1月3日説教 文亨進師 【英語説教日本語訳】 その2

1月3日説教 「生きたみ言」文亨進師 【英語説教日本語訳】 

 

世界中のサンクチュアリに勧めたいですね。

別にこういうものでなくとも聖書でもいいのです。

 神様に「どうか今日のみ言をください」と祈って心のままに素早く聖書を開きます。

 (1人の兄弟が聖書を開いてみ言を読む)

 -呼ぶに答えて、主は仰せになった。全能者と言い争う者よ、引き下がるのか、神を責めたてる者よ、答えるがよい。ヨブ記40:1-2

 このように必ずしもカードは必要ありません。聖書はただの本ではなく、生きたみ言が詰まっています。映画などで古代の書物がゆっくり開くと光が漏れてくるといったシーンがあるでしょう。

聖書の言葉は生きたみ言なのです。その生きた言葉と相互作用するのです。ただ最初から淡々と読み進めていくのではなく、働きかけるのです。神様のみ言はあなたに知恵と知識、そして信仰を与えてくれるのです。霊の賜物をくださる神様と交わるきっかけを与えてくれます。

訓読会でも「お父様のみ言をよんでいればよい。聖書はまた別の機会に…」という人がいますが、イエス様と共におられた神様は再臨主と共におられた方ではないですか。ですから同じみ言です。

イエス様が明かしたみ言はお父様の明かしたみ言と同じです。お父様はみ言の完成級の理解を私たちに教えて下さいましたが、イエス様のみ言から逸脱するものではありません。両者は同じだというのです。原理は聖書を解説するもので、聖書は顧みなくてよいことにはなりません。聖書を打ち捨てておくことは神様のみ言を打ち捨てるのと同じです。聖書は生きた力なのです。つねに働きかけることが必要です。

私たちは原理という観点をもち、完成級の解釈をもっています。聖書の暗号を解読することができますが、わたしたちを導いて下さる神様の霊が必要です。

「今年は髪の色を変えてみよう」とか、「少しやせよう」か、「食事は豆類も食べよう」かなどと、それも結構ですが、「命のパン」はどうですか。あなたに糧を与えてくれる生命の水。

生きたみ言と関わることを今年の生活目標にしてみてください。多くの人は「神様はなぜ私の願いを聞いて下さらないのだろう」と言います。あなたのリマはどうですか、生きたみ言を頂いていますか。答えは「いいえ」です。

なにか問題が起こった時、それを解決しようとするとき、答えてくだるお方がいるにもかかわらず聞かないとするなら、おかしなことでしょう。み言をキャッチして、それについてあれこれ思索することです。そうしたって失うものなど何もないでしょう。み言との関わりを取り戻せば人生が変わります。同じところにとどまることはありません。

神様に対して「あなたのおっしゃることに耳を傾けます」という姿勢が大切です。

ある柔術など総合格闘技をマスターした人が語るのを聞いたことがあります。多くの人がやって来て「練習してもらっていいですか」とやってくるのですが、少し自信のある人は「私と手合わせしてみますか」などと言ってきます。その結果、彼らは打ちのめされて怪我をすることもあるのです。

そうではなく「私はこういう状況での姿勢でこういう場合の戦い方が分かりません。この姿勢からの戦い方を教えてくれますか」という風に、尊敬、敬意を示すとするなら、喜んで教えてくれるでしょう。少しでも生意気で傲慢なところを見せればやられてしまいます。獰猛な格闘家としてではなく先生として扱うのが良いと彼は言いました。敬意を見せることです。

敵であるような人をコーチに変えるのです。神様に対するときも同じことが言えます。神様は瓶の中にいる魔法使いではないのです。「あれをください」「これをください」とだけ言ってあとは見向きもしない。「この傲慢なもの!何もかなえてやらない。」となりませんか。

人に対するように尊敬を示すべきでしょう。神様をみ言を介して接することのできる生きた人格と考えることです。聖句の謎が解けます。創造主と生きた関係を築くのです。すべてご存知です。

「いまここに箱いっぱいのキャンディをください」と神様はそれをかなえてくれることはありません。何故でしょう?(末の子女様に聞かれる)「(神様が)そうすることを続けると人間を甘やかせてダメにしてしまいます」

神様は愛の方であるので人間を損なうことはされないということです。そのようなことをされると怪物人間になってしますでしょう。両親の教育はかくも重要だというのです。神様は決して腐った怪物をおつくりになられません。

訓読会ではただ読むだけではなくこういうやり取りをするので、時には四〇分~一時間に及ぶこともあります。そして格闘技の訓練もするし銃器を扱う訓練もします。

2016年は生きたみ言を生活の一部にして下さい。もう一つ希望される人に本を差し上げます。それは「大工以上のお方(more than a carpenter)」という本です。著者はもともと無神論者でキリスト教徒を科学で実証されない古代、中世の文書を信じる愚か者と思っていた人です。現代人はそのような時代遅れのものを信じないと言い切っていた人です。そこで彼は、その愚かしい書物、聖書を反論してやろうと思ったのです。彼はある時、女友達が「私は変えられた」というのを聞いて「よしてくれよ、そんな宗教を持ち出すのは」というと彼女は「宗教じゃない。イエス・キリストよ」と答えたといいます。

あまりにも多くの人がイエス・キリストとの関わりを宗教だと考えています。私たちは宗教に関心などありません。お父様は宗教を作りに来られたのではないのです。お父様は何度も郭グループ、金グループなどをかき混ぜ、ひっくり返したではありませんか。清平もそうです。お父様が願われたのは「関係性」です。そこが鍵です。

続く

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