「御国が来ますように」3月20日説教(その1)【英語説教日本語訳】

Thy KINGDOM Come  Sanctuary Church Sunday Service  March 20th  2016 on Vimeo.png

今日はみ言を深く掘り下げたいと思います。
キリスト教の世界では教派にかかわらず「福音」とはイエスキリストの誕生、十字架、死そして復活というのが一般的です。ヨハネの福音書3章16節はその理由を「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを得るためである」と述べています。

もちろん十字架上の死と復活による救済を否定しようとは思いません。十字架路程によって救済はあたえられ人は救われました。原理的には2次的救いではあるにせよ、それを信じる者に救いをもたらしたのです。それゆえにキリストの救いのメッセージ、十字架の苦難、復活による死の克服は真実です。それが誤りだとは言っていません。

しかし、ギリシャ語でいうエバンゲリオ(ευαγγέλιο)つまり「福音」を私たちが語る時、イエス様がそれについて直接語っている言葉を見てみなければなりません。宗教としてのキリスト教信徒のみならず真にキリストに属する者にとってこれは重要なことです。

まず天聖教をみます。

天聖教P130(英語版)

神様は絶対的な父であり、絶対的な真の父母、唯一、不変、永遠の真の父です。
・・・・侍義(じぎ)というのは、生活化天国時代を言います。それで待義を掲げてきたの です。復帰歴史は何かといえば、神様の創造理想(神の国)を実現することです。

お父様は王国と三代王権について語られました。お父様にとって地上天国建設が目的でした。王国は宗教ではありません。その王国は政府などの政治機構を持つものです。

お父様はワシントンタイムズを創刊し、国連に働きかけたり、カインUNでは駄目だとしてアベルUNを創ろうとされたりしました。このようなお父様を見て「私たちは宗教団体なのに」と戸惑った人もいました。しかしイエス様が宗教を創りに来られたのではなかったようにお父様も宗教を立てるために来られたのではありません。関係性です。関係性を築こうとされたのです。

聖書の中のイエス様ご自身のみ言を見てみましょう。イエス様自身で福音とは何かを定義されています。宗教としての各教派の教えが何であれ、またそれが慣れ親しんだものであったとしても、キリストに属するキリスト者である限りキリストがお命じになることを実行しなければなりません。

マタイ伝6章9節から有名な箇所です。イエス様は毎日これを唱えなさいと言われました。

だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。

御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。

わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。

わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。

この祈りはあたかも仏教の中の呪文かマントラであるかのように完全に宗教の中に取り込まれてしまいました。現実の生活と関わりないものとなったのです。宗教的実践の一環として唱えられているのです。

キリスト自身と関係ないものになりました。本来の福音の本質を失ったので教会から若者が離れキリスト教会は力を失ったのです。

イエス様はすべてのキリスト者に「御国がきますように」と毎日祈りなさいと言われるのです。イエス様はこの中でみこころが天だけで行われることを願っていますか。
大抵のキリスト教派では死後、天国に行くと教えていますがイエス様はそんなことをおっしゃってはいません。

「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と毎日祈りなさいとおっしゃったのです。福音はただの霊的ガイダンスではないというのです。それは来るべき神の国についてのイエス様のメッセージであったのです。

王国には領土をはじめ様々な構成要素があります。王と王家、そして血統を中心とする主権を持ち、それをまもる手段も持たなければなりません。そして王を源流とする文化を持つでしょう。

私たちはあまりに宗教的になり過ぎました。実際、イエス様が手を焼いたのも宗教人でした。罪人をその懐に抱きそして許されましたが他でもない宗教人たちを厳しく糾弾しました。「白く塗った墓のようだ」と叱りつけたりもしました。外はきれいにしているが内に偽りがあるというのです。聴衆、友人、会衆から尊敬を受けはしますが偽りものだというのです。真の関係性をもっていません。

多くの牧師が説教の中で高らかにイエスを叫びながらも説教の後には大きな虚無感を感じるのです。どうして聖霊を感じることができないか分からないのです。イエス様は罪人以上に宗教人たちを叱責しました。

宗教人たちの叱責の対象は誰ですか。罪を犯す人々です。その結果彼らは最大の罪人であるというのです。

キリストの福音は教派的教義ではありません。ましてや幸運、富を願って唱えるマントラでもありません。来るべき王国について語ったものだということです。地をおおうべき御国です。全地球に広がらなければならないのです。こういう話は普通の教会では聞かないでしょう。

民主主義のもとで育った私たちには王国の姿を想像することは難しいのです。たとえば大英帝国はどうですか。大英帝国のもとにかつて植民地であったカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの国があります。いまもイギリス女王はそれらの国々の女王です。王国は世界に植民地を持ちますが、もし女王がニュージーランドに居住地を定めるとしたらニュージーランドは植民地と呼ばれるべきでしょうか。ニュージーランドが王国になります。

王の居場所が王国の中心になるのです。また例えばカナダの森林のなかで女王陛下万歳を叫ぶとして女王と英国を具体的にイメージできるものでしょうか。

イエス様は「御国よ来れ」と祈りなさいと言われました。黙示録ではこの地を覆う、この地を支配するとあります。悪なる王国を滅ぼし全地を支配するとあるのです。

イエス様は私たちに「天国に行きなさい」と命じたのではなく「天国がこの地に来ること」を祈れと命じられたのです。お判りでしょうか。その王国の一員となるときその身分はどのようなものでしょうか。「市民」だというのです。

では「市民」は何を持つべきでしょうか。人権です。裁判所でも王の面前でも尊重されるべき権利を持つのです。王国の市民でなければそのような権利を得ることはできません。

王国は宗教と異なるのです。宗教は教会員、信徒で構成されます。王国は市民で構成されるのです。 つづく
 
 
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