「御国が来ますように」3月20日説教(その3)【英語説教日本語訳】

Thy KINGDOM Come Sanctuary Church Sunday Service March 20th 2016 on Vimeo.png

ルカ4章
4:42夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。 4:43しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。

イエス様は神の国の福音を宣べ伝えるために自分は遣わされたと言っているのです!

一体福音書のどこに「私は十字架で死ぬために遣わされた」とありますか。あれば教えてほしいものです。

イエス様は公の場で一度も「十字架上の死」について語られませんでした。。ある時点になって初めて弟子との個人的な会話の中で語られただけでした。

「宗教」は様々なことを言うでしょう。しかしキリスト者である限りイエス様自身が語られた言葉を真剣に受け止めるべきではないですか。「宗教」の色眼鏡を通して福音書を読むのではなく、福音書によって直接牧会されなければなりません。

イエス様は「神の国の福音を宣べ伝えねばならない」と語られています。
しかも「自分はそのためにつかわされた」と。

これはキリスト教世界にとって衝撃の事実です。あらゆる教派の根幹を揺るがすでしょう。
「私は十字架で死ぬために来た」とはただの一言も語られなかったのです。

「宗教」に埋没するか、イエス様の言葉を素直に受け止めるかのどちらかです。「神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」、これこそ神様のみ言だというのです。

マタイ4章
4:23イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。

宗教のテキストではなく福音書の中のどこでイエス様が「私は十字架で死ぬためにつかわされた」と語っているのかというのです。

マルコ1章
1:14ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の国の福音を宣べ伝えて言われた、 1:15「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

なぜキリスト教会は「神の国の福音」を教えないのか。
1:15「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。そう、「福音を信ぜよ」とあるのです。

はじめてここ(サンクチュアリ教会PA)に来た人はさぞショックを受けたことでしょう。むしろ私はショックを受けることを願います。皆さんはロータリークラブの会員のように「宗教」に属する者ではないでしょう。皆さんはキリストに属する者ですか。

マタイ9章
9:35イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。

カトリック、プロテスタントを問わずあらゆるキリスト教会では「福音」は「十字架→死→復活」だと教えています。それが「良き知らせ(福音)」だというのです。

十字架路程による救いを否定するつもりはありません。しかしイエス様が福音をどう定義しているのかが問題だというのです。イエス様のいう福音とは「神の国」です。十字架ではありません。十字架については説教もしていませんし、復活についての説教もありません。ただただ神の国について説かれたのです。

「宗教・キリスト教」の信徒にとってこの事実を飲み込むことがどうしてそれほど難しいのでしょうか。それは「宗教」になってしまったからです。パリサイ人のようにキリストが分からなくなっているのです。私はこの話に愛を込めて語っています。

キリスト者はクラブの会員ではなくキリストに生命を捧げた者です。宗教ではなく、キリストの福音の一部にならなければならないでしょう。

マタイ24章
24:14そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。

上の「宣べ伝えられるであろう(・・・shall be preached)」のshall beはアメリカ合衆国憲法でも使われていますがきわめて強い意思、命令を示します。「(絶対に)このようになされる」「なさねばならない」という意味です。

ですから「福音は全世界に宣べ伝えられなければならない、そうなる」ということです。ではその福音はどういう福音でしょうか。神の国の福音だということです。キリスト教徒はなぜ神の国の福音を宣べ伝えないのでしょう。福音は神の国です。

マタイ21章
21:43それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。

取り上げられた神の国は天に戻されると言っていますか。それとも想像の世界にあるとでもいうのですか。ニューエイジ・クリスチャンの一部ではイエスから具体的表象を取り去り神の国もなにか心のうちの精神的な作用にしてしまっている人たちもいるのです。

イエス様はどういっていますか。「神の国はあなたがたから取り上げられて、異国人に与えられる」と言っているのです。内なる心理でも感情領域でもありません。

そして異国で神の国は実を結ぶというのです。神の国は地上の具体的な場所に建てられるべきものです。ここからもイエス様は国を作りに来られたことがわかります。イエス様の福音は宗教ではなかったのです。

マタイ8章
8:5さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、 8:6「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。 8:7イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。 8:8そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。 8:9わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。 8:10イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。 8:11なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、 8:12この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。 8:13それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。

先週もこの箇所を見ましたが、百卒長は百人の兵卒の管理者です。政府の役人です。彼はローマ人であり、異教徒です。ヤハウェも信じていませんしアブラハム、イサク、ヤコブの子孫でもありません。異邦人です。この話を読む時、このことを頭に入れておいて下さい。百卒長はユダヤ教徒ではなくローマの神々を信仰する者でした。

しかし彼はイエス様を信じました。

彼が「わたしの僕が中風でひどく苦しんで家で寝ています」というとイエス様は「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われました。

このある権威をもつものが王(イエス)の前に訴えたとき、イエス様は「行って直そう」と言ったのでした。これは珍しいことです。イエスはしばしば群衆から逃れました。しかしここではご自分が出かけて行くと言われたのでした。

百卒長の話を聞いたイエス様は感心されました。そして百卒長を「イスラエル人の中にもこれほどの信仰を見たことがない」と褒めたたえたのです。これを彼に付き従う弟子たちの前で言ったのです。これほどの信仰を見たことがないと。

王国の福音をもたらすべきイエス様は王でもありました。そのイエス様に向かって百卒長はローマ帝国政府の官吏として帝国の秩序に従ってイエス様にお願いしたのです。かつてイエス様のもとに来たもののうちこれほど具体的に王国の内容を持ってきたものがいたでしょうか。いなかったのです。つづく

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