我慢を重ねる人が、その家庭の主人になるのです。すなわち、天国の主人になるのです。(142-289,1986.3.13)

ここでいう「公的な目的」は社会主義のそれではありません。自由と責任における「公的善」です。自分の後始末は自分でつけること、自分のことは自分で守ること、自分で魚を釣り、木に登り、星を見て天文学の計算をする、そして人工的、皮相的でビデオ・ゲームや韓国ドラマのとりこにならず自然からダイナミックな感動を得ること、以上の事柄を子供たちに教えるのです。生きていることを実感するような本物の感動、神様への讃美を教えるのです。

天国のことを考えると本当に喜びに包まれます。

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